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暑さ寒さも彼岸まで・・・というわけで、(←どういうわけだ?)能登半島方面に出掛けることになった。
実のところ、健保組合の関係で和倉温泉加賀屋が取れたので行ってみようということになったのだが・・・
せっかくなので、乗ったことのない北陸新幹線とか、金沢観光も・・・ということで、プランニング。まずは朝早い新幹線で金沢へ、となれば兼六園に行くのが筋だろう。
だが、今回はまずはということで金沢城を攻めてみることにした。ご存じ金沢城は兼六園に隣接していて、かつては城内に金沢大学があったことでも知られている。
兼六園の入り口付近からこちらの橋を渡ると、向こうが金沢城だ。ちなみにこの下は大きな道路になっていて、かつては百閒堀という堀があったという。
この内堀が百間の幅・・・ほんとなら180mということになる。さすがは加賀百万石のお城だ。正面に見えるのが石川門で、明和2年(1765)の建物という。
もちろん重文であるが、中に入っての見学もできた。だが、それ以上にこの門の石垣が興味深いものだった。
この上の写真でご覧になれるだろうか。右と左で石垣の積み方が違う。右側は「切石積み」左は「粗石加工積み」になっている。
明和2年に門を改修した際のことらしいが、当時から左右で積み方が異なるのはおかしいと議論があった由。
そういえば、彦根城でも改修の際に、石垣の積み方が異なったケースがあったが、あちらは初期のものが「野面積み」だから、この「粗石加工積み」よりさらに古い。
さて、現在は天守はないが、広場の向こうに見える巨大な長屋がすごい。これが二百間長屋という建物。いかに加賀藩が権勢を誇ったかがうかがえる。
今の我々は、漠然と藩というと今の県くらいの認識でいるが、たとえば石川県でいえば、加賀藩と能登藩があったわけで、もっと細かいエリアになっていた。
10万石から大名なので、いかに加賀藩が大きかったか、そして「武士の家計簿」や「包丁侍」のような記録がしっかり残っていたりするところもさすがだ。
そんな思いを持ちながら、橋を戻りそのお城の庭園である兼六園に歩みを進めた。
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