時事的要素の話題がほとんど無い、ママが書くこのブログ。
(みみかのツイッターは、すんごいけどね。笑!)
でも、top記事にずっと掲げている「今、目覚めるとき/浄化」は、実はかなりな時事的内容だったりする。
あぁ、あれは、もうかれこれ20年ほど前の出来事だったなあ〜(遠い目)
その当時、受け取ったメッセージ?イメージ?感覚?妄想?を、文章に綴ったもの。
いよいよ、重なる時(時代)がやって来たんだな〜。(溜め息)
いろんな意味で、非常に楽しみである。
余命三年時事日記や、桜井誠さんや、kazuyaくんや、馬渕睦夫さん。
アパホテルの南京大虐殺の件や、DHCの会長メッセージの件などなど。
様々な方向から側面から立ち位置から、本当のこと真実、真理を伝えてくれる存在が有る。
混沌としたこの今、「本物・偽物・似非物」を見分ける必要性が求められる。
日本社会の戦後の縮図、あまりにも「偽物・似非物」が多過ぎた。
だけど、それらはやがて崩壊する。
人々が持つ、見分ける力、見抜く力、見極める力の向上と共に。
どうやって見極める?
限りなく本物に近い 偽物
限りなく偽物に近い 本物
◎ ◎ ◎
「限りなく本物に近い 偽物」
「限りなく偽物に近い 本物」
これを〝見極める行為〟そのものが、〝吾々が生きる〟ことだと思う。
謂わば、〝究極のテーマ〟じゃないだろうか。
では、どうやって「本物」と「偽物」を、さらに「表面上どう観察しても〝本物〟」だけど、「もしかして〝似非物〟」と感じるものを、見分けるかの問題について考えてみたい。
回りくどい言い回しは抜きにして、結論から言おう。
「本物」を見極める事ができる唯一の存在は、「本物」しかないということだ。
同時に「偽物」を唯一見極める存在も、「本物」しかないということ。
さらに「本物の奥に隠された〝似非物〟」を唯一見極める存在も、「本物」しかないということ。
「光のみが闇を消す事ができる」のである。
つまり、相手(現象)に現れた「本物」「偽物」「似非物」を見極める為には、自分自身が「本物」でなければならないということになる。
これが、宇宙の唯一最大のテーマとも言うべきものなんだ。
すべからく、人間として生まれたからには、このテーマを完成させねばならない。
つまり、「自分が〝本物〟になる」ということだ。
今仮に「自分が〝本物〟になる」という言葉を使ったが、これは正確ではない。
正確に言うと「私は〝本物〟である」という自覚に入るということなんだ。
「自覚に入る」ということは「気付く」と言い直しても良い。
ということは、「元々、私は〝本物〟であった」という事実を認める(気付く)という意味だ。
この「元々、私は〝本物〟であった」ということに気付く為に、一切の森羅万象が存在していると言っても過言ではない。
つまり、現象に現れた「本物」も「偽物」も「似非物」も一切の出来事は、この一点の自覚に入る為の〝遊び道具〟に過ぎないとも言える。
「道具」は「道具」であって、良いも悪いもない。
自らの自覚(気付き)・・・「既に私は〝本物〟である」・・・という気付きに超入する為に仮に現れているに過ぎない。
そして、この「自覚」に超入した時、「現象は我が心の影」であるが故に、一切の現象世界は忽然と変化せざるをえないこととなる。
まぁ、「現象世界が忽然と変化する」ことについては、ここのテーマではないので省くとして、元のテーマに戻ろう。
ここでのテーマは「如何に〝本物〟〝偽物〟〝似非物〟を見極めるか?」に絞ろう。
その結論は既に述べた。
「自分自身が〝本物〟である」自覚に超入する以外に道はない、ということなのだ。
では、どうしたら「自分自身が〝本物〟である」自覚に超入するか、という疑問が起るだろう。
「〝私は本物である〟という自覚に入るにはどうすればいいのか?」と思うということは、どういうことかと言うと、「私は〝本物〟かどうか解らない」という世界で迷っている、ということを意味している。
つまり、「自覚したい」と思っている間は、「自覚していない」事を証明していることになる。
「自覚したい」と思っている間は、永遠に「自覚している」世界には入れないことを意味している。
つまり、「真に自覚する」為には、「私は自覚している」ことを認めねばならないのだ。
ということは、「自分自身が〝本物〟である」ことを自覚する為の唯一の方法は、「私は既に〝本物〟である」ことを認める(気付く)しかないということを意味している。
これは一体どういうことかと言うと・・・〝本物〟とは〝完全円満〟ということであり〝神〟ということだ。
それに対して〝偽物〟とは、〝不完全〟であり〝神に非ざる物〟ということを意味している。
つまり、〝偽物〟とは〝本来存在しない現象〟のことである。
ということは、どういう事かと言うと、「私は既に〝本物〟である」ことを認めるということは、「私は〝神自身〟であり、それ以外の何者でもない」という自覚に入る事を示している。
この自覚に入った時、「自分自身が〝本物〟となる」ことになる。
これこそが究極のテーマなのだ。
・・・・焦らず、ノンビリゆっくりやろう(笑)
もう一つここで触れておこう。
「私は〝本物〟である」という自覚は、前述した通り「私は〝偽物〟〝似非物〟ではない」という自覚に外ならない。
つまり、「私は〝本物〟である」という自覚は、同時に「私は〝偽物〟〝似非物〟ではない」ことを明確に表明し、自覚し得ていなければならないことになる。
それはどういう事かと言うと、何時如何なる時であっても、「偽物、似非物を否定する」ことが求められているということだ。
これはどういう意味かと言うと、「私は〝偽物〟ではない」という宣言であるが、これは言葉を返せば、「私は〝現象人間〟ではない」「私は〝肉体人間〟ではない」という、〝偽物の自己の否定〟に外ならない。
中途半端に、〝偽物の自我〟〝肉体人間〟〝現象人間〟を容認している間は、「私は〝偽物〟〝似非物〟である」ということを自ら容認しているのであるが故に、そのような中途半端な心境にあっては、決して「私は〝本物(神自身)〟である」という自覚に入る事はできない事となる。
つまり、「私は〝本物〟である」という自覚に入る為には、徹底的に「私は〝偽物(現象人間・肉体人間)〟である」という迷いから醒めねばならないこととなる。
その「現象否定」「偽物の自我の否定」の徹底の先に、「私は〝本物(神自身)〟である」との真の自覚が忽然と現れることとなる。
しかし、実を言うと、「忽然と現れる」と謂えども、「実相は既に今此処に顕現済み」であることは、永遠の真実であることを知らねばならない。
自覚に入った時、「実相は既に今此処に顕現済み」であり、「久遠の今、私は〝本物(神自身)〟であり続けている」という真実在の世界に、忽然として目覚めるに過ぎないのだ。
元々、全ての人は神であり、全ての人は「わたし」であり、「全ての〝わたし〟」は「既に完全円満」であり、「事成れり」「顕現済み」の世界なのである。
(みみかのツイッターは、すんごいけどね。笑!)
でも、top記事にずっと掲げている「今、目覚めるとき/浄化」は、実はかなりな時事的内容だったりする。
あぁ、あれは、もうかれこれ20年ほど前の出来事だったなあ〜(遠い目)
その当時、受け取ったメッセージ?イメージ?感覚?妄想?を、文章に綴ったもの。
いよいよ、重なる時(時代)がやって来たんだな〜。(溜め息)
いろんな意味で、非常に楽しみである。
余命三年時事日記や、桜井誠さんや、kazuyaくんや、馬渕睦夫さん。
アパホテルの南京大虐殺の件や、DHCの会長メッセージの件などなど。
様々な方向から側面から立ち位置から、本当のこと真実、真理を伝えてくれる存在が有る。
混沌としたこの今、「本物・偽物・似非物」を見分ける必要性が求められる。
日本社会の戦後の縮図、あまりにも「偽物・似非物」が多過ぎた。
だけど、それらはやがて崩壊する。
人々が持つ、見分ける力、見抜く力、見極める力の向上と共に。
どうやって見極める?
限りなく本物に近い 偽物
限りなく偽物に近い 本物
◎ ◎ ◎
「限りなく本物に近い 偽物」
「限りなく偽物に近い 本物」
これを〝見極める行為〟そのものが、〝吾々が生きる〟ことだと思う。
謂わば、〝究極のテーマ〟じゃないだろうか。
では、どうやって「本物」と「偽物」を、さらに「表面上どう観察しても〝本物〟」だけど、「もしかして〝似非物〟」と感じるものを、見分けるかの問題について考えてみたい。
回りくどい言い回しは抜きにして、結論から言おう。
「本物」を見極める事ができる唯一の存在は、「本物」しかないということだ。
同時に「偽物」を唯一見極める存在も、「本物」しかないということ。
さらに「本物の奥に隠された〝似非物〟」を唯一見極める存在も、「本物」しかないということ。
「光のみが闇を消す事ができる」のである。
つまり、相手(現象)に現れた「本物」「偽物」「似非物」を見極める為には、自分自身が「本物」でなければならないということになる。
これが、宇宙の唯一最大のテーマとも言うべきものなんだ。
すべからく、人間として生まれたからには、このテーマを完成させねばならない。
つまり、「自分が〝本物〟になる」ということだ。
今仮に「自分が〝本物〟になる」という言葉を使ったが、これは正確ではない。
正確に言うと「私は〝本物〟である」という自覚に入るということなんだ。
「自覚に入る」ということは「気付く」と言い直しても良い。
ということは、「元々、私は〝本物〟であった」という事実を認める(気付く)という意味だ。
この「元々、私は〝本物〟であった」ということに気付く為に、一切の森羅万象が存在していると言っても過言ではない。
つまり、現象に現れた「本物」も「偽物」も「似非物」も一切の出来事は、この一点の自覚に入る為の〝遊び道具〟に過ぎないとも言える。
「道具」は「道具」であって、良いも悪いもない。
自らの自覚(気付き)・・・「既に私は〝本物〟である」・・・という気付きに超入する為に仮に現れているに過ぎない。
そして、この「自覚」に超入した時、「現象は我が心の影」であるが故に、一切の現象世界は忽然と変化せざるをえないこととなる。
まぁ、「現象世界が忽然と変化する」ことについては、ここのテーマではないので省くとして、元のテーマに戻ろう。
ここでのテーマは「如何に〝本物〟〝偽物〟〝似非物〟を見極めるか?」に絞ろう。
その結論は既に述べた。
「自分自身が〝本物〟である」自覚に超入する以外に道はない、ということなのだ。
では、どうしたら「自分自身が〝本物〟である」自覚に超入するか、という疑問が起るだろう。
「〝私は本物である〟という自覚に入るにはどうすればいいのか?」と思うということは、どういうことかと言うと、「私は〝本物〟かどうか解らない」という世界で迷っている、ということを意味している。
つまり、「自覚したい」と思っている間は、「自覚していない」事を証明していることになる。
「自覚したい」と思っている間は、永遠に「自覚している」世界には入れないことを意味している。
つまり、「真に自覚する」為には、「私は自覚している」ことを認めねばならないのだ。
ということは、「自分自身が〝本物〟である」ことを自覚する為の唯一の方法は、「私は既に〝本物〟である」ことを認める(気付く)しかないということを意味している。
これは一体どういうことかと言うと・・・〝本物〟とは〝完全円満〟ということであり〝神〟ということだ。
それに対して〝偽物〟とは、〝不完全〟であり〝神に非ざる物〟ということを意味している。
つまり、〝偽物〟とは〝本来存在しない現象〟のことである。
ということは、どういう事かと言うと、「私は既に〝本物〟である」ことを認めるということは、「私は〝神自身〟であり、それ以外の何者でもない」という自覚に入る事を示している。
この自覚に入った時、「自分自身が〝本物〟となる」ことになる。
これこそが究極のテーマなのだ。
・・・・焦らず、ノンビリゆっくりやろう(笑)
もう一つここで触れておこう。
「私は〝本物〟である」という自覚は、前述した通り「私は〝偽物〟〝似非物〟ではない」という自覚に外ならない。
つまり、「私は〝本物〟である」という自覚は、同時に「私は〝偽物〟〝似非物〟ではない」ことを明確に表明し、自覚し得ていなければならないことになる。
それはどういう事かと言うと、何時如何なる時であっても、「偽物、似非物を否定する」ことが求められているということだ。
これはどういう意味かと言うと、「私は〝偽物〟ではない」という宣言であるが、これは言葉を返せば、「私は〝現象人間〟ではない」「私は〝肉体人間〟ではない」という、〝偽物の自己の否定〟に外ならない。
中途半端に、〝偽物の自我〟〝肉体人間〟〝現象人間〟を容認している間は、「私は〝偽物〟〝似非物〟である」ということを自ら容認しているのであるが故に、そのような中途半端な心境にあっては、決して「私は〝本物(神自身)〟である」という自覚に入る事はできない事となる。
つまり、「私は〝本物〟である」という自覚に入る為には、徹底的に「私は〝偽物(現象人間・肉体人間)〟である」という迷いから醒めねばならないこととなる。
その「現象否定」「偽物の自我の否定」の徹底の先に、「私は〝本物(神自身)〟である」との真の自覚が忽然と現れることとなる。
しかし、実を言うと、「忽然と現れる」と謂えども、「実相は既に今此処に顕現済み」であることは、永遠の真実であることを知らねばならない。
自覚に入った時、「実相は既に今此処に顕現済み」であり、「久遠の今、私は〝本物(神自身)〟であり続けている」という真実在の世界に、忽然として目覚めるに過ぎないのだ。
元々、全ての人は神であり、全ての人は「わたし」であり、「全ての〝わたし〟」は「既に完全円満」であり、「事成れり」「顕現済み」の世界なのである。