大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

20240902 十和田神社と乙女の像―十和田湖の力(その2)―青い森への旅の記録08

2024-12-28 15:36:02 | 日記

※ 本来は「2024年9月2日の十和田湖」に関する一つの記事ですが文字数がオーバーしたため2回に分けてお送りしております。これは2回目(その2)です。フォトチャンネルに関しては(その2)に掲載しています。

    *    *    *    *

 お腹が満足したところであたりを散策。まずは「もりた」さんからすぐの十和田神社へ。

 入口の大鳥居。なかなか雰囲気のある構え。杉木立は背が高く深い。かなり年輪を刻んでいることがわかる。左右の狛犬はマンガチック。

  参道を歩く。静かである。

 並木が高く聳(そび)えると厳粛な感じがする。

 数百メートル程歩いた先に木造りの鳥居。写真では見えにくいが本柱を二本の控え柱に繋いで支える両部鳥居(りょうぶとりい)というそうだ。宮島(広島県)の厳島(いつくしま)神社の鳥居と同じである。

 手水舎(ちょうずや、てみずや)。手水の出所は龍の頭があしらわれている。

 右手にさらに鳥居と石段が続く。こちらを五十メートル程登る。

 社殿が見えてきた。

 拝殿。屋根の流線形が優雅。大きくないが苔の緑で覆われたその姿は古色蒼然とし風格がある。

 まずは参拝。

 実はこの拝殿の右手には本殿と熊野神社と稲荷神社がありその上の木の階段を登ると磐座(〔いわくら〕…古神道における神の御座所としての岩)と青龍神社

と八幡社のある奥の院につながりさらに先にある鉄梯子(てつばしご)を降りると先程パワーボートで訪れた占場(うらないば)があるという。

 拝殿は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀(まつ)り青龍神社は青龍大権現を祀る。これは神社の二つの由来を物語る。

 十和田神社は二つの縁起を持つ。一つは大同2年(807年…平安時代)征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の折に湖が荒れて渡れなかったため祠(ほこら)を建てて祈願しイカダを組んで渡ったのが始まりというもの。もう一つは熊野で修行した南祖坊(なんそぼう:たぶん修験道の僧)が当時湖を支配していた八郎太郎を自ら龍となって退治し自分は湖に入定(入滅)した。この南祖坊を青龍権現として祀ったというもの。それぞれが拝殿と青龍神社に当たる。熊野神社は熊野(奈良)由来である修験道との関連であろう。江戸時代は十湾(とわだ)寺として熊野修験の寺院であったのが明治の廃仏毀釈で十和田神社になったとの由。

 また南祖坊にまつわる言い伝えの中には「十和田」の名の由来のうかがえるものがある。

≪熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋〔わらじ〕と錫杖〔しゃくじょう〕を神から授かり、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得て、諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたといいます。当時、十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり、湖を支配していたそう。そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋〔ひろ…一尋は六尺(約一・八メートル)〕(約36m)の身体を、十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治〔し〕たという伝説が残っています。南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されています。≫(十和田国立公園協会HP 古刹〔こさつ〕・十和田神社より引用)≫

 因みに南祖坊に退治された八郎太郎は旅をして日本海近くに至りそこに作ったのが「八郎潟」だという。しかも話はこれで終わらず八郎太郎は田沢湖(秋田)の辰子姫(たつこひめ)に思いを寄せ毎冬通うようになったのだが或る冬に辰子の元に南祖坊が立っていたので再度戦いになり今度は八郎太郎が勝利し辰子とともに田沢湖で暮らすようになったのだという。ナンジャそりゃという話だがこれを三湖伝説(wiki)という。

 こういった話は旅の後に調べて分かったのだが個人的には約十年前の「田沢湖」の旅(20160819 石巻川開き祭り帰省 04 -那須塩原温泉に寄ってきた+去年の田沢湖温泉の旅-)とつながってうれしかった。(つながったことによる「そうだったのか!」感と話が出来過ぎていることによる「ホンマかいな?」感の両方ある。)

 だいぶ脱線したがこの由緒ある神社をもっと丹念に見ておくべきだった。今回は本当に駆け足で通り過ぎてしまった。と今は思う。尚奥の院の先にある占場は現在立入禁止(東日本大震災以後・梯子の老朽化に因る)であり舟などで湖側から訪れるしかない。また占いそのものは御前ヶ浜で行われているという。 

 手水舎に戻り左へ進むと「乙女の像」がある。 遊歩道も特に手入れされた感じではないが青々とした緑のトンネルになっている。

 「乙女の像」については一応聞いたことがあるがよくある観光資源つまりは客寄せみたいなものと思っていたのであまり意識になかったのだが前日のクルーズで高村光太郎作と知り「なんで?」と思いよく見てみることにした。「なんで?」というのは「なぜ芸術家光太郎が所謂観光地の人寄せ的なものを作ったのか」と不思議に思ったということである。

 一見して逞(たくま)しい女性の体躯が印象的である。「乙女」という言葉からイメージされる「優しさ」「美しさ」「可愛らしさ」から懸け離れて意外である。なぜこのように力と強さをもった姿なのか。それと見たまんまだが二人の女性が向かい合っている。なぜ二人の女性が向かい合うのか。そしてそもそもなぜ十和田湖に「乙女」なのか。

 光太郎が「乙女の像」を制作する経緯は当地の十和田湖国立公園協会のサイトにまとめられている。当初十和田湖を世に出した功労者顕彰のための石碑建立計画だったものが「世界的な景勝地に、ありきたりの石碑では似つかわしくない」として撤回され建設準備委員会より「関東大震災復興記念像『悲しみの群像』(被服廠跡)のような芸術作品を据える」ことが提案されたこと。詩人佐藤春夫の尽力。光太郎の「十和田湖の美しさに深く感動した。湖上を遊覧しているうちにいくつも制作イメージが湧いた」「湖水に写った自分の像を見ているうちに、同じものが向かい合い、見合うなかで深まっていくものがあることを感じた。それで同じものをわざと向かい合わせた」といった言葉。これらから乙女の姿が力強いのは過酷な十和田の地にしかと立つためであり二人の女性が向かい合うのは一人の女性が自らの内面を見つめる姿を描いているからであり像が「乙女」であるのは十和田の地がそうであるようにこの像も清らかな存在であるべきだからと考えられた。

 またこの像がお披露目された昭和28年(1953年)10月から遅れること2か月昭和29年(1954年)1月1日発行の婦人公論に光太郎は次の一文を寄せている。

*   *   *   *

 十和田湖の裸像に與ふ
              高村光太郎

 銅とスズとの合金が立つてゐる。
 どんな造型が行はれようと
 無機質の圖(図)形にはちがひがない。
 はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
 きたならしさはここにない。
 すさまじい十和田湖の圓(円)錐空間にはまりこんで
 天然四元の平手打をまともにうける
 銅とスズとの合金で出來た
 女の裸像が二人
 影と形のやうに立つてゐる。
 いさぎよい非情の金屬(属)が青くさびて
 地上に割れてくづれるまで
 この原始林の壓(圧)力に堪へて
 立つなら幾千年でも默つて立つてろ。

*    *    *    *

 「黙って立ってろ」の衝撃。

 ブロンズ即ち青銅は銅と錫(スズ)の合金であり色は錫の割合により赤銅から黄金や白金である。しかし大気に触れるうち表面は酸化し緑青(ろくしょう)を吹く。つまり緑色―所謂(いわゆる)「青銅」色になる。最初期の計画の石碑がブロンズ像へと至ったのはこの青銅色が十和田の地の湖と樹々の緑にふさわしいと光太郎が感じたからではないか。像は歳を降るごとに十和田の地に溶け込みやがて十和田そのものになる。そう光太郎は構想したと思われる。湖上から見た「乙女の像」の緑は森の緑とも湖のエメラルドグリーンとも呼応するのだ。

 荒天の十和田湖にも「乙女の像」は違和感なく馴染む。それが十和田湖の一部であるかのように。

 味わい深い「乙女の像」を後にし駅前広場に戻り15:00に宿の送迎バスに乗る。

 車は湖の西へとひた走る。休屋を出ると青森と秋田の県境になる神田川を渡る(閉まっていたお店の名前はこの川に因んだのか!)。そこはもう秋田県である。といっても十和田湖自体が青森県と秋田県にまたがっていて境界線と湖面の割合(6:4)が定められたのは2008年と比較的最近のことである。権利関係はいろいろ難しいので曖昧にしておいたということか。龍神パワーが大きくて人間界のしきたりは後回しになったのか。因みに土産物屋では青森と秋田の名産品が普通に両方扱われている。

 今宵の宿「十和田ホテル」。全景写真を撮り忘れたので後で撮影したものを載せておく。写真右奥が正門であるが左手前に通常使用のエントランスがあり普段はそこから出入りする。正門は使用可能だが現在は鑑賞用の意味合いが強い。

 館内の廊下。通常のカメラで撮影したが雨に濡れたためにレンズ内が曇り画像がボヤケてしまった。

 ここからiphoneでの撮影に戻る。部屋内部のようす。

 湖の眺めが良いのはもちろんだが上質な感じがする。什器。壁。カーペット。すべてが落ち着き品がある。部屋全体がゆったりとした空間の造りになっている。新しさや華美さはない。シンプルだ。しかしだからこそ使い込まれるほどに品格を増す質の高さが際立つ。

 お出迎えのお菓子はリンゴジャムの入った小さなお饅頭でなかなか美味しく土産に買って帰ったが好評だった。個人的には右に写っているJRバス東北休屋駅で買った「ソフトりんご」がお気に入りだ。リンゴをフリーズドライしただけなのだがりんごの味のエッセンスがダイレクトに味わえる感じがいい。一袋300円以上と結構な値段である。美味しいものは高いのだ。(和菓子やケーキを考えれば安いかな。)

 一休みした後夕食へ。会場食でコース料理をいただいた。お酒はとりあえずビールのハートランドをいただいた。

 前菜だけでも酒の肴としてかなり楽しめる。一つひとつ楽しんでいるとなかなか先に進まないのは給仕泣かせである。「みず」は青森に帰ってきたという感じがする。冬瓜のあっさり味も個人的に好きな味である。旅先で結構出会うのがうれしい。

 平目の白ワイン蒸し。平目の上品で淡白な旨味を大事にしつつソースで変化を楽しむ。

 鰻や柳川風は当地でよく見る気がするが何か特に好まれているということはあるのだろうか。肉料理の前に軽い味わいにするためか。鰻をさっぱりいただけた。

 牛肉のグリエは直火焼の香ばしさが楽しい(撮影失念)。肉の産地をメニューに明記していないのは細かい産地へのこだわりはないからとのこと。その時最も美味しいものを使っていることは言うまでもない。

 次はお食事で枝豆ご飯。前菜では枝豆豆腐。デザートでも枝豆パウンドケーキ。枝豆は当地の名産なのでフル回転の活躍である。津軽の毛豆といって普通よりも大粒でコクがあり栗のような風味食感があるそうだがその通り濃厚な味で私は好きである。

 食べかけ撮影御免。この夜は日本酒も飲んだはずだがよく覚えていない。 

 美味しかった。一つひとつがしっかりしたお味で楽しめた。

 この後軽くお風呂に入りおとなしく就寝である。十和田湖で龍神様の手荒い歓迎を受け十和田神社でパワーをいただき「乙女の像」で光太郎と千恵子に思いを巡らした。青森グルメとホテルのディナーで腹も落ち着いた。あとは休むほかあるまい。

 こうして2024年9月2日の青い森への旅は終わったのである。

 

20240902 十和田湖の力 ーパワーボートクルーズと青森グルメと十和田神社と乙女の像―青い森への旅の記録07-08

 

 

 

付記1 十和田湖の青森県と秋田県の県境については「十和田湖 wiki 」の「地理」を参考のこと。

 

付記2 お菓子の情報…十和田ホテルや休屋駅で出会ったお菓子は下記のサイトで購入できます。

  ソフトりんご(ふじor王林)…はとや製菓

  青森りんご焼…株式会社林檎の森 MS 

 

付記3 つぶやいていない曲

Art Garfunkel --- I Believe

 


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