どうも!どうも!いやいや、お正月疲れと言う奴で・・・(笑) 日曜日、どこへ行こう?かと。新聞配達終えて、一旦、寝る!
起きたのは10時過ぎ。まだ決めてない。ブログネタになるような場所がいい!けど、どうも遠くへ行く気がしない。(^◇^)そこで、とりあえずネット検索!
あちゃ~~~~!出初式は日曜日やったんやぁ~!しまった、しまった!島倉千代子。 もう、あがいても無理。こうなれば、今までまだ撮った事のない場所が良い!ネット検索してると・・・あった!近くヤン!まだ年初めだし、歴史を勉強してもいいか!と、言う事で、難波宮跡(なにわのみやあと)に行くことに決定。場所は、上町筋沿いにある。法円坂付近。いわゆるあのNHKのある付近だ。地下鉄では谷町四丁目駅すぐ!
では、そんな史跡をご紹介しましょう。
では」、解説を! 史跡難波宮跡
現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大坂城の南西に整備されている。
難波宮の遺跡は現在の馬場町・法円坂・大手前四丁目付辺に及んでおり、大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館のある一角も難波宮の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができる。 同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したもの。難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。
難波宮史跡公園の場所は、1871年(明治4年)以降に兵部省(のち陸軍省)の管轄地となり、1945年(昭和20年)の敗戦時には歩兵第8連隊が置かれていた。占領軍の接収解除後すぐに鴟尾が発見されたこともあり、開発の手から免れ広大な敷地の確保が可能となった。
2006年(平成18年)には、万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろの木簡が出土している。木簡は長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器や地層の状況から前期・難波宮の完成前後のものと考えられ、万葉仮名は天武・持統朝(672年-697年)に成立したと考える説に再考を促す発見であった。
難波宮跡公園の北側を東西に通る阪神高速道路東大阪線は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用されたためである。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう、地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっている。
ウイキペディア参照。
右に見えるのが上町筋です。
中へ入りますと、こんな感じです。
長閑な光景が広がります。
こんな石碑もありました。
この建物は歴史博物館でして、ここに行けば大阪の歴史がまるわかりでございます。
これも史跡の一つでしょうか!
なんのために作られたのでしょうね!
階段を上がってみますとこんな景色です。
中央大通りと、その向こうに天守閣が見えます。
小さな子供さんを連れた人達が遊んでました。
降りまして、反対側から撮ってます。
とにかく広い公園になってますね。
まぁ^~^、のんびりと好きなように撮影を楽しんでおりました。はい。
今日も訪問有難うございます。
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