
大型の台風が北上している最中に……

国立劇場で上演中の九月文楽を観に行った。
いつものように、演劇評論家・渡辺保先生の講義付き。

曽我兄弟、赤穂浪士と並ぶ日本三大仇討の一つ、
伊賀上野鍵屋の辻の敵討を題材にした
「伊賀越道中双六」の第二部だ。
そもそもこの演目は
鎌倉から小田原、沼津、藤川、岡崎を経由し伊賀上野に至る(途中、京都伏見で折り返し)
仇討の旅を、すごろくに見立てた全十段の構成で、
今回は、実に15年ぶりの通し、つまり午前の第一部で一~五段、
午後の第二部で六~十段が上演される。
私はその後半部分を観に行ったというわけ。

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勿体ないけれど、途中で帰ろうかな)
実はこんな懸案を抱えたまま、まずは講義を聴きに行ったのだが、
歯に衣きせぬ物言いの渡辺先生、まるで私のココロの声を聞いたかのようにズバッと。

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特に二番目のご意見は、3回も繰り返すものだから、
(-私ね、お金を払ったんだから最後まで観ようというのは下衆だと思うんです。
途中でも、良い余韻をもったまま帰った方がいい- ……とまでおっしゃる!)
じゃそうしようかな、と、ホントに八段で帰ってしまった。
なので、私が観たのは途中だけ。
仇討という嵐が来る前まで、ということに。
着物もさすがに今回は止め、レインブーツを持っていくなど
雨の備えを万全にしていったが、幸いにも降られることなく帰宅できた。
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さて、途中だけとはいえ、あらすじを書くと長くなってしまうので、
興味のある方は関連サイトをご覧いただくとして、
ココロ惹かれたのは、渡辺先生がおっしゃる通り、八段の岡崎の段。
(すみません、上の写真は別の段です)
この物語では二人の武士が共通の敵を討つために、それぞれ西を目指して
いるのだが、敵の居場所はわからない。
それを周囲から聞きだすために、あるときは嘘をつき、
あるときはよりによって敵になりすまし、
あるときは、せっかく昔の恩師に出会えたのに今の名前を名乗れなかったり
……そして、義理を通すために自分の幼い乳飲み子まで手にかける。
その、複雑な人間関係や心のうち、束の間の喜びののちにどん底へ突き落とされる悲哀、
しんしんと雪が降る村の一軒家という静けさと
その中で繰り広げられるどろどろした感情の蠢きとの対比が胸を打った。
それを表現し分け、物語を進めるのが義太夫と三味線だ。

-文楽って、人形メインだと思っていたけれど、義太夫こそ主役なのかも-
私も、これまで5回ほど観てきて、だんだんそんな風に思うようになってきた。
(異論はあると思います)
今回も、私のお気に入りの呂勢大夫さん、聴きごたえありました。

ますらおなろせさん。
でも、今回もっとも感動したのは、
その後の一番の見せ場(切)を聴かせてくださった、
嶋大夫さんと富助さん。
富助さんがたった一音、三味線を弾くだけで、
雪に埋もれた里の、暗くて静かな情景が、目の前にすーっと広がった。
嶋太夫さんも、どうしてあんなにしわがれた声なのに(すみません)、
若い女だろうが年老いた男だろうが、
すべての登場人物が、あたたかい魂を持っているように思えてくるのか。
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渡辺先生は

というようなことをおっしゃっていたが、
大詰めで、主人公の一人が自分の子どもを刺し殺す場面が出てくるため
(それが残酷と評され、岡崎の段は滅多に上演されないとも、
先生はおっしゃっていた)
私は、そしておそらくSさんも、
物語の上で、良い余韻が残ったかというと疑問に思わざるを得ない。
でもきっと私は、ここで帰ってしまった私は、
この岡崎の場面を思い出すたびに、
富助さんの三味線から紡ぎだされた雪降りつむ村の、そして
嶋大夫さんの義太夫から息吹を得た
悲哀と喜び、諦めと希望が互いに絡み合うかのような一つ屋根の下の、
明けぬ夜の余韻に、ひたるのだろう。
※「伊賀越道中双六」のあらすじや見どころはコチラのサイトが詳しいと思います。