うつ解消マニュアル
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第31回目(2009・2・2作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
大島みち子・河野実との往復書簡
「愛と死をみつめて」・
1981年道新「いずみ」欄の
「家をなくして」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
私には2人の姉がいるのですが、どちらも優しい姉です。
今日は、上の姉の話をしたいと思います。
最近、ちょっと疎遠になっています。
詳しい話は他の機会に譲りますが、
文学への思いはその姉の影響を受けています。
確か中学生の時だった思うのですが、
大島みち子さん(みこ、1942.2.3~1963.8.7)と河野実さん(まこ、
1941.8.8~)との3年間にも及ぶ往復書簡・「愛と死をみつめて」を読んだのが、
文学に関心を持つきっかけになりました。
それまでの私は、
到底文学には縁のない世界(やんちゃな子供の世界)に生きていました。
読み進むうちに、言葉の持つ不思議な力を感じたのです。
文字の力、言葉の力、それはまさに感動力でした。
実はその本を勧めてくれたのが、上の姉でした。
家は貧しかったので本を読むなどという環境にはなかったと思うのですが、
何故か姉は沢山の本を読んでいました。
父は大変な酒豪でしたので、夜はいつも遅くに帰ってきました。
飲むと恐い父でしたので怒られないように早めに床に入ったものです。
なかなか寝付かれない時は、姉の語る昔話を楽しみにしていました。
姉は絵も上手で、近所の人にも良く褒められていましたが、
文才もありました。
前回、道新いづみ欄に載った話を書きましたが、
その時に姉の道新いづみ欄への投稿文も一緒に見つけました。
今、不景気による派遣労働者がクローズアップされていますが、
姉の文章を読むと、
28年前と状況は少しも変わっていないんだと思い知らされます。
短い文章なので全文を載せます。
世の中がどんなに豊かになっても、
日の当たらないところは依然として有り、
まさに政治の貧困を感じます。
その前に、先に紹介した「愛と死をみつめて」から、
私が最も感動した手紙の一節を書きます。
若い私が、この中に書かれた詩にどれほどの感動を覚えたか、
特にこの本を読み終えてからこの詩を読んだときの感動は、
今も忘れられません。
『まこ、貴方は私の何なのでしょう。
将来一緒に暮らせる望みなどこれっぽっちもないのに、
世間の恋人たちのように一度だって腕を組んであるくこともないのに。
おそらく生涯病院で過ごしてしまうでしょう。
私をいつも暖かく包んで下さる貴方を、
ただ、
世間の人たちと同じように恋人ですなんていっていいのでしょうか。
まこは私の神様かもしれませんネ。
幾人かの人たちは信仰を勧めてくれます。
でも私はまこだけを信じていれば充分のような気がしますもの。
ミカン箱の茶ブ台にゆのみが二つ
低い天井に暗い電燈が一つ
こんなおへやに場ちがいのステレオが
美しい夢を運んでくる
肩を寄せ合って黙って聞いている二人
こんな日が一日だけでもほしい
ふと日記に書きとめた私の気持ちです。
私たちはきっとすばらしい家庭を築けたでしょうに。
どんなに貧乏でも、
信じ、愛して、いつも明るく、
毎日毎日が夢のように過ぎていくのじゃないかしら。
これが夢であるとしても、私は不幸だと思いますまい。
こんな夢さえみないで、
若い命を奪われていった人たちがいくらでもいるのですから。』
《昭和38年(1963年)2月23日付》
大島みち子さんは、
顔に軟骨肉腫という難病に冒され、阪大病院に入院、
この時、同じ病棟で河野実さんに出会います。
この時、大島さんは高校生、河野さんは大学浪人生。
退院後文通が始まり、大島さんが21歳の若さで逝くまで続きました。
(大島さんが亡くなった日の翌日は、河野さんの誕生日でした。)
「こんな夢さえみないで、
若い命を奪われていった人たちがいくらでもいるのですから。」
とこの日の手紙は結んでいますが、
これは単なる想像や憐憫の情ではありません。
大島さんは退院後間もなく再発して再入院しますが、
自分の病状も顧みないで病気で苦しんでいる人たちの話を聞いてあげたり、
甲斐甲斐しく面倒を看ています。
そこで出会った人たち、
特に不治の病の子供たちと深く接したからこその実感なのです。
(北海道美瑛町、ポピーの丘と命名)
それでは、姉の投稿文です。
1981年北海道新聞「いずみ」欄に掲載された
「家をなくして」(当時33歳)
『いらないものをゴミ捨て場に、想い出と一緒に投げ捨てて、
ガランとした十六畳の居間にさよならをする。
売るために改造した部屋の新しさに未練を、
柱の傷の思い出に複雑な思いをいだきながら、
私たちは三人の子供と残った布団を乗せて、車に乗り込む。
第二の人生を踏みだすように、遠軽の町を過ぎて行く。
思い出と悔恨で、知らずのうちに涙があふれでる。
夫は、「もう一度建てるよ」と笑う。
子供たちは、黙って離れて行く町を見ている。
家を建ててから十年余り。
楽しいことよりも、苦しいことの方が多かった、
この数年間に、私たちは家や庭や車があっても、
決して幸せではなく、心のゆとりさえなくしかけていた。
安定していない夫の仕事を、もっと自覚していれば、
また必要なものだけで生活しようという質素な心がけであれば、
と大事な家をなくして、今、初めて気づいたのである。
現在、3DKの団地に住んでいる。
初めは、私たちも子供らも、
前とは違った狭さの中で、
イライラしていたが、少しずつ慣れた。
台所に居ても子供たちの会話が聞こえ、みんながそばにいるような、
広い家に居た時とは違った、
何かしらストーブの熱が、まんべんなくゆきわたるような暖かさを感じている。
お金で味わった、人の裏切りや優しさや数々の思い出をかみしめて、
これからの人生を悔いなく暮らしたいと思っている。
そのためにも、季節労務者に安定のある仕事を、と願わずにはいられない。』
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第31回目(2009・2・2作成)
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
大島みち子・河野実との往復書簡
「愛と死をみつめて」・
1981年道新「いずみ」欄の
「家をなくして」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
私には2人の姉がいるのですが、どちらも優しい姉です。
今日は、上の姉の話をしたいと思います。
最近、ちょっと疎遠になっています。
詳しい話は他の機会に譲りますが、
文学への思いはその姉の影響を受けています。
確か中学生の時だった思うのですが、
大島みち子さん(みこ、1942.2.3~1963.8.7)と河野実さん(まこ、
1941.8.8~)との3年間にも及ぶ往復書簡・「愛と死をみつめて」を読んだのが、
文学に関心を持つきっかけになりました。
それまでの私は、
到底文学には縁のない世界(やんちゃな子供の世界)に生きていました。
読み進むうちに、言葉の持つ不思議な力を感じたのです。
文字の力、言葉の力、それはまさに感動力でした。
実はその本を勧めてくれたのが、上の姉でした。
家は貧しかったので本を読むなどという環境にはなかったと思うのですが、
何故か姉は沢山の本を読んでいました。
父は大変な酒豪でしたので、夜はいつも遅くに帰ってきました。
飲むと恐い父でしたので怒られないように早めに床に入ったものです。
なかなか寝付かれない時は、姉の語る昔話を楽しみにしていました。
姉は絵も上手で、近所の人にも良く褒められていましたが、
文才もありました。
前回、道新いづみ欄に載った話を書きましたが、
その時に姉の道新いづみ欄への投稿文も一緒に見つけました。
今、不景気による派遣労働者がクローズアップされていますが、
姉の文章を読むと、
28年前と状況は少しも変わっていないんだと思い知らされます。
短い文章なので全文を載せます。
世の中がどんなに豊かになっても、
日の当たらないところは依然として有り、
まさに政治の貧困を感じます。
その前に、先に紹介した「愛と死をみつめて」から、
私が最も感動した手紙の一節を書きます。
若い私が、この中に書かれた詩にどれほどの感動を覚えたか、
特にこの本を読み終えてからこの詩を読んだときの感動は、
今も忘れられません。
『まこ、貴方は私の何なのでしょう。
将来一緒に暮らせる望みなどこれっぽっちもないのに、
世間の恋人たちのように一度だって腕を組んであるくこともないのに。
おそらく生涯病院で過ごしてしまうでしょう。
私をいつも暖かく包んで下さる貴方を、
ただ、
世間の人たちと同じように恋人ですなんていっていいのでしょうか。
まこは私の神様かもしれませんネ。
幾人かの人たちは信仰を勧めてくれます。
でも私はまこだけを信じていれば充分のような気がしますもの。
ミカン箱の茶ブ台にゆのみが二つ
低い天井に暗い電燈が一つ
こんなおへやに場ちがいのステレオが
美しい夢を運んでくる
肩を寄せ合って黙って聞いている二人
こんな日が一日だけでもほしい
ふと日記に書きとめた私の気持ちです。
私たちはきっとすばらしい家庭を築けたでしょうに。
どんなに貧乏でも、
信じ、愛して、いつも明るく、
毎日毎日が夢のように過ぎていくのじゃないかしら。
これが夢であるとしても、私は不幸だと思いますまい。
こんな夢さえみないで、
若い命を奪われていった人たちがいくらでもいるのですから。』
《昭和38年(1963年)2月23日付》
大島みち子さんは、
顔に軟骨肉腫という難病に冒され、阪大病院に入院、
この時、同じ病棟で河野実さんに出会います。
この時、大島さんは高校生、河野さんは大学浪人生。
退院後文通が始まり、大島さんが21歳の若さで逝くまで続きました。
(大島さんが亡くなった日の翌日は、河野さんの誕生日でした。)
「こんな夢さえみないで、
若い命を奪われていった人たちがいくらでもいるのですから。」
とこの日の手紙は結んでいますが、
これは単なる想像や憐憫の情ではありません。
大島さんは退院後間もなく再発して再入院しますが、
自分の病状も顧みないで病気で苦しんでいる人たちの話を聞いてあげたり、
甲斐甲斐しく面倒を看ています。
そこで出会った人たち、
特に不治の病の子供たちと深く接したからこその実感なのです。
(北海道美瑛町、ポピーの丘と命名)
それでは、姉の投稿文です。
1981年北海道新聞「いずみ」欄に掲載された
「家をなくして」(当時33歳)
『いらないものをゴミ捨て場に、想い出と一緒に投げ捨てて、
ガランとした十六畳の居間にさよならをする。
売るために改造した部屋の新しさに未練を、
柱の傷の思い出に複雑な思いをいだきながら、
私たちは三人の子供と残った布団を乗せて、車に乗り込む。
第二の人生を踏みだすように、遠軽の町を過ぎて行く。
思い出と悔恨で、知らずのうちに涙があふれでる。
夫は、「もう一度建てるよ」と笑う。
子供たちは、黙って離れて行く町を見ている。
家を建ててから十年余り。
楽しいことよりも、苦しいことの方が多かった、
この数年間に、私たちは家や庭や車があっても、
決して幸せではなく、心のゆとりさえなくしかけていた。
安定していない夫の仕事を、もっと自覚していれば、
また必要なものだけで生活しようという質素な心がけであれば、
と大事な家をなくして、今、初めて気づいたのである。
現在、3DKの団地に住んでいる。
初めは、私たちも子供らも、
前とは違った狭さの中で、
イライラしていたが、少しずつ慣れた。
台所に居ても子供たちの会話が聞こえ、みんながそばにいるような、
広い家に居た時とは違った、
何かしらストーブの熱が、まんべんなくゆきわたるような暖かさを感じている。
お金で味わった、人の裏切りや優しさや数々の思い出をかみしめて、
これからの人生を悔いなく暮らしたいと思っている。
そのためにも、季節労務者に安定のある仕事を、と願わずにはいられない。』
当時、私はまだ20代の若輩者で、姉のために何も出来ませんでした。
姉の辛い気持ちを、理解出来ていたかも怪しいものです。
何も出来ず優しい言葉の一つもかけられなかった自分に、後ろめたさがあるのでしょうか・・今でも姉の投稿した新聞の切り抜きを持っていたのは、そのせいだと思います。