阪神淡路大震災から20年。
今日はTVではその特集。
あの日、不思議と5時46分前に目覚めた私。
京都の団地でも大きな揺れに家内と娘の寝てる部屋に飛び込み、タンスが倒れるのを
支えてた。この地は岩盤が強く、大きな被害はなかったが、京都南部では被害が多き
かった。
刻々と伝える災害のテレビの画像。
その後、わが職場でも支援の体制が組まれ、救援に赴いた職員もあったが、私は丁度
仕事のピーク。なんかしなければと思う気持ちと仕事を遂行しなければという気持ち
のジレンマ。あの時は募金で気持ちを伝えることにした。
阪神大震災で何も自分が動けなかったという自責もあって、東日本大震災の時は矢も
楯もたまらず、岩手での支援に応募した。
わずか2週間だったが、ちょっとは役に立てたのかなぁ。
神戸は復興したけど、被災した人々のなかでは心の中に20年の歴史が記録されている。
人は死ぬまでは輝いて生きていたいし、死んだらその人が周りの人に輝いてたと心に
残る生き方をしたいと言っていたのが印象的でした。
今日はTVではその特集。
あの日、不思議と5時46分前に目覚めた私。
京都の団地でも大きな揺れに家内と娘の寝てる部屋に飛び込み、タンスが倒れるのを
支えてた。この地は岩盤が強く、大きな被害はなかったが、京都南部では被害が多き
かった。
刻々と伝える災害のテレビの画像。
その後、わが職場でも支援の体制が組まれ、救援に赴いた職員もあったが、私は丁度
仕事のピーク。なんかしなければと思う気持ちと仕事を遂行しなければという気持ち
のジレンマ。あの時は募金で気持ちを伝えることにした。
阪神大震災で何も自分が動けなかったという自責もあって、東日本大震災の時は矢も
楯もたまらず、岩手での支援に応募した。
わずか2週間だったが、ちょっとは役に立てたのかなぁ。
神戸は復興したけど、被災した人々のなかでは心の中に20年の歴史が記録されている。
人は死ぬまでは輝いて生きていたいし、死んだらその人が周りの人に輝いてたと心に
残る生き方をしたいと言っていたのが印象的でした。
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