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こんな装いで出かけた、篠田桃紅展@オペラシティギャラリー。
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私は、美術好きではあるのですが
現代のものはなぜかあまり興味が持てず
(1948年の、カンディンスキーの最晩年までで、私の中の美術史は
終わっている
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したがって篠田桃紅さんの作品についても
知識ゼロなのですが、
観ていてふと、思い出しました。
18代 中村勘三郎さんの回顧展でみた
「型破りとは、型を知っているからこそ破れる」との言葉
(正確ではありません)
篠田氏も、幼少時から書に親しみながらも
型にはまるのを嫌い
20代で一度、個展を開くも「根なし草」と酷評されたそう。
でも、
その後訪れた、米国発のモダンアートブームの影響を
彼女も、世間も受けて
彼女の抽象表現が次第に認められていく。
特にNYでは、彼女の書画に見られる
「おどろおどろしさ」が非常にうけたそう。
60年代といえば、ヒッピー文化が興隆し
厭世とか刹那とか、そんな空気が米国を支配していたころ。
彼女の作品は、時代にマッチしたのでしょう。
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有名な「ディスカバリー」1962年。
私はこの年に描かれた一連の作品がかなり好きで、
というのも、何も説明などなく、題名も「無題」だったりする絵が
彼女が初めて渡米したときに、ホテルの窓から見ていたかもしれない
NYの街並みを連想させるから。
1ドル360円で、保証人がいないと旅行できなかった米国に
一人降り立った女性の、言いようもない高揚感が
伝わってくるのです。
こちらは
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「行人」1965年。
私には、着物姿の女性の立ち姿に見えるのですが…。
彼女はのちに、黒、白、赤、金など色数を絞り
同じモチーフを繰り返し作品に登場させたりしていましたが
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「まつり」1994年。
赤も、漆の朱に近いというか…和の色が印象的でした。
晩年の作品でもっとも惹かれたのは
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「道」2016年。
勝手な解釈ですが、
道、といいつつ東西に走る白い線と、南北に走る赤い線が
交錯していて、
ああ、人生一筋縄ではいかないものだなあ、と、この絵を観て感じました。
抽象画って、ただ思いのまま描いても、それは無秩序で空虚なものでしかなく
むしろ心の中に強い強い信念、筋の通ったものを持っていないと
描けない、といったような篠田氏の言葉が会場内で紹介されており
なるほどなあと思いました。
それは若いころ「根なし草」とけんもほろろに扱われた経験を
ふまえてのことなのかも知れませんが。
型破り、は、型を知ってこそ。
型を知っている人は、きっと一本、体の中にゆるぎない芯が通って
いるのだろうなあ、と、そんなことを思いました。