「初心に帰る」の初心とは

絵本の読み聞かせボランティア講座では、各方面から指導者が来て、いろいろな方面から説明があります。そのことはよしとして、あくまでボランティアというのは、市民の自発的活動がもとになっていますから、方向まで特定の指導者の指示に沿っていくものでなく、ボランティアが現場の状況を見て、より、市民と同じ目線での活動を模索していく力をつけることが大切だと思っています。

まず、絵本の読み方や読み込み方を特定方向に指導することに対して異論を唱えます。以前から、たびたび書いてきました。理由を書きます。

1、 読みこみ方というのは「めいめいの人の感性」であり、それを音読するということは、「めいめいの人の表現」です。
それを朗読理論にあわせさせよう、あるいは図書館活動は福祉とは違うのよとばかりに特定勢力の解釈に限定させよう、というのは個人の感性や表現活動を限定させることであり、人権侵害にあたると思います。
 ただ、表現はモラルに制限されると私も思うので、関る人相互の意見交換により、語り手がその結果として主体的に模索していくことも大切でしょう。

2、『児童サービス論』を各種読んでも、「読み方はこのようにしましょうね」という風な限定された記述はありませんでした。
 ボランティア講座が20年位前に始まったときから、受講生が読み、指導者が読み方を講評するスタイルが続いてきましたが、これがそもそもおかしいのではないかと思います。
 私は、「フラワーアレンジメント」の体験会に出た時に、自分の作ったものを「先生、いかがですか」と先生に個別指導を受ける様子を目の当たりにしました。これと同じ。読み聞かせはお稽古事ではないはずですから、講師の講評そのものが不要だと思います。
 指導者は、児童サービス論を読んでいないか、自分が得意な朗読感覚を付け加えたのではないでしょうか。付け加えたのであれば、それなりの理由が構築された文章がどこかに残っているはずです。県の講座では、読み方だけで何回も指導がされました。「やりたいんだろうな」とは思いましたが、その結果が上記1に書いたように、各自の人格に踏み込むのが平気なボランティアが増えています。自分が踏み込まれると、他の人にも踏み込んでいいという感覚になります。これが鎖のように連なっている状態ですので、どこかでこの鎖を切る必要があります。

3、 読んで感じることと、それを表現することは、使う技術が違います。読んで理解したからといって、上手く口に出して朗読できるかと言うと、それは個人の能力の違いでしかないのです。
 いろいろな人と交流していると、「良く理解しているのに読み方が違うな」と思うことが結構あります。人間の脳の働きの不思議さや個性を感じる時でもあります。それをそのまま尊重して残しておくことは大切だと、私は思っています。違う個性を認めることが、人間の多様性を認めることにつながり、人間が暮らしやすくなる第一歩ではないでしょうか。
 当人は内容を理解しているのに、講師に「読み方がおかしい」と指弾されて、つらい思いをするボランティアを増やすべきでないと考えています。

4、「聞いていると引き込まれるようだ」という上手い読み方は、聞き手にとっては苦労しなくても情景が浮かぶ「依存的読書」です。
 対して、「上手くない」読み方は、聞き手が主体的意思を持って耳を傾ける必要があります。自分が相手を受け入れようと意識的に前向き姿勢を保ちながら進める作業です。黙読するのと同じ、脳のあちこちに自分でムチをくれながらの「主体的読書」でしょう。
これは、どちらも大切な働きです。
 子ども相手に語るのならば、むしろ聞き手に「主体的」に頭を働かせてもらったほうが、相手の想像力が育つことにもなり、「自分が下手で笑われても、相手のためになる」わけです。これは、「口下手の紙芝居屋(『街角の子ども文化』本の抜粋部分をご覧下さい)」に書いたように、自分の能力が低いことの結果、相手の能力が引き出され相手が育つ、「相手さえ良ければ」の境地ですね。
 まあね、依存型・主体型どっちでもいいですが、上手く読めるまで人前に出られないのでは、後者部分が欠落してしまいます。

5、 私は20年近くやってくる最中に、おはなし会の参加者の様子から「自分たちが間違っているのではないか」と感じることは多かったのです。しかし、そこでいつもどこからか聞こえてくるのは、「初心に帰って(返って)」という美しい言葉です。集団でいると、必ず優等生がいます。習ったことが正しいと思い込み、その場で一番美しい発言をしたがる人というのが、必ずいるのです。私を含めて誰もが、一時期そういう感覚に染まることがあるのかもしれないと思っています。

 その結果、最初に習ったこと(古典重視・正確な読み)に戻ってしまい、ぐるぐると自分たちだけが満足する同じところを回ることになりました。思考停止状態のままらせん状に上に上がっていったのです。つまり、私たち古株ボランティアは、現実の子どもの様子にあわせる地平に戻るのでなく、そこからどんどん遠いところ、つまり自分たちさえよければという世界でぐるぐる20年近く過すことになってしまったのです。 簡単に言えば「頭が固くなった」状態です。
 それなのに、今もまた、「初心に帰って(返って)」はどこからか発せられています。マンネリ化へ導くのでしょうか。「古典重視や保守回帰志向」に戻ると仮定しましょう。それならば、例えば多様な意見を集めた講義が5コマあったとすれば、それ以外の4コマは無駄なコマになってしまうのです。4コマに参加した講師や受講生の存在を無視するのと同じこと。同じ感覚で「古典尊重」主義は、新しい表現を模索する新刊本を無視してきました。

 初心に帰るの初心とは、「本」ではなく「人」ではないか、と繰り返します。人に役に立つ、相手という生の人間を下で支えて、とにかく相手を認めて・・・。指導者がそのスタンスを保てば、ボランティアもそれに倣っていくでしょう。


6 受講生それぞれが、ものごとの本質を突き詰めることが必要でしょう。新潟市子ども読書活動推進計画もあります。
 何故集団相手に絵本を広げて読むのか。それが、相手の求めることとどの部分で一致するのか。一致する部分を大切にするのなら、やり方をジャンプさせるなど見直す必要もあるでしょう。大変勇気のいることですが、それを考えることが先を読む、ということではないでしょうか。ボランティアにステップアップというものがあるのなら、その勇気を持つことではないかと思っています。

 


 
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