ところで、この規格外の娘。マコちゃん、スーちゃんのおかげか、社会へ出てから、なぜか新規事業やら新商品開発といった<新>が付くプロジェクトにばかり縁をいただく。大学では、いまだによく分かっていないと自覚している社会科学を学び、ジャーナリズムを専攻した。
「日本にはきわめて脆弱なジャーナリズムしかないんやなぁ、その前に4年制の大学出たところで、某新聞社や広告代理店は公募さえなく、あるのは、短大女子の募集しかないやん」1978年の秋、入学後しばらくしてから、理解した。
スーちゃんから「生涯、仕事を持ちなさい」と言われて育った身である。
「これは、あかん。大学は出るけれど、もっと実践的なスキルも必要だわ。」
そう考えて、夜間に開講されていた専門学校のコピーライター養成講座を受講する。これが、楽しかった。現場で活躍する講師たちがそれぞれにお題を出してくれて、考える、書く、批評してくれる、この繰り返し。どうやら同じように考える学生もいて、他所の学生とも仲良くなった。楽しいのが伝わるのか、3回ほどレポートを提出をすると、D社のディレクターさんが声をかけてくれた。
「バイトしませんか?K新聞社の仕事で、店舗取材の仕事なんだけど、僕がすべてチェックするからやってみませんか?」
単なる労働ではなく、取材交渉から取材、執筆、新聞掲載まですべてにコミットできる。こんなに良いバイトはなかなか、ない。その場で、「やります!」と返事をした。そのうち、今度は、取材で出会ったカメラマンの方が地元の出版社やら東京の出版社を紹介してくれる。かくして、大学生後半の2年間は、フリーランスのライターとして幾多の紙面企画や取材、執筆をさせていただくこととなった。
書くこと、考えること、さまざまな方に協力を得ること、かたちを含む表現にすること。ここから、規格外(娘)の社会が始まっている。
ないものを作る。
言葉のちから、文章のちからを借りながらの作業である。そもそもないから未来へ向けて作っていくのだが、ルーティンの仕事をこなして生活をしている人にはなかなか理解してもらえない。当たり前である。何をやるにしても、反対意見に出くわす。誤解される。何かを生み出すためには、必要なことと高をくくって時を重ねてきた。しかし、翻って思うことは、いつも味方が居たということだ。
勤務していた企業の社長。クライアントであった尊敬できる人生の先輩方、そして後輩たち。いつしか<何かをやるときは、たった一人の味方が居てくれたら、新しいことをやれる>と思っていたのだ。これもまたおおもとは、人ひとり。自力で生きていくマコちゃんとその味方、スーちゃんの姿の<写し>だったのかもしれない。