鳥屋野図書館の絵本の書架を見ていたら『ぼうぼうあたま』という本がありました。思わず引き抜いて表紙を見ると、見覚えのあるイラストがありました。イラストは『もじゃもじゃペーター』です。タイトルも似ているし、中を読んでみると、確かに「もじゃもじゃペーター」でした。
絵本に詳しい知り合いに「今まで棚にあったのを見たことがある?」などと尋ねてみると、「なかったと思う」とのこと。これはいつから棚に入ったのだろう。私にとっては、嬉しいことです。
私がどうしてこの本を知っていたかというと、本田和子(ほんだますこ)の本『異文化としての子ども』(筑摩書房1992)を読んだからです。子どもの文化について、自分の意識の軌道修正が必要なときでした。子どもの生々しさや野生について、この本には『あなはほるものおっこちるとこ』『もじゃもじゃペーター』などを引用して詳しく書かれていましたので、その時に読んだのではないかと思うのです。もう10年以上も前のことでしょうか。その時にはきっと取り寄せて見たと思うのですが、棚にあったのか書庫にあったのか、記憶にありません。『異文化としての子ども』と『もじゃもじゃペーター』の内容は、なかなかショッキングなものでした。でも、子どもを異文化の人として認識する大切なきっかけになったことは、間違いありません。思えば、自分だって子どもをなだめすかし、時には脅かし、勝ったり負けたりしながら育ててきたのだから、当たり前の内容でもあるわけです。
自分の息子が小学校の低学年だった20年位前、私は、図書館おすすめの古典児童書を盛んに息子に勧めました。自分でも数冊は読みました。面白いのもあったし、そうでないのもあった。そんなことを繰り返したある日、息子は我慢しきれなくなったように、「引っ張るな!」と叫んだのです。私はしおしおと「そうだね」と言い、そういうことを止めました。それはきっと異文化のぶつかり合いだったに違いありません。子育ては、あきらめの繰り返しでもあるのでしょう。
ちなみに息子はその後、スポーツ系の部活で、友達を作りいろいろな葛藤を乗り越え、中学生の時は忙しいながらも私がまとめて借りてくる大人の本の中から気に入ったものだけ選んでたまに読み、塾やら遊びやら冒険やらを繰り返し、大学生になり、普通に育ちました。だから古典を読まないと心配するお母さんたちに、「心配ないよ」と言ってあげたいです。
息子は「引っ張るな」と言えましたが、言えない子どもも多いでしょう。親が読書ボランティアをしている人の子どもが、ちょっと心配です。
今年、新潟市では教育委員会お勧めで脇明子の講演会があり、大勢のボランティアがそれに参加したことかと思います。右に左に陽炎のように揺れる人の感性の中、良書回帰は必要なことかも知れませんが、大勢の子どもの悲鳴が聞こえるような気がしてなりません。
せっかく大枚はたいてブックスタートをやり、選書自由の三分間読書をやり、本に親しんでもらうきっかけを作ったのに、権力を振りかざす教育者の思いはそんなに大きいのかと慄然としています。
もちろん、他人は全て異文化の人と思って接したほうがいいに違いありません。それとは別に、厄介なことに、他から自分に対しては「同調圧力」のようなものが常に襲ってくることも感じています。そしてそれは、「教育だ」「ステップアップだ」という言い方で怒鳴られているようにも感じますし、あたかもそれが正しいことのように思わなくてはならない状況になっているんだなと感じます。こんな昨今ですが、自分自身に、ぼちぼち行こうぜと、つぶやいています。