
うつ解消マニュアル
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第19回目(2008・11・22作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「オアシス運動」
「北海道マラソンの想い出」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104

今回は、私たちが失いかけている大切な言葉の話を、少ししたいと思います。
『オアシス運動』というのを知っていますか。
先ずは、「オ」です。
「オ」は、「おはようございます」です。
朝は年少者が年長者に挨拶をするのが当たり前のことだったのですが、
最近は挨拶の声が聞こえてきません。
歳が下であるとか上であるとかは、実は重要なことではないのですが、
挨拶がないというのは、
悪く言えば相手に悪意を持っているとも取られかねません。
「私はあなたが好きです。」と言わないまでも、
「私はあなたに悪意を持っていません。」
という自己表現と考えるといいのではないでしょうか。
馬のそばに近づくときに「ドウ、ドウ」と言って
馬をビックリさせないようにしますが、これと同じ事だと思うのです。
朝の挨拶は、一歩外に出た途端、
自分のテリトリーから公の場所乃至他人のテリトリーに入ることですから、
やはり挨拶は必要なのです。
侍の時代であれば、黙って側を通ろうものなら、
きっと刀でバッサリと切られてしまうでしょう。
外国ならどうでしょう。
つまり、挨拶は人のためにするものではなく、
結局自分のためにするものだと思うのですが、如何でしょうか。
それにしても、挨拶をされると気分は良いし、
その人に好感を持ってしまうのは何故でしょうか。
だから、力一杯自分から挨拶をしましょう。
私は古い人間だから、挨拶は常識中の常識ですが、
例えば恥ずかしいなどと言い訳している人も含め、
自分のために挨拶をして欲しいものです。
よろしくお願いしますね。
「ア」は、「有り難うございます」です。
有り難うを言うときは、社交辞令で言う時もありますが、ほとんどの場合、
自分のために他の人が何かをしてくれた時に出る喜びの言葉です。
私たちはやはり社会的動物なのですね、
「有り難う」と言われるととても嬉しくなります。
つまり、言う方は勿論ですが、言われた方も幸せになるのです。
「有り難う」も結局自分のためになっています。
自分のために何かをしてくれた人に「有り難う」を言っただけなのに、
その人から好感を持たれるのですからね。
古い私には、「有り難う」を言うのは常識なのですが、
これも恥ずかしくて言えないという人も含めて、
自分自身が幸せになるために元気に大きな声で「有り難う」と言ってみませんか。
「シ」は、「失礼します(失礼しました)」です。
やはり黙ってその場を離れると失礼になります。
先にテリトリーの話をしましたが、
公の場所や他人のテリトリーに入るのですから「失礼します」、
そこから離れる時も自然に出てきて然るべき言葉ではないでしょうか。

最後に、「ス」の「すみません(すみませんでした)」です。
最近は自己主張をする人が多く、謙虚な人が少なくなったと思いませんか。
東京に就職したばかりの時、
朝の通勤ラッシュの電車の中でよく足を踏まれたものですが、
何故か踏まれた自分の方が謝っていました。
そんな時、ある先輩が笑いながら
「そんなことでは東京では生きていけないぞ。
東京やアメリカでは、例え自分が人の足を踏んでも謝ってはならない。
むしろ何故踏んだと怒らねばならない。」
などと言うのです。
そうしないと、「訴えられるぞ」と脅すのです。
でも、私の拙い人生経験をお話しすれば、訴えられたことはないし、
私に非が無いことが明らかであればあるほど、相手は恐縮するのです。
だから、大抵のことは平和裡に終わったものです。
考えてみると、私の『オアシス』は、
両親や善良なる年長者から自然に教えられてきたことだったような気がします。
私の『オアシス』の傍らには、何時も笑顔がありました。
ところで、これは妻から聞いたことなのですが、
ある大手の会社の朝の挨拶は、「頭を良くしよう」から始まるのだそうです。
なんと、
ア「明るく」
タ「楽しく」
マ「前向きに」
「オアシス」なんかは当たり前のことで、その上を行っているようですね。

(北海道美瑛町、ポピーの丘と名付けました)
さて、以前のブログで『サロマ湖100キロマラソンの想い出』を書きましたが、今日は『北海道マラソンの想い出』を書きたいと思います。
失敗談、二つです。(11回出場のうち4回途中棄権)
先ずは、『勘違い』
北海道マラソンは、私が出ていたものでは最も大きな大会でしたので、
沿道には多くの見物人がおりました。
沿道の応援というものは実に不思議なもので、
何度か背中を押してもらってゴールをしたものです。
あれは確か、5回目の出場の時のことだった思います。
その頃、私には「走る哲学」のようなものが心に芽生え、
「走ること=生きること」と考え、この瞬間・瞬間を大事にしていました。
だから、応援してくれる人には出来るだけ頭を下げ、笑顔をふるまったものです。
一番辛い、30キロを過ぎた頃のことです。
「○○さん、頑張って!」と言う力強い声が後ろから聞こえました。
それもしっかりと、私の名を呼ぶのです。
その応援は、辛く限界ギリギリで走っていた私には天からの贈り物でした。
あまりに嬉しかったものですから、
数十メートル戻りその人に「有り難う」と言いました。
しかし、見たことのない顔だったので
「失礼ですが、どなたでしたか?」と聞きました。
すると、
「北海道新聞の号外であなたの背番号をみて名前を呼んで「頑張れ!」と言ったのです。あまりに元気のない疲れた走りをしていたものですから・・・」
私は正直、顔から火が出るほど恥ずかしかったのですが、
その後は何だかとても嬉しく心が軽くなったせいか、
時間制限内にゴールが出来ました。
目出度し、目出度しのひとこまでした。
恥ずかしい想い出ですが、それ以上に幸せな一日でした。

(北海道美瑛町、ポピーの丘と名付けました)
それから、出場7回目にはこんなこともありました。
『空飛ぶ悲劇』です。
それは、スタートから間もない頃で、公道に出た時のことでした。
若者の熱烈な沿道の応援に、後ろを振り向きながら手を振ったその瞬間でした。
体が大きく宙に飛びました。
空を飛んだのです。(何にかに、つまずいたのです。)
沿道からは、大きな笑い声が聞こえてきました。
全身を強か打ち、膝を擦りむいて血が出ていました。
それはもう走れるというような状態ではなかったのですが、
沿道の笑いが同情に変わることを恐れ、私はすっと立ち上がり、
笑顔で手を振りながら走り出したのです。
今思うと不思議でなりません。
その若者集団からみえなくなった曲がり角で、
腰を下ろし膝の血を拭い、体を休めました。
それからがまた不思議な笑いと共に力が沸いてきて、
この時もまた制限時間ギリギリにゴールが出来ました。
やって出来ないことはないと信じていますが、
それにしても不思議な力を感じました。
自分という人間と、他人という人間にです。
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第19回目(2008・11・22作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「オアシス運動」
「北海道マラソンの想い出」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104

今回は、私たちが失いかけている大切な言葉の話を、少ししたいと思います。
『オアシス運動』というのを知っていますか。
先ずは、「オ」です。
「オ」は、「おはようございます」です。
朝は年少者が年長者に挨拶をするのが当たり前のことだったのですが、
最近は挨拶の声が聞こえてきません。
歳が下であるとか上であるとかは、実は重要なことではないのですが、
挨拶がないというのは、
悪く言えば相手に悪意を持っているとも取られかねません。
「私はあなたが好きです。」と言わないまでも、
「私はあなたに悪意を持っていません。」
という自己表現と考えるといいのではないでしょうか。
馬のそばに近づくときに「ドウ、ドウ」と言って
馬をビックリさせないようにしますが、これと同じ事だと思うのです。
朝の挨拶は、一歩外に出た途端、
自分のテリトリーから公の場所乃至他人のテリトリーに入ることですから、
やはり挨拶は必要なのです。
侍の時代であれば、黙って側を通ろうものなら、
きっと刀でバッサリと切られてしまうでしょう。
外国ならどうでしょう。
つまり、挨拶は人のためにするものではなく、
結局自分のためにするものだと思うのですが、如何でしょうか。
それにしても、挨拶をされると気分は良いし、
その人に好感を持ってしまうのは何故でしょうか。
だから、力一杯自分から挨拶をしましょう。
私は古い人間だから、挨拶は常識中の常識ですが、
例えば恥ずかしいなどと言い訳している人も含め、
自分のために挨拶をして欲しいものです。
よろしくお願いしますね。
「ア」は、「有り難うございます」です。
有り難うを言うときは、社交辞令で言う時もありますが、ほとんどの場合、
自分のために他の人が何かをしてくれた時に出る喜びの言葉です。
私たちはやはり社会的動物なのですね、
「有り難う」と言われるととても嬉しくなります。
つまり、言う方は勿論ですが、言われた方も幸せになるのです。
「有り難う」も結局自分のためになっています。
自分のために何かをしてくれた人に「有り難う」を言っただけなのに、
その人から好感を持たれるのですからね。
古い私には、「有り難う」を言うのは常識なのですが、
これも恥ずかしくて言えないという人も含めて、
自分自身が幸せになるために元気に大きな声で「有り難う」と言ってみませんか。
「シ」は、「失礼します(失礼しました)」です。
やはり黙ってその場を離れると失礼になります。
先にテリトリーの話をしましたが、
公の場所や他人のテリトリーに入るのですから「失礼します」、
そこから離れる時も自然に出てきて然るべき言葉ではないでしょうか。

最後に、「ス」の「すみません(すみませんでした)」です。
最近は自己主張をする人が多く、謙虚な人が少なくなったと思いませんか。
東京に就職したばかりの時、
朝の通勤ラッシュの電車の中でよく足を踏まれたものですが、
何故か踏まれた自分の方が謝っていました。
そんな時、ある先輩が笑いながら
「そんなことでは東京では生きていけないぞ。
東京やアメリカでは、例え自分が人の足を踏んでも謝ってはならない。
むしろ何故踏んだと怒らねばならない。」
などと言うのです。
そうしないと、「訴えられるぞ」と脅すのです。
でも、私の拙い人生経験をお話しすれば、訴えられたことはないし、
私に非が無いことが明らかであればあるほど、相手は恐縮するのです。
だから、大抵のことは平和裡に終わったものです。
考えてみると、私の『オアシス』は、
両親や善良なる年長者から自然に教えられてきたことだったような気がします。
私の『オアシス』の傍らには、何時も笑顔がありました。
ところで、これは妻から聞いたことなのですが、
ある大手の会社の朝の挨拶は、「頭を良くしよう」から始まるのだそうです。
なんと、
ア「明るく」
タ「楽しく」
マ「前向きに」
「オアシス」なんかは当たり前のことで、その上を行っているようですね。

(北海道美瑛町、ポピーの丘と名付けました)
さて、以前のブログで『サロマ湖100キロマラソンの想い出』を書きましたが、今日は『北海道マラソンの想い出』を書きたいと思います。
失敗談、二つです。(11回出場のうち4回途中棄権)
先ずは、『勘違い』
北海道マラソンは、私が出ていたものでは最も大きな大会でしたので、
沿道には多くの見物人がおりました。
沿道の応援というものは実に不思議なもので、
何度か背中を押してもらってゴールをしたものです。
あれは確か、5回目の出場の時のことだった思います。
その頃、私には「走る哲学」のようなものが心に芽生え、
「走ること=生きること」と考え、この瞬間・瞬間を大事にしていました。
だから、応援してくれる人には出来るだけ頭を下げ、笑顔をふるまったものです。
一番辛い、30キロを過ぎた頃のことです。
「○○さん、頑張って!」と言う力強い声が後ろから聞こえました。
それもしっかりと、私の名を呼ぶのです。
その応援は、辛く限界ギリギリで走っていた私には天からの贈り物でした。
あまりに嬉しかったものですから、
数十メートル戻りその人に「有り難う」と言いました。
しかし、見たことのない顔だったので
「失礼ですが、どなたでしたか?」と聞きました。
すると、
「北海道新聞の号外であなたの背番号をみて名前を呼んで「頑張れ!」と言ったのです。あまりに元気のない疲れた走りをしていたものですから・・・」
私は正直、顔から火が出るほど恥ずかしかったのですが、
その後は何だかとても嬉しく心が軽くなったせいか、
時間制限内にゴールが出来ました。
目出度し、目出度しのひとこまでした。
恥ずかしい想い出ですが、それ以上に幸せな一日でした。

(北海道美瑛町、ポピーの丘と名付けました)
それから、出場7回目にはこんなこともありました。
『空飛ぶ悲劇』です。
それは、スタートから間もない頃で、公道に出た時のことでした。
若者の熱烈な沿道の応援に、後ろを振り向きながら手を振ったその瞬間でした。
体が大きく宙に飛びました。
空を飛んだのです。(何にかに、つまずいたのです。)
沿道からは、大きな笑い声が聞こえてきました。
全身を強か打ち、膝を擦りむいて血が出ていました。
それはもう走れるというような状態ではなかったのですが、
沿道の笑いが同情に変わることを恐れ、私はすっと立ち上がり、
笑顔で手を振りながら走り出したのです。
今思うと不思議でなりません。
その若者集団からみえなくなった曲がり角で、
腰を下ろし膝の血を拭い、体を休めました。
それからがまた不思議な笑いと共に力が沸いてきて、
この時もまた制限時間ギリギリにゴールが出来ました。
やって出来ないことはないと信じていますが、
それにしても不思議な力を感じました。
自分という人間と、他人という人間にです。
やはり自分のエリア以外は、公の場、他人のエリヤと考え、謙虚になった方が良いと思います。
「すみません」や「失礼します」の後には、「あなたの横に座っても良いですか」という言葉が続くと思うのですが、どうでしょうか。
挨拶は、言った方も言われた方も気分が良いものです。
私はジョギングしているときは、何故か見ず知らずの人にも挨拶が出来るのですが、必ず返礼があります。とても気持ちが良いものです
色々見させて頂いてますが、
小さい子がいるとなかなか集中できず、
また次回見に来たいと思いますので、
見失わないようリンクをさせて下さい。
シニアさんから、勉強になるブログがあるよと紹介されて、拝見しました。
ゆったり過ごす時間は大切ですよね。
私も宵っ張りなので、気をつけたいなと思っています。
応援デス☆
子供が子宮にいた時と同じように、子供を愛してあげて下さい。
また、遊びに来て下さい。
ゆったりした時間こそが、自分と対話が出来る時だからでしょうか。
それには、黄金の時間帯だけでも寝ていなければなりません。