わらべうた講習会に思う

かつて、わらべうた講習会に出たことがありましたが、振り返ると割り切れない気分になることがありました。それは、

① 「わらべうた」は子どもが遊びでやるものだというスタンスをもっと大事にしたらどうかと思うことが多い。遊びなのに「ちゃんとしたわらべうたを教わる」という感覚が講習会で見えてくると、なんだか悲壮感と違和感に襲われる。

② 図書館の講習会は、コダーイ研究所が提唱するものが 割合として多すぎる。古風なのは良いのだが、そこから進展がない。「手の振りなどを変えちゃだめだ」的な雰囲気がする。ハンガリーの学者の理念は大切だが、子ども学の研究についていっているのか分からない。また、そのハンガリーの学者の流れを汲む本家(?)がハンガリーの子どもにどんな教育をしているのか、それが現在受け入れられているのか、情報公開されていないのでわからない。

③ 講師が教えてくれるものが、難しすぎる。「教える」のだから「今までに無い物」「レベルアップしたもの」と思っちゃうんだろう。果ては音楽の先生が教えるような難しい知識までついてまわる。

④ 講習会を受けても、内容をすぐ忘れる。なんか騒いで来たなということだけ覚えている。

⑤ 講師を含めて大人の発散会場になっている。
    絵本の読み聞かせの間の「わらべうた」。絵本を静かに聞かせることに執着すると、どうも息が詰まる⇒わらべうたコーナーで発散できるし、歌が好きな人にとっては歌える機会でもある⇒声に自信のある人は歌い上げちゃう⇒親子連れが「ひく」。こんな循環があるように思う。
別の面もある。わらべうたの指導者はわりと美声の持主が多いので、ホンネはその声に癒される面が大きいのだと、時々思う。社協の冊子で見たんだが、わらべうた講師のことを「先生」と呼んでいる様子。講師は親子連れを癒すことも大切だと自覚されているといいと思う。その反面、若い母親の依存心も育ててしまうと思う。「依存を断ち切る」気持ちはお持ちだろうか。

⑥ 実際に、子どもが学校などで自発的にそれで遊んでいるのかどうか、調査がされていない。昼休みの光景を見ると「こおりおに」などは見かけるが、それ以外は定かでない。ネット上でたまに子どもがやっている映像があるが、アップするのは大人。子どもに相手にされていないのではないかと思うことがある。子どもの遊びはどれも一過性で、次から次へと現れては消え、あるいは校区をまたぐと違うものになったり、とても流動的に思えるのだが、誰か専門家が調査してほしい。

⑦ 災害の避難所など、特殊な状況でとても役に立つような気がするし、そういうサイトもある。大人が子どもと交流するときの手段でもあるので、「交流」という視点から見ると、子どもの発案したものを大人がやってはじめて「交流」になるのだ。大人が子どもの発案を引き出す努力をしているか、とても不安だ。

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