図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
新潟11年間の実験とその失敗
私個人が実際に見聞きし、やったことを元に、推定して書いた独断レポートです。関係者には申し訳ありませんが、同じ間違いを他地域がくり返さないよう、我慢して情報を明らかにしたいと思います。
練習して読み聞かせの場所に行っても、だれも人が来ないつらさは、ボランティア自身しかわかりません。現場をよく知らない講師は、切実さが不足しているか、「自分は偉いからなんでもわかる」と思っているのだと思います。
「旧新潟市・図書館集団読み聞かせの実験と報告」
実験目的:子どもの文化水準を上げる
子どもを読書に導く
実験方法:良い本を選び、集団読み聞かせの会をする。
昔話本の中から「語るに足る」話を選び出し、文を暗記し、
それを正確に届けるような語り方をストーリーテリングと呼んで推し進めた。
昔話理論を学び、正しい昔話を普及させ、
理論に当てはまらないものは格の低いものとした。
実験期間:私が関わったのは平成7年から18年
(図書館ではもう少し前からやっていた)
実験場所:新潟市内数館の図書館の読み聞かせの場所、子育て支援の場所
昔話理論は昔ばなし大学で。
関わった人:市内読み聞かせボランティア数十名。
指導者:東京子ども図書館の教育を受けた人
図書館司書の資格がある人
それらを取り巻く人
推薦図書:『児童文学論』『えほんのせかいこどものせかい』
『お話を語る』他東京子ども図書館のレクチャー本
小澤俊夫の昔話研究書各種
結果:市民の立場で
いつも聞き手が少なかった。
学童クラブの、聞き手としての集団参加が一時期あった。
授業で、昔話の本の暗誦を聞くことができた。
授業よりは良かったが、子どもたちは偉い大人の姿を見せつけられた。
頼りなさげな語りから、子どもは大人の至らない部分も知り、安心した。
絵本を読み聞かせることはなんとなく良いことらしいという概念
が広がり、適当に選んだ本で、家庭での読み聞かせが盛んになった
のではないか。
ボランティアの立場で
新潟昔ばなし大学が何度か行われた。
より専門性独自性が進み、大学受講生が、受講しない人を
評価する目で見るようになった。
テキスト本が固定化していった。
現場の経験の幅が狭くても、自分の理論が誰にでも通用すると
思う人もでた。
ボランティア団体の入会者が少なく、退会者が多かった。
団体内でも絵本の選書の傾向を決めるようになった。
傾向にあわない本を提示する人には、
排除をちらつかせ転向を迫る団体もあった。
団体内でなにか起こるたびに、講師など団体外の人に指示を受け
それを守るようになった。
つまり、ボランティアや本に階級ができて、権力者をトップに上下感覚
がある状態になってしまったということ。
誰にでも通用する「良い本」というものが存在するかのような
感覚が身についた。
誰にでも通用する「注意する本」というものが存在するかのような
感覚が身についた。(作者名の記載がないというようなことは別として)
何年経っても新しい理論や研究結果を紹介しない講師が来ることに、
不信感を抱かなくなった。
絵本や語りについて、その「歴史」の説明を受けずに始めることに
違和感を持たなくなった。
大声や権威ある声、優しい諭すような声を使って、異論を言う人の欠点を指摘し
それ以上言わせないようにする人が、複数現れた。
自分の考えを話すことを、恐れるような気分になった。
総合評価すれば、失敗だと思う。
振り返って: 「読み聞かせ」という言葉が家庭に広まったのは成功でした。
集団読み聞かせに聞き手が集まらないのに絵本の貸し出しが増えた
というのは、皮肉なことでした。
それは集団読み聞かせをしてもしなくてもどっちでも良かった、
ということでしょう。ただ、メディアがよく取り上げたから
「あれなら、家でやった方がいいかも」という親が多かったのかな?
それでも子供の本離れは進んだのだそうです。
そんな中、ズッコケとかゾロリなどはしっかり受け入れられたのだから、
その辺から研究すればよかったね。私は門外漢だけど。
40年前の新潟市の研究会から歴史をたどってみると、
家元の指摘どおり「数十年後に効果が現れ」
子どもたちは柔軟さを失くし、緊張しています。
失敗と認めて反省し、利用者の希望を聞き、
現場の人間を大切にしたやり方を
これから考えていきたいと思います。
練習して読み聞かせの場所に行っても、だれも人が来ないつらさは、ボランティア自身しかわかりません。現場をよく知らない講師は、切実さが不足しているか、「自分は偉いからなんでもわかる」と思っているのだと思います。
「旧新潟市・図書館集団読み聞かせの実験と報告」
実験目的:子どもの文化水準を上げる
子どもを読書に導く
実験方法:良い本を選び、集団読み聞かせの会をする。
昔話本の中から「語るに足る」話を選び出し、文を暗記し、
それを正確に届けるような語り方をストーリーテリングと呼んで推し進めた。
昔話理論を学び、正しい昔話を普及させ、
理論に当てはまらないものは格の低いものとした。
実験期間:私が関わったのは平成7年から18年
(図書館ではもう少し前からやっていた)
実験場所:新潟市内数館の図書館の読み聞かせの場所、子育て支援の場所
昔話理論は昔ばなし大学で。
関わった人:市内読み聞かせボランティア数十名。
指導者:東京子ども図書館の教育を受けた人
図書館司書の資格がある人
それらを取り巻く人
推薦図書:『児童文学論』『えほんのせかいこどものせかい』
『お話を語る』他東京子ども図書館のレクチャー本
小澤俊夫の昔話研究書各種
結果:市民の立場で
いつも聞き手が少なかった。
学童クラブの、聞き手としての集団参加が一時期あった。
授業で、昔話の本の暗誦を聞くことができた。
授業よりは良かったが、子どもたちは偉い大人の姿を見せつけられた。
頼りなさげな語りから、子どもは大人の至らない部分も知り、安心した。
絵本を読み聞かせることはなんとなく良いことらしいという概念
が広がり、適当に選んだ本で、家庭での読み聞かせが盛んになった
のではないか。
ボランティアの立場で
新潟昔ばなし大学が何度か行われた。
より専門性独自性が進み、大学受講生が、受講しない人を
評価する目で見るようになった。
テキスト本が固定化していった。
現場の経験の幅が狭くても、自分の理論が誰にでも通用すると
思う人もでた。
ボランティア団体の入会者が少なく、退会者が多かった。
団体内でも絵本の選書の傾向を決めるようになった。
傾向にあわない本を提示する人には、
排除をちらつかせ転向を迫る団体もあった。
団体内でなにか起こるたびに、講師など団体外の人に指示を受け
それを守るようになった。
つまり、ボランティアや本に階級ができて、権力者をトップに上下感覚
がある状態になってしまったということ。
誰にでも通用する「良い本」というものが存在するかのような
感覚が身についた。
誰にでも通用する「注意する本」というものが存在するかのような
感覚が身についた。(作者名の記載がないというようなことは別として)
何年経っても新しい理論や研究結果を紹介しない講師が来ることに、
不信感を抱かなくなった。
絵本や語りについて、その「歴史」の説明を受けずに始めることに
違和感を持たなくなった。
大声や権威ある声、優しい諭すような声を使って、異論を言う人の欠点を指摘し
それ以上言わせないようにする人が、複数現れた。
自分の考えを話すことを、恐れるような気分になった。
総合評価すれば、失敗だと思う。
振り返って: 「読み聞かせ」という言葉が家庭に広まったのは成功でした。
集団読み聞かせに聞き手が集まらないのに絵本の貸し出しが増えた
というのは、皮肉なことでした。
それは集団読み聞かせをしてもしなくてもどっちでも良かった、
ということでしょう。ただ、メディアがよく取り上げたから
「あれなら、家でやった方がいいかも」という親が多かったのかな?
それでも子供の本離れは進んだのだそうです。
そんな中、ズッコケとかゾロリなどはしっかり受け入れられたのだから、
その辺から研究すればよかったね。私は門外漢だけど。
40年前の新潟市の研究会から歴史をたどってみると、
家元の指摘どおり「数十年後に効果が現れ」
子どもたちは柔軟さを失くし、緊張しています。
失敗と認めて反省し、利用者の希望を聞き、
現場の人間を大切にしたやり方を
これから考えていきたいと思います。
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