図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
家庭文庫は自己改革を
年に一度のボランティアが集まる交流会があったので、事前に意見を書いて出しておきました。
・書画カメラについて。著作権許諾が不要らしいし、メーカーがデモンストレーションをやってくれるようなので、誰かが企画してほしい。
(回答:これは、ただいま調査中)
・市・県ともに、読み聞かせ講座の講師が家庭文庫関係者に偏っている。子どもに本を読ませたいというのなら、まずボランティア自身が幅広く本を読んで情報をとるべきだと思うがどうか。
(回答:「図書館は偏りのないようにやっている」とのこと。児童図書研究室に本が揃っていますから、とも。)
私は口頭で、「絵本を良しあしで分けるのでなく、違う分け方(構造で分ける)ということが行われているのに、その情報が出てこない。自分は本で読んで初めて知った」などと説明しました。「講師が古い情報しか出さなければ、みんなが遅れて行ってしまう。」とも言いました。
別のタイミングですが「人より本が偉いと習った方もいるかもしれないけれど、私は本と人は対等、または本より人が大事と思っている」とも発言しました。
さて、家庭文庫関係者に偏るということについて、書きたいと思います。この会議の後のプログラムも「石井桃子のDVD」を見る、というものでした。これで偏りがないと言うのかな?と疑問が湧きます。
家庭文庫は、その昔、市井の子どもの様子を自分たちが研究したり図書館に反映させるために始めたものだと聞いています。今の市民活動のようなもんですね。ところが、文庫オーナーは「専門家」でもありますから、やっぱり自分の嫌いな本は置かないし、好きな本を子どもに出会わせてその反応を探ることが研究のようになってきました。良い本で子どもを浄化することに、何の疑問もなかったのでしょうね。だから、「本による浄化」が「崇高な行い」になって続いてきました。「崇高な行い」だからボランティア教育にも使えると思ったのでしょうね。
そして、長い歴史の途中で子どもの権利に関する宣言が出た時も、「自分たち好みの本を与えることが子どもの人権に沿ったもの」と思っちゃったような気がします。専門家意識って、なんて恐ろしいんでしょう。ある程度年齢を重ねると、自分が幼いころに出会った本がなによりも素晴らしいもののように思えてきてしまうものだという、そんな客観性はないんだろうかと思えてなりません。
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