写真は『軍神の母』1画面目。タイトル文字は別になっていて、それを引き抜いた後の画面。コピー画面を写真で撮りました。折り目が光っていてすみません。画面右端は傷んで少しちぎれていました。
会員さんが新潟市立歴史博物館の「戦争とくらし」の企画展を見に行かれた時、「他にもいくつか古い紙芝居がある」との情報を聞きつけて、私に連絡を下さいました。
25日に伺って、学芸員さんの説明つきで、見せていただきました。街頭の手描きのものでなく、戦争協力の紙芝居でした。
あったのは『お婆さん学校』(懸賞入選作。東京市役所の発行、制作は大日本画劇株式会社)、『軍神の母』(制作は日本教育紙芝居協会、発行は日本教育画劇株式会社)、 『どんぐりの出征』(大日本画劇株式会社の発行)の3巻です。
『軍神の母』は当時人気のあったものらしく、たくさん印刷されて現在もあちこちの博物館などで保管されているようです。ネットオークションにもでていましたね。題字だけが赤い紙に印刷されていて、「差し込みを抜く」などと説明されていますが、差し込みの紙が薄いので引き抜くのに大変だったんじゃないかと思いました。どれも結構長い作品で、昔は紙芝居を「じっくり」見るのが普通だったのでしょうか。
その場で自分で手に取って文と合わせて開いて読んでみたかったですが、そういうわけにもいかず、表紙と脚本のそれぞれ1枚づつをコピーするだけにしました。
その他に、学芸員さんが昭和20年の『新潟県年鑑』(新潟日報社/刊)を開いて見せてくれました。そこには、当時の県内の紙芝居団体の名前がたくさん書かれていて、私に何か知識ないか尋ねたかったようですが、私は「へえ~」と思っただけでした。どうもすいません。また、「昭和20年のことが書かれているのだから昭和21年の年鑑が欲しい」などと仰り、「その通り、私も見てみたい」と内心思ったりもしました。戦争中の資料って、結構あとで燃やされたりしたそうだから、探すのは大変なことなのでしょう。
家に帰ってから『子どもの文化』誌の今年の夏の合併号を見たり、鈴木常勝さんの『メディアとしての紙芝居』を見直してみたりしたのですが、当時の人々がこういった印刷紙芝居を見てどんな風に思ったのか、本に記述があってもどうしてもピンとこないのです。また、『紙芝居の歴史』の本に、「人々は、たとえ戦争協力であっても物語に飢えていた」みたいな記述があって心に残っているのですが、娯楽が極端に少ない時代に、紙芝居は人々の楽しみになっていったのかな、という感じを受けます。作家だって、国策に心から賛同して描いた人と、変だと思いながらなんとなく引きずられた人、そんな状況だからこそ物語を作りたいと思った人、いろいろいたことでしょう。
今も図書館でやっている 「良書を勧めましょうね」の掛け声に、心酔してその通りにする人、変じゃないのと思いながら適当にやる人、ただ単に物語が好きな人。人の心や状況はいつの時代も変わらないような気がします。
脇明子さんの講演から察すると、図書館はなんとしても「良書優先」でやりたいらしい。それは国策ならぬ市の政策?。でもそんなこと活動計画のパンフにはどこにも書いてないと思う。いつの時代も、上目づかいで権力に媚びる大きな流れはあるのでしょう。ある地域では「この絵本で良いでしょうか」と地域のお局様に自分で選んだ絵本を「吟味」してもらう新人があとを絶たないとか。市民が率先して戦争遂行に心を寄せていった様子と同じものがあります。