晴旅雨旅

爺の前に道は無し。爺の後にも道は消えかけて…枯れた中年爺の独り言

大ナゴヤ大学特別授業「未来の知事さんとカンパーイ」

2010-12-16 14:09:20 | 教育
<概要>
さる12月12日(日)の夕刻,NPO法人・大ナゴヤ大学による第4回特別授業:未来の知事さんとカンパーイ!(愛知県知事選挙立候補者特別授業,教室:アスナルホール)が
・御園 慎一郎(民主)・土井 敏彦(共産)・大村 秀章(減税日本)・薬師寺 道代(みんなの党)・重徳 和彦(自民)
の5氏を講師に招いて開催された。
 募集期間が短いにも関わらず,新聞等で事前に紹介されたこともあり,募集定員をオーバーする参加希望者のうち,先着150名に限られた学生が参加した。さらに,報道各社のTVカメラ,新聞記者,また,各候補者の随員など会場は熱気に包まれた。
 授業の内容は,候補者が自らの半生の浮き沈みを述べてその人柄が伝わるように工夫を凝らしたり,また,学生が大ナゴヤ大学の恒例となっている30秒自己紹介したりするなど単なる「観客」に収まるのではなかった。さらに,学生は10人ごとのグループディスカッションで,自らが望む愛知県のキャッチフレーズを話し合ってそれを個性溢れる方法で発表するなど,「学生」として主体的に関わっていける仕掛けがなされていたりした。
 <候補者登場直前>
私の役割は,候補者の方々を会場に案内するというものであったが,裏方としての話を披露させていただけば,本人達は登壇直前であることなどお構い無しに,控室前で初対面ということで名刺交換を始めていた。やきもきする我々スタッフには冗談を言ったり明るい笑顔を振りまいたりして,緊張する中にも温かい雰囲気で包みこまれていた。さすが各団体から知事候補に推薦されている方々だ。私はこの時点で会の成り行きを楽観した。
<授業本番>
 これに関しては,学長はじめたくさんの方のレポートを参照していただきたい。
 簡単にいえば,よく練られた素晴らしい展開だった。私達ボラスタ(ボランティアスタッフ)には見慣れた光景でも,初めて大ナゴヤ大学の授業に参加していただいた方々には新鮮であったようだ。参加者全員が主役であるというコンセプトを私はいつも感じているが,同じものを感じていただけたのではなかろうか。
<候補者>
 私はこれまで何度も政治集会や討論会に参加してきたが常に残念に思ってきたのは,参加者が相手に同意できる部分をわざわざ封印して,その欠点・弱点を浮き上がらせることばかりに躍起となることであった。その行いの虚しいこと,相手を打ちのめしたつもりが自分の人間性の醜さをさらしているだけだということに早く気付いてほしい。もう有権者はかつてのそれではない。
 今回は,お互いにまず自己史を語り皆で共有することにっよって相手を尊重し,実は隣人も同じように自分達の住む地や人々に貢献したいという思いを抱いていることを率直に認めることができたのではないだろうか。
<学生>
 聴衆である学生も,人間の体温を感じさせてくれた全員の候補者に好感を抱いたはずだ。中には,誰に投票しようか皆それぞれに魅力的だ,という声まで聞こえてきた。こちらまで嬉しくなる。
<選挙>
 選挙はよく「生き馬の目を抜く」世界といわれる。仲良しグループでは戦えない,そんな甘いものじゃない,と述べることは容易だ。ただ,それを語ってどうだというのだ。評論したって何も生まれはしないし,そんな評論は却って未来を蝕む要因の一つになってしまうことだってある。
<政治>
「政治」は極めて人間的なものであろう。ならば,ドロドロしたものとは逆の清々しい部分だって併せ持っているはずだ。確かに簡単に正解は見つからないであろうし,理想ばかりを追い求めるような駄々をこねているわけでもない。ただ,私達は目前で苦しんでいる人々を放置できないし,自分自身もより充実した日常を追い求めたい。「政治」とは広い意味で考えるならば,人と人の繋がり・関係性である。狭義では,公的なお金を誰が誰のためにどのように使うか,ということの決定権を巡る動きのことと考えられるかもしれない。
<大ナゴヤ大学に感謝>
 そんな考えを再度もたらしてくれた候補者やそれを発する場を提供してくれた大ナゴヤ大学に,私は素直に感謝したい。あの場に居たすべての人々,心なしかマスコミの皆さんでさえ,「政治」をより大きく深く捉えようというジャーナリストの片鱗を見せてくれたように感じた。参加者に対するあちらこちらで行われているインタビューの雰囲気はそれを感じさせていたと思うのは,言い過ぎか?
<明日から>
 確かにそれはほんの一瞬であったかもしれない。また,明日からは日々の糧を得るために私達は心にもないお世辞を述べ笑顔を振り撒き,世の憂さを晴らすために様々な地に赴き,ときにはお酒の力をかり,何ともなりそうもない現実の中で人に当たり,自分を罵るのであろう。
しかし,そんなやるせない日々の中でも,ふとこの日のことを想い出し,何かを誰かと共有できる気もしてくる。「明日」というのは,やはり「明るい日」のことだったと。