「天めいの 生死を分けた 十五段」という歌をご存知だろうか。この歌は、実は決して古いものではないが、この歌が詠まれるきっかけとなった出来事は江戸時代のことである。
歴史マニアの方には、この時点でご存知のことだろうが、小生恥ずかしながら、この現場にこれまで来たことがなかった。
それが先日紅葉を見にイコウヨウ(寒)なんてことになり、母を乗せて車を駆ったところで立ち寄る機会に恵まれた。ここは日本のポンペイとも呼ばれている。
それが今日紹介する天明三年焼け遺跡である。場所は、群馬県の嬬恋村であるが、当時は鎌原村といった。ここからは、今なお活動盛んな浅間山が見える。
そう、ここは天明三年の浅間山の大噴火の火砕流で一瞬にして村が埋もれてしまったのである。当時の村で一番高台にあったのが、この観音堂、村人たちが逃げ込んだという。
この石段、現在は15段であるが、昭和に入っての発掘調査で50段あったことが判明した。つまり35段まで埋もれたことになる。
この発掘調査では有名な事実が判明している。なんと石段の途中に、二体の女性の白骨遺体が見つかったのだ。しかも、どやら一人が一人を背負った形で力尽きているという。
おそらくは、足の弱った母親を背負った娘さんがここまで逃げようとしている刹那、大量の土石流に飲み込まれたものと推測される。
それが冒頭の「天めいの・・・」である。言わずもがなだが、これは天明と天命の掛詞となっている。まさに日本のポンペイである。
今はなんでもない小さな神社であるが、この15段には鎌原村の村人約100人の命を支える重みがあったということになる。
ちなみに、村の建物はこの神社を除いてすべて埋もれたという・・・
この噴火のすさまじさは、天明の大飢饉を呼んだ異常気象として日本に影響を与えただけでなく、成層圏にまで達した噴煙がヨーロッパにまでおよび、世界的な異常気象として、革命等にまで関与したとの説もあるほどである。
そんな歴史を抱きつつ、今日も浅間山からは大地の息吹が聞こえている・・・
場所は浅間白根高原ルート沿いであり、鬼押出しにもほど近い。機会があれば、読者の皆さんにも一度訪れてみてはいかがだろうか。
歴史マニアの方には、この時点でご存知のことだろうが、小生恥ずかしながら、この現場にこれまで来たことがなかった。
それが先日紅葉を見にイコウヨウ(寒)なんてことになり、母を乗せて車を駆ったところで立ち寄る機会に恵まれた。ここは日本のポンペイとも呼ばれている。
それが今日紹介する天明三年焼け遺跡である。場所は、群馬県の嬬恋村であるが、当時は鎌原村といった。ここからは、今なお活動盛んな浅間山が見える。
そう、ここは天明三年の浅間山の大噴火の火砕流で一瞬にして村が埋もれてしまったのである。当時の村で一番高台にあったのが、この観音堂、村人たちが逃げ込んだという。
この石段、現在は15段であるが、昭和に入っての発掘調査で50段あったことが判明した。つまり35段まで埋もれたことになる。
この発掘調査では有名な事実が判明している。なんと石段の途中に、二体の女性の白骨遺体が見つかったのだ。しかも、どやら一人が一人を背負った形で力尽きているという。
おそらくは、足の弱った母親を背負った娘さんがここまで逃げようとしている刹那、大量の土石流に飲み込まれたものと推測される。
それが冒頭の「天めいの・・・」である。言わずもがなだが、これは天明と天命の掛詞となっている。まさに日本のポンペイである。
今はなんでもない小さな神社であるが、この15段には鎌原村の村人約100人の命を支える重みがあったということになる。
ちなみに、村の建物はこの神社を除いてすべて埋もれたという・・・
この噴火のすさまじさは、天明の大飢饉を呼んだ異常気象として日本に影響を与えただけでなく、成層圏にまで達した噴煙がヨーロッパにまでおよび、世界的な異常気象として、革命等にまで関与したとの説もあるほどである。
そんな歴史を抱きつつ、今日も浅間山からは大地の息吹が聞こえている・・・
場所は浅間白根高原ルート沿いであり、鬼押出しにもほど近い。機会があれば、読者の皆さんにも一度訪れてみてはいかがだろうか。
以前に何処かで書いた事がありましたが、フィリピンで火山の噴火が起きた時、ここ、カリフォルニアで見る夕焼けが真っ赤でとてもキレイだったのを覚えています。その火山の噴火のせいだと。。。
フィリピンの火山がカリフォルニアまで影響するなんて・・・