うつ解消マニュアル
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第13回目 2008・9・8作成
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「関牧翁の和尚と叱るということ」
「中村久子の母の愛」
「うつ解消法Q&A第二弾」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
今日は突然なのですが、
ちょっと気になったことを書きます。
最近、叱る人がいなくなったことです。
叱るのは親ばかりでなく、
やはり年長者、上司だったり先輩だったりするのですが、
この人達が
子供や後輩を叱らなくなってきています。
先日歓迎会があったのですが、
幹事は遅れてくるし
主賓まで遅れてくる始末です。
そして、驚くべきことに
遅れてきた幹事や主賓は謝らないどころか、
その上司や年配者が叱ろうともしないのです。
最も、上司の一部も遅れて来たのですが・・・
嘆かわしいことです。
私の常識では、
幹事からの謝罪と説明はあって然るべきです。
最低の常識だと思うのですが、
私は古い人間なのでしょうか。
叱ると言えば、
臨済宗天龍寺管長関牧翁
(せきぼくおう、1903~1991)
の話を思い出します。
23歳の時、
岐阜県瑞巌寺の和尚の説教に
感動して遅い入門をしますが、
その頃の話です。
お寺には、7歳から13歳くらいの小僧
(まだ貧しい時代のことですから、
人減らしもあったのだと思います。)
が7人おりましたが、まだ幼い身、
夜になると
母親を思い出して
シクシクと泣くのだそうです。
しかし、和尚は「やかましい」と言って
小僧の頭を叩くので、
それを不憫に思った関さんは、
和尚に「何故、叱るのですか」と尋ねました。
その時、和尚さんはこう言ったのです。
「わしが今、頭を叩いておかないと
他人に叩かれるからだ。」
可哀相だと思って、
何も言わないことはたやすいことです。
和尚の気持ちは、
「そばにいれば面倒もみれるが、
外に一歩出れば何も出来ない。
だから、万事厳しくして、
世間に通用する人間にしているのだ。」
と、いうことだと思います。
耳に痛いことは、
言う方も聞く方も嫌なものです。
愛情を持って叱ってくれる人は
なかなかいません。
その人の未来を憂いていなければ、
叱ることは出来ないのです。
叱るとは心配することであり、
その人の未来を案じることです。
正に愛情そのものです。
一歩外に出れば、
愛情深く接してくれる人は少ない。
常識のないことをすれば、
次第に人は離れていきます。
間違ったことをしても
叱ってもらえないというのは、
その人にとって致命的になります。
私達は、子供や年少者、
後輩にもっと責任を持つべきだと思います。
子供への責任と言えば、
親の愛情について
深く考えさせられたことを少し書きます。
(北海道旭川市、花菜里ランド)
中村久子さん(1897.11.25~1968.3.19)
のことです。
三重苦と言えば
ヘレン・ケラー(1880.6.27~1968.6.1)
を思い出しますが、小林さんはそれに匹敵します。
謂わば、日本のヘレン・ケラーです。
3歳の時に突発性脱疽
(とっぱつせいだっそ・・・
高熱のため肉が焼け骨が腐っていく病)で
両腕の肘関節、両足の膝関節から切断して、
四肢を失いました。
久子さんが11歳の頃、
お母さんは彼女に裁縫をさせることを
思い立ちます。
①着物を解く②ハサミを使う③口で糸を通すこと
を課しました。
当然、出来ずに泣いていると、
「人間は働くために生まれてきた。
出来ないとは何事ですか。」
と言って、叱るのです。
どうしたら出来るかの問いにも、
「自分で考えなさい。」
と言うばかりで何も教えてくれません。
口の中は針のせいで
真っ赤な血に染まります。
母は鬼になります。
いつまでも自分が生きているわけではない。
自分は間違いなく、先に死ぬ。
だから、
「この子が一人でも生きていくことが
出来るようにしなければらない」
と考えた結果の鬼です。
お母さんの気持ちと
久子さんのあまりに厳しい状況を思うと、
胸が苦しくなります。
誰が可愛い我が子を苦しめて嬉しいでしょう。
出来ない子を叱る
母の気持ちを考えると涙が出て来ます。
深い母の愛です。
久子さん15歳の頃には、
①小刀で鉛筆を削る②口で字を書く
③歯と唇を使い針に糸を通す
④糸を口の中で玉結びする・・・
つまり、
着物を縫うことが出来るまでになります。
母あやさんが病気で亡くなったのは、
久子さん24歳の時でした。
久子さんは33歳の時、
33年間ベッドに寝たままの51歳の座古愛子
(1878.12.31~1945.3.10,
歌人で随筆家、キリスト教信者)
と出会い、
「生かされている」という境地と共に、
母の深い愛にあらためて気が付くのです。
「自分は自分の力で生きているのではない。
神様の力でいかされているのだ。」
という座古さんの言葉に
痛く感銘をうけるのです。
間もなく、
久子さんは「生まれて、生きて、生かされている」
という境地に達します。
座古さんは結婚もしてないし、
もちろん子もいない。
それなのに心は感謝で満ちあふれている。
それに比べ、自分には夫がおり子供もいる。
両手両足のない我が身を呪い、
両親と神仏まで呪い恨んできた
自分を反省したのです。
(それにしても久子さんは、
頭の良い、優れた暖かい精神を持った人です。)
厳しく育ててくれた母の深い愛に、
気が付いた瞬間でもあったのです。
中村久子さんの
素晴らしい言葉を二つ贈ります。
「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
自分に人間というものを、
人間としてどう生きるかということを教えてくれた、
最高最大の先生であった。」
「人の命とはつくづく不思議なもの。
確かなことは、自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず生かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
母の愛でもう一つ思い出したのですが、
道新の「いずみ」欄です。
題名も投稿者も何時だったかも
忘れてしまいました。
母は娘にこう言ったというのです。
「お前は不細工なのだから、
決して笑顔を忘れてはならない。」
現実の世界の厳しさを知り尽くしているからこそ、
子供の歩く道から少しでも茨を除いてあげたい
との母の悲しい思いが伝わってきます。
今でこそ、
ウソ笑いでも健康に良いと言われているし、
またミラー細胞理論から言っても、
母の進言は的確なのです。
母の愛情を悟った投稿者の笑顔は、
どんな美人の笑顔より
美しいに違いありません。
(まりー・アントワネット)
ところで、前回のQ&Aは、予想以上に反響がありました。
少し補足します。
Q1
薬を飲まないということですが、
夜眠られなくなることを考えると
不安なのですが
A1
薬には副作用があります。
耐性や依存性もあります。
本来、免疫システムが働いて
戦うことで学んでいくのに、
薬に頼ると免疫システムが
働かなくなります。
一番厄介なことは、
脳のことが良く分かっていないのに、
脳に直接働く物質を
投与していいのかという疑問です。
脳の薬は効くということで登場するのですが、
少しでも効かないという人が現れると、
途端に大半の人には効かなくなるのです。
つまりプラシーボ効果なのです。
仮に効いたとしても、
副作用を正しく知って
服用しなければなりません。
副作用が出たらやめる、
良くなったらやめる勇気が必要です。
薬は、睡眠薬でも安定剤でも抗うつ剤でも、
全て交感神経を
結果的にスイッチオンするのです。
薬に頼りすぎると、
副交感神経と交感神経のバランスを
自分の力ではとれなくなります。
つまり自律神経失調状態を作り出すのです。
だから、やめてほしいのです。
眠れないのは、
昼間知らない内に寝ているからです。
1日や2日眠らなくても死にはしません。
そう思って、本が読める、
好きなことが出来ると喜ぶべきです。
2日も寝ていなければ、
眠くてしょうがなくなります。
薬に頼ると思わぬところで眠くなり、
仕事時間中に居眠りをすることになり、
いよいよ夜になっても
眠られなくなるのです。
具合の悪い時は,病気になって
体を休めるように出来ているのですが、
体が丈夫な人は病気にならないので、
体は悲鳴をあげて
心に病をつくって休ませようとするのです。
だから、素直に仕事のことは
忘れて静養することが大事なのです。
無理をすると、
治る病も何年も引きずることになります。
とにかく、体を休めてほしいのです。
心の病にならない人は、
ガンや心臓疾患・脳疾患になりますよ。
ガンと言えば、何時も思うことですが、
助かっていないのは病院で
放射線治療や抗ガン剤治療を受けている人に
多いような気がするのですが・・・。
手の施しようがないと言われた人で、
奇跡の生還を果たした人は意外と多いのです。
避けられない死を前に
(誰でも必ず死ぬのですから、
遅いか早いかの違いなのですが)、
「死を覚悟するとストレスがなくなる」
と仮定すれば、
少なくとも交感神経優位から副交感神経優位となり、
いわゆる免疫力の上昇傾向が生まれ、
自分で自分を治すという
本来の生体に戻ったとは言えないでしょうか。
Q2
第6回目から
寅や三波春夫、道新のいずみ欄
・星の王子さま・川を渡る女・水俣病など、
うつとは直接関係のないものが書かれていますが、
何か意図があるのですか。
A2
大いに有りです。
どんな人にも悩みがあるということ。
三波春夫然り、サンテグジェペリ然り、
作家や音楽家・演奏家・哲学者・科学者、
才能豊かで何の不自由もないと
思われている有名人でさえ、
悩みに押しつぶされそうになった経験を
しているのです。
悩んでいるのは、
あなただけではないことを
知って貰いたかったのです。
水俣病は食のことですから、
正に食品偽装問題や
中国食品毒物問題など、
私達はもっと真剣に
怒らなければならないことなのです。
私達は他人事として、
遠巻きに眺める傾向があります。
火の粉が
自分のそばに来てからでは遅いのです。
寅の映画の息が長い一因は、
永遠のテーマ恋愛を扱っているばかりではなく、
思いやりを扱っているからだと思います。
思いやりは情けと同じで、
決して「人のためならず」、
自分のためなのです。
今日はこのことには深く触れませんが、
寅は私達自身なのです。
「川を渡る女」の登場人物の思いを
考えていると、
如何に自分の思いこみに
自分自身が支配されているかに
思い至る筈です。
登場人物の一人ひとりの思いを
理解しようとする努力をしていると、
養老孟司がいみじくも言った
「教養とは他人の心が分かることである
」の教養が自然に身に付きます。
この、人に優しい教養は、
結局自分自身を救うことになるのです。
というわけで、
読み進む内にうつ解消になるように、
仕組んでいるつもりなのですが、
目論見は外れていますか。
(北海道旭川市、花菜里ランド)
Q&A、もう少し続けたいのですが
、私にとって重大事件が発生しましたので、
そのことについて触れます。
ショックなことです。
二つあります。
一つは、8月に受けた国家試験のことです。
昨年は2~3日徹夜をして、
あわよくばと思ってのトライだったのですが、
今年もどうも落ちてしまったようです。
今年は前日だけの勉強とはいえ、
一番苦手な分野の手応えも充分で、
ルンルン気分で帰宅したのでした。
先週、試験問題集が送られてきて、
インターネットで民間の解答速報と照合した結果
・・・ショックでした。
今日から日常的に、
しかし決して無理をせずお菓子などを食べながら、
勉強して、来年また挑戦しようと思います。
それから、10月予定のフルマラソンです。
新聞で募集があるはずのフルマラソン、
もうひと月前だというのに何の掲載もありません。
不思議に思い、
二日前の土曜日にインターネットでアクセスしてみたら、
何と今年は中止になっていました。
30年以上も主催してきた○×走ろう会と
陸連のいざこざが原因のようです。
マラソンは、
前にただただ進むというシンプルな競技ですが、
参加する一人ひとりには
哲学や反省・喜怒哀楽を
背景に走る「人生走」なのです。
マラソンを私物化しないで
もらいたいものです。
日曜日に10キロを走りながら
このことを考えたのですが
(何時も重要なことは、
酸素が脳に充分に供給される
「ゆっくり走」で解決しています)、
来年のサロマ湖100キロマラソンまで
楽しみをとっておくことにしました。
(脳及び心疾患並びに認知症及び更年期障害予防)
第13回目 2008・9・8作成
(マニュアルは第1回目にあります。常に最新版にしています。)
「関牧翁の和尚と叱るということ」
「中村久子の母の愛」
「うつ解消法Q&A第二弾」
グー(2007.7.1開設)のブログに開設中
http://blog.goo.ne.jp/kenatu1104
今日は突然なのですが、
ちょっと気になったことを書きます。
最近、叱る人がいなくなったことです。
叱るのは親ばかりでなく、
やはり年長者、上司だったり先輩だったりするのですが、
この人達が
子供や後輩を叱らなくなってきています。
先日歓迎会があったのですが、
幹事は遅れてくるし
主賓まで遅れてくる始末です。
そして、驚くべきことに
遅れてきた幹事や主賓は謝らないどころか、
その上司や年配者が叱ろうともしないのです。
最も、上司の一部も遅れて来たのですが・・・
嘆かわしいことです。
私の常識では、
幹事からの謝罪と説明はあって然るべきです。
最低の常識だと思うのですが、
私は古い人間なのでしょうか。
叱ると言えば、
臨済宗天龍寺管長関牧翁
(せきぼくおう、1903~1991)
の話を思い出します。
23歳の時、
岐阜県瑞巌寺の和尚の説教に
感動して遅い入門をしますが、
その頃の話です。
お寺には、7歳から13歳くらいの小僧
(まだ貧しい時代のことですから、
人減らしもあったのだと思います。)
が7人おりましたが、まだ幼い身、
夜になると
母親を思い出して
シクシクと泣くのだそうです。
しかし、和尚は「やかましい」と言って
小僧の頭を叩くので、
それを不憫に思った関さんは、
和尚に「何故、叱るのですか」と尋ねました。
その時、和尚さんはこう言ったのです。
「わしが今、頭を叩いておかないと
他人に叩かれるからだ。」
可哀相だと思って、
何も言わないことはたやすいことです。
和尚の気持ちは、
「そばにいれば面倒もみれるが、
外に一歩出れば何も出来ない。
だから、万事厳しくして、
世間に通用する人間にしているのだ。」
と、いうことだと思います。
耳に痛いことは、
言う方も聞く方も嫌なものです。
愛情を持って叱ってくれる人は
なかなかいません。
その人の未来を憂いていなければ、
叱ることは出来ないのです。
叱るとは心配することであり、
その人の未来を案じることです。
正に愛情そのものです。
一歩外に出れば、
愛情深く接してくれる人は少ない。
常識のないことをすれば、
次第に人は離れていきます。
間違ったことをしても
叱ってもらえないというのは、
その人にとって致命的になります。
私達は、子供や年少者、
後輩にもっと責任を持つべきだと思います。
子供への責任と言えば、
親の愛情について
深く考えさせられたことを少し書きます。
(北海道旭川市、花菜里ランド)
中村久子さん(1897.11.25~1968.3.19)
のことです。
三重苦と言えば
ヘレン・ケラー(1880.6.27~1968.6.1)
を思い出しますが、小林さんはそれに匹敵します。
謂わば、日本のヘレン・ケラーです。
3歳の時に突発性脱疽
(とっぱつせいだっそ・・・
高熱のため肉が焼け骨が腐っていく病)で
両腕の肘関節、両足の膝関節から切断して、
四肢を失いました。
久子さんが11歳の頃、
お母さんは彼女に裁縫をさせることを
思い立ちます。
①着物を解く②ハサミを使う③口で糸を通すこと
を課しました。
当然、出来ずに泣いていると、
「人間は働くために生まれてきた。
出来ないとは何事ですか。」
と言って、叱るのです。
どうしたら出来るかの問いにも、
「自分で考えなさい。」
と言うばかりで何も教えてくれません。
口の中は針のせいで
真っ赤な血に染まります。
母は鬼になります。
いつまでも自分が生きているわけではない。
自分は間違いなく、先に死ぬ。
だから、
「この子が一人でも生きていくことが
出来るようにしなければらない」
と考えた結果の鬼です。
お母さんの気持ちと
久子さんのあまりに厳しい状況を思うと、
胸が苦しくなります。
誰が可愛い我が子を苦しめて嬉しいでしょう。
出来ない子を叱る
母の気持ちを考えると涙が出て来ます。
深い母の愛です。
久子さん15歳の頃には、
①小刀で鉛筆を削る②口で字を書く
③歯と唇を使い針に糸を通す
④糸を口の中で玉結びする・・・
つまり、
着物を縫うことが出来るまでになります。
母あやさんが病気で亡くなったのは、
久子さん24歳の時でした。
久子さんは33歳の時、
33年間ベッドに寝たままの51歳の座古愛子
(1878.12.31~1945.3.10,
歌人で随筆家、キリスト教信者)
と出会い、
「生かされている」という境地と共に、
母の深い愛にあらためて気が付くのです。
「自分は自分の力で生きているのではない。
神様の力でいかされているのだ。」
という座古さんの言葉に
痛く感銘をうけるのです。
間もなく、
久子さんは「生まれて、生きて、生かされている」
という境地に達します。
座古さんは結婚もしてないし、
もちろん子もいない。
それなのに心は感謝で満ちあふれている。
それに比べ、自分には夫がおり子供もいる。
両手両足のない我が身を呪い、
両親と神仏まで呪い恨んできた
自分を反省したのです。
(それにしても久子さんは、
頭の良い、優れた暖かい精神を持った人です。)
厳しく育ててくれた母の深い愛に、
気が付いた瞬間でもあったのです。
中村久子さんの
素晴らしい言葉を二つ贈ります。
「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
自分に人間というものを、
人間としてどう生きるかということを教えてくれた、
最高最大の先生であった。」
「人の命とはつくづく不思議なもの。
確かなことは、自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず生かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
母の愛でもう一つ思い出したのですが、
道新の「いずみ」欄です。
題名も投稿者も何時だったかも
忘れてしまいました。
母は娘にこう言ったというのです。
「お前は不細工なのだから、
決して笑顔を忘れてはならない。」
現実の世界の厳しさを知り尽くしているからこそ、
子供の歩く道から少しでも茨を除いてあげたい
との母の悲しい思いが伝わってきます。
今でこそ、
ウソ笑いでも健康に良いと言われているし、
またミラー細胞理論から言っても、
母の進言は的確なのです。
母の愛情を悟った投稿者の笑顔は、
どんな美人の笑顔より
美しいに違いありません。
(まりー・アントワネット)
ところで、前回のQ&Aは、予想以上に反響がありました。
少し補足します。
Q1
薬を飲まないということですが、
夜眠られなくなることを考えると
不安なのですが
A1
薬には副作用があります。
耐性や依存性もあります。
本来、免疫システムが働いて
戦うことで学んでいくのに、
薬に頼ると免疫システムが
働かなくなります。
一番厄介なことは、
脳のことが良く分かっていないのに、
脳に直接働く物質を
投与していいのかという疑問です。
脳の薬は効くということで登場するのですが、
少しでも効かないという人が現れると、
途端に大半の人には効かなくなるのです。
つまりプラシーボ効果なのです。
仮に効いたとしても、
副作用を正しく知って
服用しなければなりません。
副作用が出たらやめる、
良くなったらやめる勇気が必要です。
薬は、睡眠薬でも安定剤でも抗うつ剤でも、
全て交感神経を
結果的にスイッチオンするのです。
薬に頼りすぎると、
副交感神経と交感神経のバランスを
自分の力ではとれなくなります。
つまり自律神経失調状態を作り出すのです。
だから、やめてほしいのです。
眠れないのは、
昼間知らない内に寝ているからです。
1日や2日眠らなくても死にはしません。
そう思って、本が読める、
好きなことが出来ると喜ぶべきです。
2日も寝ていなければ、
眠くてしょうがなくなります。
薬に頼ると思わぬところで眠くなり、
仕事時間中に居眠りをすることになり、
いよいよ夜になっても
眠られなくなるのです。
具合の悪い時は,病気になって
体を休めるように出来ているのですが、
体が丈夫な人は病気にならないので、
体は悲鳴をあげて
心に病をつくって休ませようとするのです。
だから、素直に仕事のことは
忘れて静養することが大事なのです。
無理をすると、
治る病も何年も引きずることになります。
とにかく、体を休めてほしいのです。
心の病にならない人は、
ガンや心臓疾患・脳疾患になりますよ。
ガンと言えば、何時も思うことですが、
助かっていないのは病院で
放射線治療や抗ガン剤治療を受けている人に
多いような気がするのですが・・・。
手の施しようがないと言われた人で、
奇跡の生還を果たした人は意外と多いのです。
避けられない死を前に
(誰でも必ず死ぬのですから、
遅いか早いかの違いなのですが)、
「死を覚悟するとストレスがなくなる」
と仮定すれば、
少なくとも交感神経優位から副交感神経優位となり、
いわゆる免疫力の上昇傾向が生まれ、
自分で自分を治すという
本来の生体に戻ったとは言えないでしょうか。
Q2
第6回目から
寅や三波春夫、道新のいずみ欄
・星の王子さま・川を渡る女・水俣病など、
うつとは直接関係のないものが書かれていますが、
何か意図があるのですか。
A2
大いに有りです。
どんな人にも悩みがあるということ。
三波春夫然り、サンテグジェペリ然り、
作家や音楽家・演奏家・哲学者・科学者、
才能豊かで何の不自由もないと
思われている有名人でさえ、
悩みに押しつぶされそうになった経験を
しているのです。
悩んでいるのは、
あなただけではないことを
知って貰いたかったのです。
水俣病は食のことですから、
正に食品偽装問題や
中国食品毒物問題など、
私達はもっと真剣に
怒らなければならないことなのです。
私達は他人事として、
遠巻きに眺める傾向があります。
火の粉が
自分のそばに来てからでは遅いのです。
寅の映画の息が長い一因は、
永遠のテーマ恋愛を扱っているばかりではなく、
思いやりを扱っているからだと思います。
思いやりは情けと同じで、
決して「人のためならず」、
自分のためなのです。
今日はこのことには深く触れませんが、
寅は私達自身なのです。
「川を渡る女」の登場人物の思いを
考えていると、
如何に自分の思いこみに
自分自身が支配されているかに
思い至る筈です。
登場人物の一人ひとりの思いを
理解しようとする努力をしていると、
養老孟司がいみじくも言った
「教養とは他人の心が分かることである
」の教養が自然に身に付きます。
この、人に優しい教養は、
結局自分自身を救うことになるのです。
というわけで、
読み進む内にうつ解消になるように、
仕組んでいるつもりなのですが、
目論見は外れていますか。
(北海道旭川市、花菜里ランド)
Q&A、もう少し続けたいのですが
、私にとって重大事件が発生しましたので、
そのことについて触れます。
ショックなことです。
二つあります。
一つは、8月に受けた国家試験のことです。
昨年は2~3日徹夜をして、
あわよくばと思ってのトライだったのですが、
今年もどうも落ちてしまったようです。
今年は前日だけの勉強とはいえ、
一番苦手な分野の手応えも充分で、
ルンルン気分で帰宅したのでした。
先週、試験問題集が送られてきて、
インターネットで民間の解答速報と照合した結果
・・・ショックでした。
今日から日常的に、
しかし決して無理をせずお菓子などを食べながら、
勉強して、来年また挑戦しようと思います。
それから、10月予定のフルマラソンです。
新聞で募集があるはずのフルマラソン、
もうひと月前だというのに何の掲載もありません。
不思議に思い、
二日前の土曜日にインターネットでアクセスしてみたら、
何と今年は中止になっていました。
30年以上も主催してきた○×走ろう会と
陸連のいざこざが原因のようです。
マラソンは、
前にただただ進むというシンプルな競技ですが、
参加する一人ひとりには
哲学や反省・喜怒哀楽を
背景に走る「人生走」なのです。
マラソンを私物化しないで
もらいたいものです。
日曜日に10キロを走りながら
このことを考えたのですが
(何時も重要なことは、
酸素が脳に充分に供給される
「ゆっくり走」で解決しています)、
来年のサロマ湖100キロマラソンまで
楽しみをとっておくことにしました。