図書館・語り・紙芝居・集団相手の絵本よみ・ボランティアなどについて書きます。
絵解きボランティア
自分の言葉、暗誦言葉
★十年以上も前
初めて語りの講座を受けたとき、講座の最後の質問コーナーで、
「頭の中には何があるのですか?原稿用紙ですか?」と質問して、周囲の失笑を買ってしまいました。「お話の情景があるのです」というような答えだったのを覚えています。 原稿を読んでいるみたいだな、と思ったのは「じゃ、私だけ?」と思いました。
また、「良い語り手は良い聞き手」と言われて一生懸命聞こうとする会場の様子が、何か異様な感じがして、そんなこともあって「おはなし」のコースには行かないことにしました。絵本の読み聞かせばかりやって、転居があったりして、新潟にもどってきてまた、おはなしの講座を受けて、少しづつやりはじめました。
★何か問題が起こると、
頭の中で「えーっと、これについてはどういうふうに書いてあったっけかな」といろんな本の該当ページをめくるような感覚があり、気づいた人から早いもん順に答えを発言して「あー、そうだったわね」とみんなで納得するケースがありました。本当に本を暗記してそれを復唱しているようでした。
★集まりで発言を求められても
自分の言葉がいつの間にかどこかに書いてあった言葉にダブっている、それどころか嬉々として復唱しているみたいだ、とゾッとすることもありました。その路線でいいのだ、子どものためにいいのだと繰り返し言われているような感覚もありました。
5,6年前になるか、ラジオインタビューで「おすすめの絵本は?」と突発的に質問されて「図書館の方に聞いてください」と答えたとき、どうしてそう答えたのか、自分でも落ち込んだこともありました。自分の好きな本も、人に語れない。
やっぱりその頃、他の集まりで、語りのグループの人たちの挨拶を聞いていて、「書いてあることを暗誦しているみたいだ」と驚いたことがあります。別の人も「リッパな挨拶で」と冷やかし気味に言っていた。どうしてこうなったんだろう。
★グリム童話とか日本の昔話とか
そういったものを暗記して語ることを習慣にしていると、それだけが問題なのではなく、数年後には、上に書いた状態になりやすいのではないか、というのが私の、今、思うことです。
★そうそう
私も「あなたの声は聞きたくないわよ」などと言われました。別の方も言われたと別の資料で最近読み、そういう言葉を吐くその人も、言葉を暗誦するようにどこからか伝染してきているのではないかと思えるのです。
そう言われた時は、涙が出て仕方がなかったけれど、涙で流して発散し、また元の活動に戻りました。そういうことも、何か心理的な支配を強める方法ではないでしょうか。
★ある理論と逆の理論が別のページに書いてある
そんなことが散見されたり、方針がコロコロ変わると思ったことはありませんか。
「いろんな声で語った方が変化があっていいから、数人でおはなし会をしましょうね」という方向で来ていたかと思うと、「語り手が変わるたびに、聞き手は耳の調整をしなくてはならないから、変わらないほうがいいです」と、いきなり言われたりしました。
「子どもは話のつじつまの合わないことには拒否反応をする」というような文があると思うと、次のページでは「子どもはありえない展開に楽しみを感じる」ような文がある。つまり、「子どもはこうだ」と言ってしまうことによって自分の理論を進める様子がありました。
こうなると、その人の理論を取り出して他人に説明するのは、自分の首を絞めるようなものです。参考にするけど、すこし離れた方がいいと思うようになりました。
★「文は一人歩きする」にしたって、
じゃあどうして「文の集まり」である「本」を大切にして読書活動を推進させようとしているのか、疑問でした。結局、失敗や糾弾されることを恐れて証拠になるような文を書かなくなるし、順を追って自分で考えを構築することもしなくなります。書いてあること・言われたことを自分で検討することもなく、鵜呑みにするしかなくなります。
★暗記してなるべくそのまま語る、
そのようにするためには「なるべく相手がわかるようにしよう」「相手が楽しめるように工夫しよう」という気持ちを抑えなくてはなりません。「きっと退屈だろうな、ごめんね」と思いながらやっていたよね。
★ 暗誦型の語りには、こういった悪い面があることを、書いておこうと思います
★ いいこともあるでしょう、別の機会に書きます。
★紙芝居でもよく言われるんだけど
「この脚本は、専門の先生が深い配慮と推敲をもとに作った文です。私たちのようなものが気楽に変えて、失礼ではないですか」ですね。森進一問題もあるしなー。
これは、おはなしを、タネ本を暗記して語るときにも言われることです。
だからね、考え続けて、変えたい人は変えればいいし、そうでない人はそのままでどうぞ、ということです。聞き手の様子を気にして、どっちでもいつでも移動が自由にしておくことが大事かなと思います。
★私が言いたいのは
新潟では十年以上暗誦型でやってきて、おはなし会は子どもが来ず、夜に大人だけが来るようなおはなし会としてやるしかなくなりました、子どもには授業に入ることで伝えることしか出来なくなりました、という事実です。
大勢のボランティアが無駄な時間を費やし、悲しい思いをし、よく分からないお金を使い、お互いをキズつけた、という事実です。子ども自らが楽しんで語ることもなくなりました。これでは次の世代に引き継げないということです。
延々と続いてきた「楽しみのための口承によるおはなし」はここで止まることになるのでしょうか。私は、なんとかしたいと思うのです。
★黒埼の方がこの冬に黒埼公民館で講座をやられました。
が、私はその方のやり方を知っています。初心者が語ると「そこはこのようにね」と言って自分がお手本をちょっと語り、そのように真似させます。情けないことに私も、一緒に読んでみましょうと参加者と声を合わせて読む読み聞かせ講座もやったことがあります。数年後、2度目に行った時に謝りましたが、これではマズイですね。
「絵芝居」にも投稿しましたが、語り婆さは「講習を受けて語った訳ではない」のです。ですから講座を開いて語り口の指導をする時点で認識不足だということが分かります。「紙芝居の窓」に何度か書きましたが基本知識がなく、他にも指摘したい部分があり、これ以上書けませんが、なんとか別の方法で探らなくてはなりません。
★その講座を企画した方集まった方、受けなかったけれど昔ながらの語りを持っていらっしゃる方、そしていわゆる暗誦型の方、
それらの方が共に語る場所を持ち、それらが「語り口の指導」「内容を上下に区分け」されることなく保存され継承される状況を作っていきたいと思います。思っているだけでどうしていいかわからないけど。
さて、これからです。みんなで考えませんか。まだ、「先生について習いましょ」ですか?
初めて語りの講座を受けたとき、講座の最後の質問コーナーで、
「頭の中には何があるのですか?原稿用紙ですか?」と質問して、周囲の失笑を買ってしまいました。「お話の情景があるのです」というような答えだったのを覚えています。 原稿を読んでいるみたいだな、と思ったのは「じゃ、私だけ?」と思いました。
また、「良い語り手は良い聞き手」と言われて一生懸命聞こうとする会場の様子が、何か異様な感じがして、そんなこともあって「おはなし」のコースには行かないことにしました。絵本の読み聞かせばかりやって、転居があったりして、新潟にもどってきてまた、おはなしの講座を受けて、少しづつやりはじめました。
★何か問題が起こると、
頭の中で「えーっと、これについてはどういうふうに書いてあったっけかな」といろんな本の該当ページをめくるような感覚があり、気づいた人から早いもん順に答えを発言して「あー、そうだったわね」とみんなで納得するケースがありました。本当に本を暗記してそれを復唱しているようでした。
★集まりで発言を求められても
自分の言葉がいつの間にかどこかに書いてあった言葉にダブっている、それどころか嬉々として復唱しているみたいだ、とゾッとすることもありました。その路線でいいのだ、子どものためにいいのだと繰り返し言われているような感覚もありました。
5,6年前になるか、ラジオインタビューで「おすすめの絵本は?」と突発的に質問されて「図書館の方に聞いてください」と答えたとき、どうしてそう答えたのか、自分でも落ち込んだこともありました。自分の好きな本も、人に語れない。
やっぱりその頃、他の集まりで、語りのグループの人たちの挨拶を聞いていて、「書いてあることを暗誦しているみたいだ」と驚いたことがあります。別の人も「リッパな挨拶で」と冷やかし気味に言っていた。どうしてこうなったんだろう。
★グリム童話とか日本の昔話とか
そういったものを暗記して語ることを習慣にしていると、それだけが問題なのではなく、数年後には、上に書いた状態になりやすいのではないか、というのが私の、今、思うことです。
★そうそう
私も「あなたの声は聞きたくないわよ」などと言われました。別の方も言われたと別の資料で最近読み、そういう言葉を吐くその人も、言葉を暗誦するようにどこからか伝染してきているのではないかと思えるのです。
そう言われた時は、涙が出て仕方がなかったけれど、涙で流して発散し、また元の活動に戻りました。そういうことも、何か心理的な支配を強める方法ではないでしょうか。
★ある理論と逆の理論が別のページに書いてある
そんなことが散見されたり、方針がコロコロ変わると思ったことはありませんか。
「いろんな声で語った方が変化があっていいから、数人でおはなし会をしましょうね」という方向で来ていたかと思うと、「語り手が変わるたびに、聞き手は耳の調整をしなくてはならないから、変わらないほうがいいです」と、いきなり言われたりしました。
「子どもは話のつじつまの合わないことには拒否反応をする」というような文があると思うと、次のページでは「子どもはありえない展開に楽しみを感じる」ような文がある。つまり、「子どもはこうだ」と言ってしまうことによって自分の理論を進める様子がありました。
こうなると、その人の理論を取り出して他人に説明するのは、自分の首を絞めるようなものです。参考にするけど、すこし離れた方がいいと思うようになりました。
★「文は一人歩きする」にしたって、
じゃあどうして「文の集まり」である「本」を大切にして読書活動を推進させようとしているのか、疑問でした。結局、失敗や糾弾されることを恐れて証拠になるような文を書かなくなるし、順を追って自分で考えを構築することもしなくなります。書いてあること・言われたことを自分で検討することもなく、鵜呑みにするしかなくなります。
★暗記してなるべくそのまま語る、
そのようにするためには「なるべく相手がわかるようにしよう」「相手が楽しめるように工夫しよう」という気持ちを抑えなくてはなりません。「きっと退屈だろうな、ごめんね」と思いながらやっていたよね。
★ 暗誦型の語りには、こういった悪い面があることを、書いておこうと思います
★ いいこともあるでしょう、別の機会に書きます。
★紙芝居でもよく言われるんだけど
「この脚本は、専門の先生が深い配慮と推敲をもとに作った文です。私たちのようなものが気楽に変えて、失礼ではないですか」ですね。森進一問題もあるしなー。
これは、おはなしを、タネ本を暗記して語るときにも言われることです。
だからね、考え続けて、変えたい人は変えればいいし、そうでない人はそのままでどうぞ、ということです。聞き手の様子を気にして、どっちでもいつでも移動が自由にしておくことが大事かなと思います。
★私が言いたいのは
新潟では十年以上暗誦型でやってきて、おはなし会は子どもが来ず、夜に大人だけが来るようなおはなし会としてやるしかなくなりました、子どもには授業に入ることで伝えることしか出来なくなりました、という事実です。
大勢のボランティアが無駄な時間を費やし、悲しい思いをし、よく分からないお金を使い、お互いをキズつけた、という事実です。子ども自らが楽しんで語ることもなくなりました。これでは次の世代に引き継げないということです。
延々と続いてきた「楽しみのための口承によるおはなし」はここで止まることになるのでしょうか。私は、なんとかしたいと思うのです。
★黒埼の方がこの冬に黒埼公民館で講座をやられました。
が、私はその方のやり方を知っています。初心者が語ると「そこはこのようにね」と言って自分がお手本をちょっと語り、そのように真似させます。情けないことに私も、一緒に読んでみましょうと参加者と声を合わせて読む読み聞かせ講座もやったことがあります。数年後、2度目に行った時に謝りましたが、これではマズイですね。
「絵芝居」にも投稿しましたが、語り婆さは「講習を受けて語った訳ではない」のです。ですから講座を開いて語り口の指導をする時点で認識不足だということが分かります。「紙芝居の窓」に何度か書きましたが基本知識がなく、他にも指摘したい部分があり、これ以上書けませんが、なんとか別の方法で探らなくてはなりません。
★その講座を企画した方集まった方、受けなかったけれど昔ながらの語りを持っていらっしゃる方、そしていわゆる暗誦型の方、
それらの方が共に語る場所を持ち、それらが「語り口の指導」「内容を上下に区分け」されることなく保存され継承される状況を作っていきたいと思います。思っているだけでどうしていいかわからないけど。
さて、これからです。みんなで考えませんか。まだ、「先生について習いましょ」ですか?
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