---児童虐待という言葉が聞かれるようになったのはいつの頃だったろうか---
<教育と実社会>
私はたまたま学習塾、学童保育、小学校教諭として子ども達とは20年以上付き合ってきた。正直言って、あまりいい“先生”ではない。謙遜ではなく、周りには素晴らしい先生方が輝きを放っており、素直に自分の力量の程度を認めざるを得ない。何よりも、そんな先生は子ども達の信頼を得る。勿論、どういった教育や先生が子どもの成長にベストであるかは、実のところ分からない。それは、社会生活を送ってみればすぐに分かる。社会は学校現場ですべてカバーできるほど単純ではないからだろう。
<児童相談所>
いわゆる児相(じそう)と呼ばれるこの施設は、私も自分が関わるまで、教育関係者といえどもあまり実態はよく知らなかった。世間一般で、子どもに関わる重大事件が起こったときに耳にする、そんな程度であり、他の多くの教員も大差ないと思う。
私があるとき産休代理で1年生を担任したときのことである。まず、クラスの子たちと会う前、最初に児相へ行かされた。そこで元気のよさそうな素直な男の子と面会した。普通の1年生と変わらない、むしろ動きもきびきびしており、運動が得意なことはすぐに察しが付いた。ただ、どうしてここに居るかを確かめたとき、一気に表情は崩れた。
<家出>
彼は、継父の暴力が怖くて一週間も家出をしていたのだ、1年生で!昼はショッピングモールやゲームセンターなど大人にあまり関心を抱かれないところ、夜は駐車場の車の陰やマンションの踊り場などを転々としていた。食べ物は万引き。彼の素早く頭脳的な行動が補導を遅らせることになった。
<家族>
実母、継父、2歳年下の妹、生後間もないあかちゃんの5人家族。彼と妹は前夫の子である。
継父は若く、仕事は不安定だった。「躾」のため、特に彼には簡単に手をあげていた。面談してみても、ごく普通の若者であり、愛想も悪くない。
<それまで>
実は家出は今回が初めてではなかった。私が児相で会う前にも何回かやっていた。その都度、前の担任と児相の相談員が継父に暴力を止めるよう説得している。一時は収まるもののすぐに繰り返される。今回は、とうとう保護ということになったそうだ。
<学級で>
1年生は、やはりかわいい。よく言われているが、「知能検査」を「血の検査」と聞き間違えるなんてことはざらであり、だじゃれの好きな私はよくからかっていた。かわいいが、うるさい。休み時間などへっちゃらで床に寝ころんでいるから踏みつけそうになることも度々だ。おもらしもする。給食中はあちこちのテーブルで牛乳をひっくり返す。ケンカはする。訳の分からないことで泣いている。事情を聞いてもさっぱりだ。給食は栄養満点で美味しく、安いので重宝するが、教師にとっては「食事」ではなく、栄養剤を胃に押し込む行事だ。
そんな喧騒の中で、彼は抜群の生活力を見せる。妹や弟の面倒をみているせいか、他の1年生よりはるかに“大人”だ。誰に対しても優しく、公正な判断もできる。よって、女の子にも評判は良い。頭もよい。モテる。
ただ、服装や持ち物には貧しさが隠しきれない。目ざとい悪童は見逃さず、虐める。1年生といえども虐めるときは用意周到だ。やすやすと尻尾はつかませない。証拠がなく指導すれば、たちまち保護者から電話が入る。
<別れ>
私が彼らの担任だったのは3学期だけだったので、2年生は別のクラスだった。新しい担任は私と殆ど交流がなく、私も新しい学級の子達との“闘争”に入っていたので気にはなっていたが、廊下で会えば声をかける程度だった。しかし、しばらく経って、突然転校した。東北だった。詳しいことは分からない。
<貧困>
以上の話は特に珍しいものではない。ただ、児童虐待の起こる背景は千差万別だが、どこか必ずといっていいほど「貧困」が関わっている。彼の場合も家庭訪問してみて5人が住むには貧弱極まるアパートだった。
もっとも、昭和28年生まれの私からみれば自分はもっと狭い所だったし、クラスメイトには名古屋港のはしけの船上で過ごしていたり、空き地にバラックを建てて電気もなく生活していたりする者も居た。勿論、これらは「貧困」そのものだった。貧困は当たり前だった。労働運動専従だった父の収入では、公立高校に行かせてもらえるのがやっとだった。そんなことは皆承知しており、中学では進学組と就職組に分かれた授業だった。大学に行こうとする者は圧倒的に少数派だった。少なくとも私の小学生の頃は、父のような「組合」に入ることが現実的な目標だった。
そんな私達は、勿論、良い子であるはずがない。ケンカはする、掃除サボっては立たされて往復ビンタ、家に居るのは食事と寝るときだけ。学校からの帰り道は靴を履いたままランドセルを家の中に放り投げて遊びに行く。夜、宿題しようとすると電気がもったいないとか行って消灯される。朝やるのが面倒なときは往復ビンタ…とまあ、あの頃の先生方も大変だったろうなあ。
でも、あの頃、即ち日本が戦後から昭和39年の東京オリンピック開催の頃までの日々の貧しさは、今の「貧困」ではない。GDPは圧倒的に少ないだろうが、実感として物はなかったが、貧しさは辛くはなく、ある種、「誇り」だった気がする。かつて同じクラスに、本当に極貧の友達が居て、4畳半に家族6人で暮らしていた。ただそいつは算数だけは誰にも負けず、私はどうしても追いつけなかった。いつもどこで探してくるのか難しい問題に同時に取り組んでも、負け続けた。クラスには学習塾なるものに行っていた「金持ち」達には、私達2人は絶対に負けたくなかった。彼は今、中学で数学の教師だ。
<貧困から先へ…>
貧しさは厳しい。夢も希望も奪う。食べていくことの厳しさに必死にならざるを得ない。今の「貧困」は、生活保護等受ければ食べてはいけるとよく言われる。しかし、それはある意味、別の苦しさを味わうことになる。飢えても人の世話にはなりたくないというのが、手続きの煩雑さと相まってホームレスの道を選択させているのかもしれない。さらには、いわゆる「貧困ビジネス」が巧みに貧しい彼等からさらに収奪する…
今までの日本が豊かであったと言われるのは、実は無数の弱者の犠牲の上に成り立ってきたからではないのか。朝鮮戦争やベトナム戦争によって大量消費された「死」によって、GDPを貯めこんできただけではないのか…
このままでは児童虐待はたとえ監視体制を強め罰則を強化しても、無くならないことは明白だ。私達が、弱者の犠牲の上に社会を構築していることに気付かない限りは。
<教育と実社会>
私はたまたま学習塾、学童保育、小学校教諭として子ども達とは20年以上付き合ってきた。正直言って、あまりいい“先生”ではない。謙遜ではなく、周りには素晴らしい先生方が輝きを放っており、素直に自分の力量の程度を認めざるを得ない。何よりも、そんな先生は子ども達の信頼を得る。勿論、どういった教育や先生が子どもの成長にベストであるかは、実のところ分からない。それは、社会生活を送ってみればすぐに分かる。社会は学校現場ですべてカバーできるほど単純ではないからだろう。
<児童相談所>
いわゆる児相(じそう)と呼ばれるこの施設は、私も自分が関わるまで、教育関係者といえどもあまり実態はよく知らなかった。世間一般で、子どもに関わる重大事件が起こったときに耳にする、そんな程度であり、他の多くの教員も大差ないと思う。
私があるとき産休代理で1年生を担任したときのことである。まず、クラスの子たちと会う前、最初に児相へ行かされた。そこで元気のよさそうな素直な男の子と面会した。普通の1年生と変わらない、むしろ動きもきびきびしており、運動が得意なことはすぐに察しが付いた。ただ、どうしてここに居るかを確かめたとき、一気に表情は崩れた。
<家出>
彼は、継父の暴力が怖くて一週間も家出をしていたのだ、1年生で!昼はショッピングモールやゲームセンターなど大人にあまり関心を抱かれないところ、夜は駐車場の車の陰やマンションの踊り場などを転々としていた。食べ物は万引き。彼の素早く頭脳的な行動が補導を遅らせることになった。
<家族>
実母、継父、2歳年下の妹、生後間もないあかちゃんの5人家族。彼と妹は前夫の子である。
継父は若く、仕事は不安定だった。「躾」のため、特に彼には簡単に手をあげていた。面談してみても、ごく普通の若者であり、愛想も悪くない。
<それまで>
実は家出は今回が初めてではなかった。私が児相で会う前にも何回かやっていた。その都度、前の担任と児相の相談員が継父に暴力を止めるよう説得している。一時は収まるもののすぐに繰り返される。今回は、とうとう保護ということになったそうだ。
<学級で>
1年生は、やはりかわいい。よく言われているが、「知能検査」を「血の検査」と聞き間違えるなんてことはざらであり、だじゃれの好きな私はよくからかっていた。かわいいが、うるさい。休み時間などへっちゃらで床に寝ころんでいるから踏みつけそうになることも度々だ。おもらしもする。給食中はあちこちのテーブルで牛乳をひっくり返す。ケンカはする。訳の分からないことで泣いている。事情を聞いてもさっぱりだ。給食は栄養満点で美味しく、安いので重宝するが、教師にとっては「食事」ではなく、栄養剤を胃に押し込む行事だ。
そんな喧騒の中で、彼は抜群の生活力を見せる。妹や弟の面倒をみているせいか、他の1年生よりはるかに“大人”だ。誰に対しても優しく、公正な判断もできる。よって、女の子にも評判は良い。頭もよい。モテる。
ただ、服装や持ち物には貧しさが隠しきれない。目ざとい悪童は見逃さず、虐める。1年生といえども虐めるときは用意周到だ。やすやすと尻尾はつかませない。証拠がなく指導すれば、たちまち保護者から電話が入る。
<別れ>
私が彼らの担任だったのは3学期だけだったので、2年生は別のクラスだった。新しい担任は私と殆ど交流がなく、私も新しい学級の子達との“闘争”に入っていたので気にはなっていたが、廊下で会えば声をかける程度だった。しかし、しばらく経って、突然転校した。東北だった。詳しいことは分からない。
<貧困>
以上の話は特に珍しいものではない。ただ、児童虐待の起こる背景は千差万別だが、どこか必ずといっていいほど「貧困」が関わっている。彼の場合も家庭訪問してみて5人が住むには貧弱極まるアパートだった。
もっとも、昭和28年生まれの私からみれば自分はもっと狭い所だったし、クラスメイトには名古屋港のはしけの船上で過ごしていたり、空き地にバラックを建てて電気もなく生活していたりする者も居た。勿論、これらは「貧困」そのものだった。貧困は当たり前だった。労働運動専従だった父の収入では、公立高校に行かせてもらえるのがやっとだった。そんなことは皆承知しており、中学では進学組と就職組に分かれた授業だった。大学に行こうとする者は圧倒的に少数派だった。少なくとも私の小学生の頃は、父のような「組合」に入ることが現実的な目標だった。
そんな私達は、勿論、良い子であるはずがない。ケンカはする、掃除サボっては立たされて往復ビンタ、家に居るのは食事と寝るときだけ。学校からの帰り道は靴を履いたままランドセルを家の中に放り投げて遊びに行く。夜、宿題しようとすると電気がもったいないとか行って消灯される。朝やるのが面倒なときは往復ビンタ…とまあ、あの頃の先生方も大変だったろうなあ。
でも、あの頃、即ち日本が戦後から昭和39年の東京オリンピック開催の頃までの日々の貧しさは、今の「貧困」ではない。GDPは圧倒的に少ないだろうが、実感として物はなかったが、貧しさは辛くはなく、ある種、「誇り」だった気がする。かつて同じクラスに、本当に極貧の友達が居て、4畳半に家族6人で暮らしていた。ただそいつは算数だけは誰にも負けず、私はどうしても追いつけなかった。いつもどこで探してくるのか難しい問題に同時に取り組んでも、負け続けた。クラスには学習塾なるものに行っていた「金持ち」達には、私達2人は絶対に負けたくなかった。彼は今、中学で数学の教師だ。
<貧困から先へ…>
貧しさは厳しい。夢も希望も奪う。食べていくことの厳しさに必死にならざるを得ない。今の「貧困」は、生活保護等受ければ食べてはいけるとよく言われる。しかし、それはある意味、別の苦しさを味わうことになる。飢えても人の世話にはなりたくないというのが、手続きの煩雑さと相まってホームレスの道を選択させているのかもしれない。さらには、いわゆる「貧困ビジネス」が巧みに貧しい彼等からさらに収奪する…
今までの日本が豊かであったと言われるのは、実は無数の弱者の犠牲の上に成り立ってきたからではないのか。朝鮮戦争やベトナム戦争によって大量消費された「死」によって、GDPを貯めこんできただけではないのか…
このままでは児童虐待はたとえ監視体制を強め罰則を強化しても、無くならないことは明白だ。私達が、弱者の犠牲の上に社会を構築していることに気付かない限りは。
ツイッター名はnisipaです。
私のブログはまだ始めたばかりであまり多くないですが、これから頑張って書いていこうと思います。
息子が教師をしていることもあり、子供が大好きなこともあり、虐待問題は非常に気にしています。
つねづね思うに子供の幸せ>母親の幸せ>父親の幸せ(仕事・給与)>社会の構造と追及してきて、「社会が人を幸せにする仕組みをちゃんとしないと子どもが幸せにならない、子供が幸せにならないと未来は暗い」と考え、ブログに書いたようないろいろなことを考えています。
是非一読あれ。