マコちゃん、とても子ども好きだった。どうやら子どもの方もそれがわかるらしい。たくさんの子どもたちがマコちゃんになついていた。
上の娘は、小さなころ、マコちゃんの膝の上にのって、よく一緒にテレビを観ていた。1959年から1966年まで放映された西部劇シリーズに米CBSのドラマ「ローハイド」がある。ふたりのお気に入りであった。娘は、修道院で英語を習っていたこともあり、すぐに歌詞を覚えた。マコちゃんの膝の上で歌っていると、からだでリズムをとりながら、必ず褒めてくれて嬉しかったと、いまだに覚えている。
下の娘は、自転車に乗れるように近くの公園に一緒に行ってもらい、後ろから支えてもらったことを覚えている。何度も何度も支えてもらった。結局、運動神経が壊滅的にダメで本人が諦めた。諦めるまで、付き合ってくれた。
また、鍼灸院があった北九州は、企業城下町であり、製鉄の町でもあった。街では、毎年、起業祭という大きなイベントが開かれていた。官営八幡製鐵所が、高炉に火を入れ、作業を開始した11月18日を中心に、その前後あわせて3日間がお祭り期間である。その間は、工場の一部を開放し、街中にたくさんの屋台が出て、コンサートや芝居、踊りなどでにぎわった。毎年、必ず、マコちゃんはそのお祭りのメイン会場に連れて行ってくれた。或る日、屋台で大きな綿菓子を買ってもらい、路面電車で家路についたことがある。大変な混雑で、電車を降りた時には、綿菓子はひとびとに押され、シュリンクして小さなトピアリーと化していた。マコちゃんにしきりにクレームを言って、笑われたものである。
孫たちは、孫たちで、なついた。3人くらいの孫が一堂にマコちゃんの背中に乗って、はしゃいでいる写真が残っている。いつまでも、いつまでも、はしゃいでいた。そのなかのひとり、マコちゃんが大好きだった孫は、マコちゃんの見えない眼の代わりになって、いつも一緒にバスに乗り、釣具店に付き合っていた。バスの中、行先を表示する一番大きな文字を読むためだ。
その孫もいまや父となり、釣りの腕前はプロ級である。孫たちは、ひとりずつマコちゃんの手の中で笑いながら抱かれている写真もたくさん残っていた。どの笑顔も幸せそうである。ひ孫ふたりも近所に住んでいた時分には、マコちゃんの自宅によく遊びに来ていたという。
マコちゃん、子どもという不完全でピュアな存在をひきつける何かを持っていた。