個別読みの その後

2007年のほんぽーと中央図書館の開館時から、「いっしょによもうよとしょかんのほん」ということで、個別読みの時間を始めました。
ちょうど10年目になるのですね。
開館直後の混雑のころは、大変ニーズが多く、ちょっと安心していたのですが、数年後は部屋そのものに人がいないという事態に結構出くわしました。でも絵本の会や紙芝居の会の人は、それはそれなりに自分の時間を持ってその時間をやりくりしていました。
2年前でしょうか、赤ちゃん連れに個別に読む、図書館直営の「赤ちゃんタイム」にボランティアのこの事業も組み込んでもらうことができました。ブックスタート事業もそれなりに継続していて(私はやっていないのでよくわからない)、これらの相乗効果か、だんだんその時間目当てにやってくるお客様が増えてきました。

 絵本は個人のために、紙芝居は集団のために、絵本を集団相手にやるのは絵本の紙芝居的利用法、というのが私の考えです。ですから、視野の狭い赤ちゃんや、年齢が揃わない集団などには、個別にやった方が絵本の面白さが伝わるだろうと思っています。気に入ったページではずっと止まっていられるし、赤ちゃんの好きなめくり方もできます。失敗する私たちを見ればお母さんの安心につながります。ボランティアの状況対応能力も育ちます。

 集団相手の絵本を探していて、おもしろいのに集団向けに使えない絵本に何度出会ったかわかりません。絵本好きならば、その気持ちがわかるというもの。「子どもに本を」と始めた家庭文庫でも、最初は個別に読むような状態で始まったのではないでしょうか。
 家庭文庫の指導者から「下手な読み方をして、次回も来てくれる子をがっかりさせていないか」などと教育を受けましたが、これはなんとも思い込みが強すぎますね。その結果、悪しき方向に流れてきたように思います。
 この教育の、問題となるポイントのひとつは、「朗読がうまい方は、下手な読み方をする人を、どうしても許すことができない。だから指導する。結果として、人間の上下関係ができる」という問題です。この発言者ももとは朗読の会の人だったと、会員さんに聞きました。読み聞かせが好きな人の中には朗読を習った経験のある人が多いですが、それが悪しき方向に流れた原因かも知れません。
 それからもう一つの問題ポイントは「次回も来てくれる」という言葉。これは、子どもの都合や人格を自分の世界で決めつけていることです。自分が好きだから相手も好きに違いない、それが来てくれないのは読み方が下手だったからだ、という妙な思い込みが見えます。子どもは本を好きになるために生きているのではないと思うのですが。

 朗読の問題については、「すらすらと読まなくてもいいのだ」という西蒲区の講座の受講生の感想を読んで、ちょっと安心しました。それから選書については、受講生の方々は「先輩」の顔色を窺わずに自分の意志で本を決めることができるようになったでしょうか。その辺は不明です。
 選書については、プログラムを会の中で検討するのは当たり前のような気もしますが、そこにお局様に対しての忖度(よく使われるようになってうれしい)や、同調圧力はないのか、と思っていました。それらはおはなし会を息苦しくし、聞き手である子どもに不愉快な思いをさせます。そして、おはなし会のプログラムはポリフォニー構造でいいと思っています。多声構造、ともいえるポリフォニーですが、複数の読み手が違う声で読みますし、本それぞれに強い個性がありますから、そこにまとまりのある流れを作ろうということそのものが、窮屈な感じを与えるでしょう。 相手の好みを聴きながら、淡々と、相手の自然な感じ方を受け入れる、そういうボランティアになりたいと私は思います。

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