晴旅雨旅

爺の前に道は無し。爺の後にも道は消えかけて…枯れた中年爺の独り言

ケイロウの日

2011-09-19 14:06:01 | 日記
【冥土の土産】昨日の環境デーなごや2011。我が大ナゴヤ大学の原田さとみさん主催、フェアトレード&エシカル・ファッションショーを拝見。不謹慎ながら原田さんやモデルさんの美しいスタイルやお顔を写真に撮らせて頂いた。爺の良い冥土のさせてもらうぞよ。




【服を買った】
 ファッションショーを観たら、やはり服が欲しくなるもの…歩行者天国を歩いているうちにユナイテッドアローズへ立ち寄り、ジャケットと7分パンツを衝動買い。店員は「それはお歳を召した方にはちょっと…」と言いたげだったが、いいのだ。年寄りには恥など言っておられないのだ。この世に居られるのもそう長くはない。もじゃもじゃすね毛を出して街を闊歩してみたかったのさ。
 襟の部分がちょっとしゃれているかと思ったが、このままではちとシンプルすぎるかなぁ。靴はデザートブーツにすれば秋っぽくなるかなあ?






「ジャスミン革命」が起きちゃった

2011-01-25 15:43:42 | 日記
(共同)
民衆蜂起により23年間続いた強権的なベンアリ政権が崩壊したチュニジアの政変が、インターネット上で「ジャスミン革命」と呼ばれ始めた。ジャスミンはチュニジアを代表する花。

(NHK)
チュニジア情勢 周辺国に影響
1月24日 9時33分
北アフリカのチュニジアで、市民の抗議行動によって独裁的な政権が崩壊したことを受けて、中東のイエメンでも、連日、反政府デモが行われるなど、チュニジア情勢の影響が周辺の国へも広がりを見せています。
イエメンでは、22日、首都・サヌアの大学に学生や活動家などおよそ2500人が集まり、32年にわたる長期政権の座にあるサレハ大統領に退陣を求めました。これに先立って行われた16日のデモでは、名指しで大統領を批判することはありませんでしたが、AP通信によりますと、22日はサレハ大統領の名前を挙げたうえで、「友達であるチュニジアのベンアリ前大統領の下へ行け」などと声を上げていたということです。続く23日に行われたデモでは、取材していたカメラマンが、一時、拘束されるなど、イエメン政府が情報の管理に神経をとがらせていることがうかがえます。このほか、チュニジアの隣のアルジェリアや中東のヨルダンなどでも、現政権への不満が市民のデモという形で噴出しており、チュニジアから始まった市民の抗議行動の影響が、周辺の国にも広がりを見せています・・・・

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 一体、何が起きているのだろう。
 私は、この「ジャスミン革命」に代表される昨今の“意外性”が連綿と続いていることに対し、眩暈すら覚える。私達は、日本に居てこのような動きを僅かでも察知していたであろうか。確かに、一人の貧しい青年の命と引き換えの訴えを契機としてチュニジア民衆の怒りは爆発し、あっという間に独裁体制は崩れてしまった。あまりにも鮮やか過ぎて、日本の体制側も反体制側(もしかしたら死語?!)もあっけにとられ、情報・認識不足も手伝って語るべき言葉を誰も持ちえていない、というのが正直な日本の状況だと思う。
 私は偶然、青年が自らの身体に火を放った12月17日の翌日、チュニジアに入国した。初めて訪れる国は、事前に若干の政治・経済情勢は頭の片隅においておくのは、別に私でなくとも誰しも行うことだろう。それによれば、アラビア語圏にありながら、近年安定成長を続け、宗主国フランスのリゾート地としても有名。日本でも、カルタゴの遺跡などを訪れる観光客も増え、イメージとしては平和な観光地だった。少なくとも、ときの政権を脅かすような動きがあるなど思いもしなかった。
 世界の政治情勢に若干なりともアンテナを高くしていたという自負はもろくも崩れた。
 この動きに、ある種の期待を込めてしまうのは、虐げられた人々が起ち上がった、それもFacebookやTwitterなどを駆使しながら、ということだから。とかくこれまで政治は一般庶民には無縁の権力者間での争いに終始しがちで、誰が勝ってもただ権力者の顔が変わっただけ、というところだった。しかし、この爽やかさはなんだ!ただ嬉しい!たとえ、政治の世界はおそらくこの爽やかな空気に嫉妬して、やがて色々な思惑や欲望によって複雑な表情を見せることになっても、だ。
 久々に、市民が政治の表舞台に、突然登場してしまったこと、私達はそれを歓迎する準備などまったくできていないうちに、歴史の歯車はぐるんと一周してしまったのかもしれない。それほどに、歴史的な動きの第一歩になるかもしれない「ジャスミン革命」。私なりにしばらく注目していきたい。

児童虐待は増え続ける

2010-08-06 04:40:43 | 日記
---児童虐待という言葉が聞かれるようになったのはいつの頃だったろうか---

<教育と実社会>
 私はたまたま学習塾、学童保育、小学校教諭として子ども達とは20年以上付き合ってきた。正直言って、あまりいい“先生”ではない。謙遜ではなく、周りには素晴らしい先生方が輝きを放っており、素直に自分の力量の程度を認めざるを得ない。何よりも、そんな先生は子ども達の信頼を得る。勿論、どういった教育や先生が子どもの成長にベストであるかは、実のところ分からない。それは、社会生活を送ってみればすぐに分かる。社会は学校現場ですべてカバーできるほど単純ではないからだろう。
<児童相談所>
 いわゆる児相(じそう)と呼ばれるこの施設は、私も自分が関わるまで、教育関係者といえどもあまり実態はよく知らなかった。世間一般で、子どもに関わる重大事件が起こったときに耳にする、そんな程度であり、他の多くの教員も大差ないと思う。
 私があるとき産休代理で1年生を担任したときのことである。まず、クラスの子たちと会う前、最初に児相へ行かされた。そこで元気のよさそうな素直な男の子と面会した。普通の1年生と変わらない、むしろ動きもきびきびしており、運動が得意なことはすぐに察しが付いた。ただ、どうしてここに居るかを確かめたとき、一気に表情は崩れた。
<家出>
 彼は、継父の暴力が怖くて一週間も家出をしていたのだ、1年生で!昼はショッピングモールやゲームセンターなど大人にあまり関心を抱かれないところ、夜は駐車場の車の陰やマンションの踊り場などを転々としていた。食べ物は万引き。彼の素早く頭脳的な行動が補導を遅らせることになった。
<家族>
 実母、継父、2歳年下の妹、生後間もないあかちゃんの5人家族。彼と妹は前夫の子である。
 継父は若く、仕事は不安定だった。「躾」のため、特に彼には簡単に手をあげていた。面談してみても、ごく普通の若者であり、愛想も悪くない。
<それまで>
 実は家出は今回が初めてではなかった。私が児相で会う前にも何回かやっていた。その都度、前の担任と児相の相談員が継父に暴力を止めるよう説得している。一時は収まるもののすぐに繰り返される。今回は、とうとう保護ということになったそうだ。
<学級で>
 1年生は、やはりかわいい。よく言われているが、「知能検査」を「血の検査」と聞き間違えるなんてことはざらであり、だじゃれの好きな私はよくからかっていた。かわいいが、うるさい。休み時間などへっちゃらで床に寝ころんでいるから踏みつけそうになることも度々だ。おもらしもする。給食中はあちこちのテーブルで牛乳をひっくり返す。ケンカはする。訳の分からないことで泣いている。事情を聞いてもさっぱりだ。給食は栄養満点で美味しく、安いので重宝するが、教師にとっては「食事」ではなく、栄養剤を胃に押し込む行事だ。
 そんな喧騒の中で、彼は抜群の生活力を見せる。妹や弟の面倒をみているせいか、他の1年生よりはるかに“大人”だ。誰に対しても優しく、公正な判断もできる。よって、女の子にも評判は良い。頭もよい。モテる。
 ただ、服装や持ち物には貧しさが隠しきれない。目ざとい悪童は見逃さず、虐める。1年生といえども虐めるときは用意周到だ。やすやすと尻尾はつかませない。証拠がなく指導すれば、たちまち保護者から電話が入る。
<別れ>
 私が彼らの担任だったのは3学期だけだったので、2年生は別のクラスだった。新しい担任は私と殆ど交流がなく、私も新しい学級の子達との“闘争”に入っていたので気にはなっていたが、廊下で会えば声をかける程度だった。しかし、しばらく経って、突然転校した。東北だった。詳しいことは分からない。
<貧困>
 以上の話は特に珍しいものではない。ただ、児童虐待の起こる背景は千差万別だが、どこか必ずといっていいほど「貧困」が関わっている。彼の場合も家庭訪問してみて5人が住むには貧弱極まるアパートだった。
 もっとも、昭和28年生まれの私からみれば自分はもっと狭い所だったし、クラスメイトには名古屋港のはしけの船上で過ごしていたり、空き地にバラックを建てて電気もなく生活していたりする者も居た。勿論、これらは「貧困」そのものだった。貧困は当たり前だった。労働運動専従だった父の収入では、公立高校に行かせてもらえるのがやっとだった。そんなことは皆承知しており、中学では進学組と就職組に分かれた授業だった。大学に行こうとする者は圧倒的に少数派だった。少なくとも私の小学生の頃は、父のような「組合」に入ることが現実的な目標だった。
 そんな私達は、勿論、良い子であるはずがない。ケンカはする、掃除サボっては立たされて往復ビンタ、家に居るのは食事と寝るときだけ。学校からの帰り道は靴を履いたままランドセルを家の中に放り投げて遊びに行く。夜、宿題しようとすると電気がもったいないとか行って消灯される。朝やるのが面倒なときは往復ビンタ…とまあ、あの頃の先生方も大変だったろうなあ。
 でも、あの頃、即ち日本が戦後から昭和39年の東京オリンピック開催の頃までの日々の貧しさは、今の「貧困」ではない。GDPは圧倒的に少ないだろうが、実感として物はなかったが、貧しさは辛くはなく、ある種、「誇り」だった気がする。かつて同じクラスに、本当に極貧の友達が居て、4畳半に家族6人で暮らしていた。ただそいつは算数だけは誰にも負けず、私はどうしても追いつけなかった。いつもどこで探してくるのか難しい問題に同時に取り組んでも、負け続けた。クラスには学習塾なるものに行っていた「金持ち」達には、私達2人は絶対に負けたくなかった。彼は今、中学で数学の教師だ。
<貧困から先へ…>
 貧しさは厳しい。夢も希望も奪う。食べていくことの厳しさに必死にならざるを得ない。今の「貧困」は、生活保護等受ければ食べてはいけるとよく言われる。しかし、それはある意味、別の苦しさを味わうことになる。飢えても人の世話にはなりたくないというのが、手続きの煩雑さと相まってホームレスの道を選択させているのかもしれない。さらには、いわゆる「貧困ビジネス」が巧みに貧しい彼等からさらに収奪する…
 今までの日本が豊かであったと言われるのは、実は無数の弱者の犠牲の上に成り立ってきたからではないのか。朝鮮戦争やベトナム戦争によって大量消費された「死」によって、GDPを貯めこんできただけではないのか…
 このままでは児童虐待はたとえ監視体制を強め罰則を強化しても、無くならないことは明白だ。私達が、弱者の犠牲の上に社会を構築していることに気付かない限りは。
 
 

「熟議カケアイ:文科省政策創造エンジン」

2010-07-30 08:30:32 | 日記
文科省が始めた社会実験「熟議カケアイ - 文科省 政策創造エンジン」とは?

以下は上記WEBサイトからの抜粋です。
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「熟議」とは、多くの当事者による「熟慮」と「討議」を重ねながら政策を形成していくことです。具体的には、政策を形成する際の、下記のようなプロセスのことを言います。

1.多くの当事者(保護者、教員、地域住民等)が集まって、
2.課題について学習・熟慮し、討議をすることにより、
3.互いの立場や果たすべき役割への理解が深まるとともに、
4.解決策が洗練され、
5.個々人が納得して自分の役割を果たすようになる、
教育を取り巻く様々な状況の変化を踏まえつつ、課題に立ち向かい、乗り越えるための知恵と実行力を生み出していくためには、教育現場に関わる様々な立場の方による「熟議」に基づく教育政策形成を促進することが求められています。
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これに対し、JB Press による以下の記事も参考になった。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3789

ツイッタ―上では、名古屋でも始めたい、とつぶやく方が多い。私も勿論、皆が論議を交わすことに異議は無い。
しかし、どうしても文科省主導ということに引っ掛かるのは、過去の先輩方の苦渋、そして今なお続いている闘争の数々を考えると素直になれないからだろう。「今までの事は忘れて、さあ、みんなで仲良くやろまい!」と言われて、「そうだね、仲良くしないとね!」と言った途端、梯子を外される、なんて嫌だからね。

それでも、きっと自分の近くで始まれば積極的に参加してしまう自分が想像できる。全く無視するか、うがった見方のまま非難に終始するか、“大人”になって粛々と述べるべきことを述べ、聴くべきことを聴き、改めるは改めて少しでもベターな社会の創造に手を貸すか、答ははっきりしている…かなあ?とにかく、今のところ自分から始める気はないが、協力できるところは協力できれば、と思う。

3D映画「アバター」は満員でした

2010-02-28 08:51:03 | 日記
職場で観た人が居て、「3D映画というものはこういうものなんだ」というつもりで観るとそれなりに面白い、とのこと。そういうことならば、何でも首を突っ込みたくなる私、あまり乗り気でない妻を誘ってネットで前日に予約した。
通常なら、夫婦50歳以上割引きで2人で2000円なのに、これは割引がなく、一人2000円!ちょっとつらい。普段の給与の少なさが、愉しむ気持ちを半減させる…嫌だね、ビンボーは。
そんなわけで、眼鏡を日常的にかけている私は、その上にさらに3D用をかける・・・重い。首が疲れる。しかし、3Dはそれなりに楽しめた。戦闘シーンが好きな自分としても、その点は満足。
しかし、この世に存在するすべての物に生命が宿るというのは、私達東洋人にとっては、ごく日常的な感覚。それをテーマにされて感動しろと言われても、はぁ~…
それよりも、CGによる映像なのに、登場人物達に感情移入していくのが、自分にとっては不思議だった。正直、気色悪い感覚が、気がつくと色っぽい感覚に変化した。
これは、もしかしたら計算されているのだろうが、それを差し引いても、丁寧に登場人物の気持ちを追いかけていくことにより、私達はそこに「命」や「生」を感じ、シンクロするのかな。