勘太郎爺奮闘記

滞在合計26ケ国、21年の海外生活が終りました
振り返りながら 日々の生活も綴ります

2002年ベトナム・ハノイの旅 その8 文廟(孔子廟)

2018-05-09 | 歴史・文化2

 

文廟・ハノイ 

 

ハノイの孔子廟とも呼ばれるバン・ミョウ(文廟)です。リ朝4代のリ・ニャン・トン(仁宋)によって、境内に1076年に最初の大学(国子監)が開設された。当初は宮廷の高官の子弟が学ぶためのものだったようです。 (歴史表参照)

 

この頃のベトナムでは、インドから渡来した仏教と中国からの道教が、土着信仰と接触して広く民衆に浸透し、儒教は支配層に受け入れられていたと言われている。

仏教はリ朝時代(1010-1225)には歴代国王も信仰するところとなり、仏教が支配的宗教となった。ところが、チャン朝時代(1226-1440)に入って歴代国王は仏教から儒教を基本とするようになり、後のレ(黎)朝(1428-1789)、グエン(阮)朝(1802-1883)では儒教によって支配されるようになった。

 

レ朝2代のレ・タイ・トンは儒学に優れ、ベトナムで科挙の制度を作った。各地に学校が建てられた。郷試(地方試験)と会試(全国試験)の制度が改正され、1442年から実施された。当初の制度では、郷試で合格した4,400人ほどが会試に臨み、このうち44人が合格した。(かなり厳しい試験ですね(^_-))

 

19世紀の阮(グエン)朝時代にできた奎文閣には1442年から1771年まで科挙に合格した人の名前を刻んだ亀の上に乗った石碑が並んでいる。

郷試に受かったものの、ハノイに出て国士監や文廟付近にある塾で学び、会試に合格するには苦節数年の人も多く、お金もかかり、大変だったようです。

 

 

ハノイの孔子廟とも呼ばれる文廟。 写真右:19世紀の阮(グエン)朝時代にできた奎文閣

 

 

 

19世紀の阮(グエン)朝時代にできた奎文閣にある、科挙に合格した人の名前を刻んだ亀の上の石碑。 写真右:孔子が祀られている建物

 

文廟の一番奥には民族音楽を奏でる建物があり、楽しませてくれる。また、お土産屋にはアオザイを着た女性がやさしく迎えてくれます(^○^) 

いい環境ですね。最高です!!何でも買ってしまいそうです(^^;;; 。

 

孔子。 写真右:アオザイを着た女性がやさしく迎えてくれるお土産屋。

 

 

民族音楽を奏でる建物。 写真右:民族音楽を奏でる女性楽団 

 

参考:文廟の衛星写真がGOOGLE MAPSで見れます。

文廟: Pointer 21° 1'46.82", 105°50'10.94"

 

 

 

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2002年ベトナム・ハノイの旅 その7 戦争遺物

2018-05-05 | 歴史・文化2

 

軍事博物館・ハノイ

 

対仏、対米戦争を中心とする、ベトナムの長い戦争の歴史を伝える博物館です。実物の銃、戦闘機やミサイルの残骸などが見られます。戦う理由が南北ベトナム統一・民独立であり、そのために、人々がいかに苦難を乗り越えてきたのかという点を大変強調している印象をうけました。

 

建物を入るとすぐ左に「MIG21」が目に飛び込んできます。機首に14ヶの星しるしがあるように、ベトナム戦争時1967年から1969年の間に、14機の米軍機を撃墜したMIG戦闘機です。
このMIG21を操縦していた6人のベトナム操縦士はベトナムの英雄となったとか。

残骸の中に「ソ連製ミサイル」も埋もれていた。

お土産屋の隣に並ぶ「37ミリ高射砲」:グエン ビエット スアン大隊で使われていた37ミリ高射砲で、この隊は124機の米軍機を撃墜した。2度、英雄的部隊として表彰されている。

サイゴン陥落の時に立役者となった戦車などの展示は目をひきます。

 

同じ敷地に、今はなくなってしまっているハノイの宮殿から移した国旗掲揚台(旗の塔)があります。グエン朝の1812年に建設されたものがここへ移設されたものです。掲揚台(旗の塔)の上にのぼることができます。

 

軍事博物館の建物正面  サイゴン陥落時の立役者の戦車

 

 

37ミリ高射砲  

MIG21戦闘機:機首に14ヶの星マークがあるように、ベトナム戦争時1967年から1969年の間に、14機の米軍機を撃墜した

 

 

ソ連製ミサイル、戦争残材のなかに埋まっていた。  

掲揚台(旗の塔)。グエン朝の1812年に建設されたものをここへ移設

 

 

 

 

ホアロー収容所・ハノイ 

1896年にフランス政府によって建てられた監獄(ホアロー収容所)が、その後ベトナム人民軍の捕虜収容所として使われていた。1993年に完全に閉鎖された後、1997年一般公開された。
ヴェトナム戦争の折は米軍の捕虜が収容されたこともあった。この収容所はハノイ・ヒルトンと皮肉って呼ばれていたらしい。

監獄が、観光地点となるのも、意外ですね。

 

フランスの名残で、ギロチンが残ってます。現物を見るのは初めてで、ショックだった。金属の入れ物が下にあります、また、籐で作った籠がそばに置いてありますが、何をするものか想像できますね?(-_-;)  今でも動くんでしょうね (^^; 。 思ったより背が高いものなんですねぇ。首の太い人は、どうやって固定するのでしょうね? →写真を見た人のコメントです。→ギロチンにかけられる人で、首の太い人はいなかったのでしょうね。

 

ハノイ駐在の日本人に聞くと、ここには幽霊が出るので、絶対にいかないと言ってます。(見学した後に聞いた。ゲゲー)

 

 

収容所の模型:当時の様子を再現した集団房。足かせが生々しい

 

 

 

ベトナム戦争時の米軍捕虜

 

 

今も残るギロチン(刃は錆びていたが、鋭利だった)

 

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2002年ベトナム・ハノイの旅 その5 ホアンキエム湖

2018-04-27 | 歴史・文化2

亀伝説・ホアンキエム(=環剣)

 

ハノイの中心部にあるホアンキエム湖(Ho Hoan Kiem=環剣という意)には、1865年に建立された、学問の神、武の神、医の神などの神々を祀る玉山祠(Den Ngoc Son)がある。

そこには、元による侵攻を退けたチャン(陳)朝の国民的英雄チャン・フン・ダオ(陳興道、チャン・クォック・トアン=陳国峻とも呼ぶ)も神格化され祀られている。 

 

1248年に、明との戦いに苦戦していたレー・ロイ(黎利)が神から授かった剣で勝利し、独立を勝ち取り、後、黎(レー)朝を興した。湖に棲む龍王の使いの亀に剣を返した=環剣(ホアンキエム)という伝説は有名です。
1968年には大亀が見つかり、レー・ロイの亀でないかと信じられており、玉山祠にはく製で鎮座している。

 

 

玉山祠と棲旭橋(朝日のさす橋)、玉山祠入り口にある儒学者グエン・ヴァン・ズーの書「福」(幸福)と「禄」(豊かさ)

 

 

玉山祠入り口の環剣を背負う亀のモチーフ、玉山祠に陳列されている1968年に発見された亀(はく製)

でかい亀ですね! 淡水でこんなにでかくなるのでしょうか? これじゃあ、甲羅が役目を果たせないような・・・(笑) 

 

ホアンキエム湖と亀の塔(還剣を行った所といわれている)、ホアンキエム湖と亀の塔の夜のライトアップ

 

 

ホアンキエム湖西側のLeThaiTo通りに面した所に祀ってある、レー・ロイ(レータイト)

 

 

参考:ホアンキエム湖の衛星写真がGOOGLE MAPSで見れます。

Ho Hoan Kiem: Pointer 21° 1'45.42", 105°51'8.36"

 

 

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2002年ベトナム・ハノイの旅 その2 歴史

2018-04-08 | 歴史・文化2

ベトナムに関して、知識がなかったのですが、意外な面を知りえた。

ちょっとベトナムの歴史を覗いてみましょう。

 

ベトナムと聞いて、思い出すのは、ベトナム戦争のことでしょう。しかし、振り返ってみると、ベトナムの歴史は、中国、現在のラオス、カンボジアと国境を接している為に、古来から中国やその他の国との対立と交渉の関係史でもあると考えられます。つまり、常に中国からの侵略におびえ抵抗した歴史であり、ヨーロッパ勢力、インドシナ勢力、中国勢力などとバランスを取って海洋交易にのりだし、国力を発展させた歴史です。

そして、フランス植民地時代を経て、激動の時代に突入している。

日本の進駐(1940年)、日本の無条件降伏後のホーチミンによるベトナム民主共和国独立宣言(1945年)、インドシナ戦争(1946年ー1954年)、ベトナム戦争(1960年ー1975年)、サイゴン陥落(1975年)、ベトナム社会主義共和国樹立(1976年)、カンボジア侵攻(1978年ー1979年)、中越戦争(1979年)と続きます。

また、1986年の第6回党大会で、ベトナム語でドイモイ(刷新)と言われる改革が、政治と経済の改革をめざし、スタートした。

ホーチミン:生誕111年を記念して日本・ベトナム情報交流会から送られた肖像板

 

現在のベトナムはインドシナ半島に位置する南北に細長いS字型の国で、北緯23度から赤道近くの北緯8度までにおよび、ほぼ山脈と高原地帯からなり、人口(約8,000万人@2002年)は三つの平地地帯に集中しています。

①フォン川(紅河)を中心にした北部の中心都市はハノイ=亜熱帯気候に属し、冬は10℃を下回ることもあるが、夏は30℃以上にもなる。

②アンナン山脈に沿ったハイヴァン峠一帯の中部の中心都市はフエやダナン=気候は北部と似ているが、夏は非常に暑く、また、台風の襲来で洪水などの水害が多い。

③南部の中心はサイゴン=現在はホーチミンであり、その南側にメコンデルタが広がる。熱帯サバンナ気候に属し、年間を通して平均気温は27度前後で、米やトロピカルフルーツと言った農産物生産の中心です。気候の多様性はベトナムの人や物の多様さと共に地域性を豊かにしています。

 

遠い昔にさかのぼってみよう。->こちらの歴史比較表を参照

建国の時代(紀元前2897年 - 紀元前257年)

ハノイの北西のフート省に雄王廟があり、旧暦3月10日の祭りには50万人以上の人でにぎわいます。雄王廟はベトナムの建国の王、フン・ヴォン(雄王)を祀った廟です。伝承によると、昔、龍と仙女が結婚して100人の息子をもうけた。50人の息子は母の仙女に従い山へ、50人の息子は父に従い平地に残った。平地に残った息子のうち長男が帝位につき、フン・ヴォン(雄王)となった。これがベトナム建国神話の国「ヴァンラン(文朗)国」です。歴代の王はいずれも雄王とよばれ、18代続いた。雄王に関する説は他にも、数々あります(物語ヴェトナムの歴史 小倉貞夫著 中央公論社)。歴代フン・ヴォンに関する物語は、ベトナムの人にとってなじみ深いもので、フン・ヴォンはベトナム建国の王とベトナム人はそう信じ込んでいます。

その文郎国を前257年に甌貉(アウラック)国のアン・ズオン(安陽)王が破り、古螺城を築いたといわれる。その古螺城こそがコロア城であると現在考えられています。コロア城は、ハノイ市内からノイバイ空港へ向かう3号線沿いにあるベトナム初期金属器時代のドンソン文化に属する遺跡です。

フン・ヴォンの伝説は史書から始まるのですが、文朗国は日本の邪馬台国のように、位置も含めて正確なことはよくわかっていない国なのです。その起源は紀元前2880年や、紀元前6世紀頃とかいろいろの説がありますが、18代の歴代王から計算すると紀元前2880年ではつじつまが合わないですね。中国ではよく「中国4000年の歴史」と言われます。その起源は中国史上はじめて黄河を治めた禹が、舜の後をついで、王位につき、「夏」を建国した頃と思われます。紀元前2880年とするとベトナムは中国の歴史より古い国となってしまいます。ベトナム政府がかって、「ベトナム民族4000年の歴史」と言う言葉を謳った時がありました。4000年あまり前に「雄王」が統治する最初の王朝が成立した神話を、大筋で事実を反映したものとみなしたわけです。紀元前2000年紀から北部ベトナムで金属器文化が独自に発生を遂げていたことが考古学の成果により証明されたのを、拡大解釈したことによります。これはかって「日本は神の国」という人々の主張と同じではないかと疑いたくなります。

 

南越国

甌貉国は前208年に南越国に滅ぼされたといわれています。南越国は史書にも出てくる国です。中国では秦の始皇帝が紀元前221年に中国を統一しました。秦は天下統一した後、南越の地を平定し、そこに桂林・南海・象郡の三郡を設置し、統治しました。
その時、南海郡の竜川県県令に赴任して来たのがチョウ・タ(趙佗)でした。勿論、かれは漢人です。
その始皇帝がなくなり、中央では劉邦・項羽が秦を倒し、ついには項羽が覇王(前漢)になったが、まだまだ中国は混乱していました。趙佗は中央の混乱をよそに、桂林と象郡を攻撃し、併合した。これで南越の地はすべて趙佗の支配下に入り、彼は南越の武王と名乗り、勝手に即位しました。南越とは、「臥薪嘗胆」などの言葉で有名な呉越戦争の当事者=越の南に位置する国と言う意味なんでしょうね。広大な国です。

南越国は漢の長沙王といさかいを起こしており、漢兵とも戦っている。その歴史を証明するものが、1973年末、中国湖南省長沙市にある馬王堆三号漢墓より出土しました。また、1983年、中国・広東省広州市で前漢時代の石室墓が発見されました。豊富な出土品が発掘され、調査によって南越国2代君主・趙眛(チョウマイ)の王墓であることがわかりました。出土品の絲縷玉衣(2000年に東京で催された中国国宝展でも展示された)で有名ですね。史書の記述が発掘品などから明らかになってくるのは興味深いです。

南越国は 紀元前111年に漢により滅び、これから939年にゴー・クエン(呉権)の呉朝設立まで約1000年に渡り、中国の支配下に入るわけです。

 

ドンソン文化と銅鼓

中部ベトナムのタインホア省を流れるマー河の右岸のドンソン村で、1924年-1939年にかけて大規模な発掘調査が行われ、紀元前1世紀に同定される中国からの到来品と共にヘーガー1式銅鼓が発掘されました。ヘーガー1式銅鼓とはF.ヘーガーが1902年に東南アジア一帯から南中国にかけて発見された165個の銅鼓を4つの形式(下記注1)に分類した中で、最も古いとした形式です。その典型は紀元前5世紀頃の作品と言われているゴックルー銅鼓(下記左写真)です。ヘーガー1式銅鼓に代表される青銅器文化はドンソン文化と呼ばれることになった。ヘーガー1式銅鼓の装飾(下記右写真)の特徴は水鳥の羽をさした男達が大きな船を漕いでいる画です。ドンソン銅鼓の分布(下記中写真)はベトナムだけにとどまらず、東南アジアの川筋に沿った盆地から河岸段丘、スマトラ、ジャワ、ニューギニア、バリ島の東のアロール島、北は中国雲南省まで広がっているのは驚きです。銅鼓は現在も雲南の少数民族のお祭りなどに使われており、益々興味深いです。

銅鼓に代表されるドンソン文化は雲南盆地に発して、放射線状に南中国から東南アジア一帯に広がった説もあります。

一方、ベトナムでもドンソンに遡る青銅器文化の発見から、紀元前2000年頃からフングェン文化、ドンダウ文化、ゴードン文化の3文化が先行していたことがわかってきました。ドンソン文化は紀元前1000年紀の中期に、中国青銅器文化の強い影響のもとに生まれた独自の青銅器文化と

も言われてます。

 

写真左:ゴックルー銅鼓上面図:高さ63cm 直径79cm 上部には太陽が描かれ、光線が四方に飛散している。16の同心円があり、鋸歯紋が周囲をめぐっている。 BC500-BC400、ハーナム省伝世(歴史博物館パンフレットから)

写真右:ドンブイ銅鼓(ヘーゲルⅡ型):高さ47cm 直径70cm BC100-AD100、タインホア省(歴史博物館パンフレットから)

 

 

黒点が発見場所

 

ヘーガー1式銅鼓の装飾の特徴の例:

動物や鳥の模様,鳥の羽の頭飾りをつけた人々

 

 

注1:

ヘーガー1式銅鼓:F.ヘーガーが1902年に東南アジア一帯から南中国にかけて発見された165個の銅鼓を4つの形式に分類した中で、最も古いとした形式。

ヘーガー2式銅鼓:頭部と胴部の区別がなく、頭部に蛙の装飾がある。

ヘーガー3式銅鼓:円筒状で脚部のふくらみがない。

ヘーガー4式銅鼓:漢字の装飾があり、比較的低い

 

 

 

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1997年~2001年台湾・台南の旅

2018-02-26 | 歴史・文化2

1997年~2001年 台湾・高雄に駐在していた折、鄭成功のこと調べてみたく、何回か台南に出かけた。

 

台南は、清朝時代に台湾鎮守府が置かれたいた町で、当時は台湾の首府だった都市である。(台湾の歴史参照)

さらに遡ると、1624年にゼーランジャ城を築いて台湾を支配していたオランダ人の町であり、1662年に、オランダ人を追い払い、1683年に清朝に打ち破られるまで台湾を支配した鄭成功およびその一族の政権の中心地でもあった。

 

観光として上記歴史の時代の遺構などがある。

 

安平地区にあるオランダ人が建てたゼーランジャ城(安平古堡=下記写真。→Google Map)、町の中央にある同じくオランダ人が建てたプロビデンシャ城(赤嵌城=下記写真。→Google Map)、「明朝」最後の寧靖王が住んでいた遺構の赤嵌城の前にある大天后宮、台湾では一番古い孔子廟、城壁で取り囲まれていた名残の大南門址、鄭成功を祀る開山王廟(延平郡王祠)、敷地内にある鄭成功文物館などがある。

安平古堡:民族英雄・鄭成功と書かれた像が建っている。

 

赤嵌楼の中にオランダが鄭成功に投降した折のオランダ語の書面が展示されていた。一緒に観光した同僚のオランダ人が、この書類を読んでくれたのを覚えてる。

 

 

大南門

 

台南観光地図

 

でもなんと言っても、台南には名物の食べ物が多い。聖地巡礼と称して食べ歩きを行ったことも何度かある。

 

度小月担子麺台南粽子(中華ちまき)、周氏蝦巻(蝦にころもつけてあげたもの)、棺材板(パンにシチュウを入れたもの=下記写真)、虱目魚(ミルクフィッシュ)の粥、蚵仔煎(牡蠣が入った台湾風お好み焼き)等等、食べきれない。

<追記>

夜市のことを書くのを忘れてました。台南夜市は、曜日によって開かれている箇所と、開かれていない箇所があるのが要注意です。

B級グルメの祭典ですね。→台南4大夜市=花園夜市小北夜市武聖夜市大東夜市

 

当時は新幹線はまだなく、高雄から電車特急「自強号」で1時間弱で行っていた。

 

 

参考までに中国・台湾・日本での鄭成功の像を見てみよう:

鄭成功像@厦門:でかいですね。24mの断崖上から台湾の方向を眺める15.7mの像 こちら

 

鄭成功像@台南 安平古堡:こちら

鄭成功像@台南 延平郡王祠:こちら

鄭成功像@台南駅:こちら

 

鄭成功像@平戸:こちら

 

日本でも、東アジアの英雄・鄭成功の偉業を顕彰し、後世に伝えるため記念館が建てられている

鄭成功記念館@平戸:こちら

 

 

 

 

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