父に最後に会ったのは、大塚の亀蔵おんちゃんが亡くなった時だ。2003年か2004年だったろうか。
その年の1月30日に訃報を聞き、仕事の中学受験最盛期だったが、通夜に出るために帰省したのだった。
知らせてくれたのは母(喜久子)だった。後から聞くと、兄の忠典は、もし私が「帰らない」と言ったら、「首に縄をつけてでも引っ張ってくる」と言ったそうだ。
私は母から電話で報せを聞くと、「そうか…」と言った後すぐ、「帰るよ」と言った。それほど大塚というのは、世話になった、いや、現在の私の内部のとても大事な部分をつくってくれた「地」だからである。
だから大塚のことについては、いずれ詳しく書きたいと思う。
仙台駅ではその兄が車で迎えに来ており、そこから大塚まで乗せて行ってもらった。
通夜に出た後、石巻に着くと、父は2階の居間で布団に横になったまま私を迎えた。
およそ20年ぶりの再会だった。相変わらずにこやかだった。
伏せっていて大儀そうなのもあって、大して話もしなかった。ただ、当時40歳前半で未婚の私に、
「なんだい、あんだ、いい人なのに。」
と言ったのを覚えている。それを覚えているのは、やはり人を褒める言葉というのは、こうも人を幸福感で満たすものなのかと思い知らされたからだろう。
なんだか『伊豆の踊り子』の一場面のようだが、当時の父は、踊ることなどできなかっただろう。母と社交ダンスを踊っていた元気だった頃のことを思い出す。
最後に会った父は、私に言葉の力を示してくれた。彼は生まれついての教育者だったのだ。
※ 付記
大塚とは、宮城県東松島市大塚のことである。かつては「桃生郡鳴瀬町大塚」といった。亀蔵さんは、私の母(喜久子)の姉(まさ子)の夫である。まさ子おばちゃんは健在である。大塚は私の第二の故郷である。
その年の1月30日に訃報を聞き、仕事の中学受験最盛期だったが、通夜に出るために帰省したのだった。
知らせてくれたのは母(喜久子)だった。後から聞くと、兄の忠典は、もし私が「帰らない」と言ったら、「首に縄をつけてでも引っ張ってくる」と言ったそうだ。
私は母から電話で報せを聞くと、「そうか…」と言った後すぐ、「帰るよ」と言った。それほど大塚というのは、世話になった、いや、現在の私の内部のとても大事な部分をつくってくれた「地」だからである。
だから大塚のことについては、いずれ詳しく書きたいと思う。
仙台駅ではその兄が車で迎えに来ており、そこから大塚まで乗せて行ってもらった。
通夜に出た後、石巻に着くと、父は2階の居間で布団に横になったまま私を迎えた。
およそ20年ぶりの再会だった。相変わらずにこやかだった。
伏せっていて大儀そうなのもあって、大して話もしなかった。ただ、当時40歳前半で未婚の私に、
「なんだい、あんだ、いい人なのに。」
と言ったのを覚えている。それを覚えているのは、やはり人を褒める言葉というのは、こうも人を幸福感で満たすものなのかと思い知らされたからだろう。
なんだか『伊豆の踊り子』の一場面のようだが、当時の父は、踊ることなどできなかっただろう。母と社交ダンスを踊っていた元気だった頃のことを思い出す。
最後に会った父は、私に言葉の力を示してくれた。彼は生まれついての教育者だったのだ。
※ 付記
大塚とは、宮城県東松島市大塚のことである。かつては「桃生郡鳴瀬町大塚」といった。亀蔵さんは、私の母(喜久子)の姉(まさ子)の夫である。まさ子おばちゃんは健在である。大塚は私の第二の故郷である。
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