アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

自称イタリア人のオヤジが、好きなサッカーやらグルメやら、何でも不定期に気まぐれに書き綴るサイトです。

百人一首のこと

2024-12-09 06:00:00 | つれづれ

こう見えて、かつては文学青年だったと自称している小生(苦笑)、これまでも大海人皇子と額田王の歌や、百人一首などを何度か取り上げてきた。

 

 今年の大河ドラマ「光る君へ」でも、百人一首に歌を残している人がたくさん出てきた。ちなみに道長は残していないが・・・

 そんな中、元文学青年を謳う小生にはまことにうかつだったが、こんな記事が目に留まった。それによれば・・・

  

 百人一首は時代の古い順に並んでいるという・・・あっ、そうか。だから天智天皇が一番、持統天皇が二番なのか・・・と。

 すると、こんな記事も見つかった。そう・・・「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」この内容の歌を天皇が詠むのか? と。

 

 記事にある通り、天智天皇作? というべき歌だが、そもそも一番が天智天皇である理由についても書かれていた。逆にいえば、記事には書かれていないが、大海人皇子と額田王の歌が入っていないのも納得だ。

 そして二番の持統天皇とは親子でペアになるとも。このペア理論で小生が思い出したのが、式子内親王と藤原定家だ。

 

 この二人は許されざる恋仲と、今でも言われていて、しかも定家は百人一首の選者。式子内親王の「玉の緒よ 絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする」に対し、定家のそれは・・・

 「来ぬ人を まつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ」と

 

 定家葛が親王の墓に巻き付いていたというエピソードも有名だが、定家の想いがよくよく理解できる小生である。

 理解できるといえば、「光る君へ」で、少し前に崩御した三条院の歌もしみる。「心にも あらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな」と。

 

 道長とのせめぎ合いで、心にもなく退位を余儀なくされた天皇の想いが見えるではないか、こうして見ると定家すげえじゃんって。

 さて、定家は鎌倉時代の人物なので、最後は鎌倉時代の歌になる。それが順徳院だ。

 

 「百敷や 古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり」背景がわからないとわからないが・・・

 彼が、承久の乱で父後鳥羽上皇とともに島流しになった、順徳天皇だと思えば意味がしみこんでくる。

 

 ちなみに後鳥羽上皇の歌は99番だ。ときに、トップ写真の貞信公は、小倉山の紅葉について歌ったもので、小生が最初に気に入ったものだ。

 なんで気に入ったんだって? あ、決して「ミユキちゃんを当時待っていたから」ではないので、念のため。(←やっぱりそうか)

 

 百人一首は深いなあ・・・(汗)

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