これは2010年6月21日(月)・22日(火)の帰省の備忘録である。
今回の帰省の目的は、石巻商業高校に父の卒業年度を問い合わせることである。
6月21日(月)。午前中に仕事をしてから午後1時頃に自宅を出発。
生田駅前にある亀屋万年堂で抹茶金時の水羊羹を土産に買おうと寄るが、先客が数組あり、電車の時間も迫っていたので、断念。駅へ。
生田から新宿まで小田急線で30分、新宿から東京駅までJR中央線快速で16分、東京から仙台まで新幹線はやて21号(13:56発)で1時間40分分、仙台から石巻まで仙石線快速(15:58発)で69分、17:07に石巻着(の予定)。
家を出る時にだいぶバタバタしたため、いつも携行する父の書籍(遺品)を持たず、列車内では雑誌NumberでW杯の記事などを読んでいた。
仙台駅で土産を買おうとしたら、涼しい和菓子(自分が食べたいから)がなかなか見つからない。ずんだ餅は冬に買ったし、萩の月を試食してみたら、強烈に甘い(と感じた)ので、どうもなあと思いつつ、ようやく小倉つぶあん入り抹茶水羊羹をみつけ9個詰め合わせてもらった(3,150円)。店名は『銀座あけぼの』である。仙台で東京の店の買物はしたくなかったが、仙台駅構内およびSpalは、牛タン、ずんだ、笹かまのオンパレードで、夏向けのすっきりした和菓子が少ないのである(これは石巻にも言える)。観光客の土産用の店が多いのだろうから仕方がないが。
仙台で土産探しに1時間ほどかかったので、電車をずらしたが、この時に気づいたのは仙石線の仙台発石巻行の各駅停車の便が非常に少ないこと(塩釜・多賀城止まりが多い)。次の快速に乗るには、ほぼ1時間待たねばならない。ということで17時頃の仙石線快速に乗車。
石巻に18:00頃到着。小腹が空いていて夕飯には少し時間があるかと思い、以前物色しておいた駅前の食堂で石巻焼きそばを食することにする。藤や食堂さんである。
肉野菜やきそばを注文。10分後ぐらいに出てきた。食べていて思うのは、かなり量が多目であるということ。
昔都内でラーメンの食べ歩きをしたことがあり、東池袋の大勝軒という店に行ったことがある。超行列の店である。並んでいると店の人が注文をとりにくる。他の客とのやりとりを聞いていると、客「大盛り」、店員「大丈夫ですか。普通の店の3倍ぐらいありますが…」。ずいぶん大げさじゃないかと思いながら、店内に入ると、前の女性客数人が麺を1/3ぐらい残して帰るのを目撃。「もったいないなあー、食べきれないなら来なければいいのに」などと心の中で非難しつつ、自分は普通盛のラーメンを食べ始めた。普通なら黙々と食べ続けて5分ぐらいで食べ終わるのであるが、食べ終わらない。そして、食べている途中で「ウップ」となり、途中で箸を休めてしまった。「なるほど、多いわ…。」と、残して帰った客の気持ちに共感(?)。この店の場合、少なくとも私にとっては、「量」の店であった。味については、この量を予想していなかった食べ始めの時点で、麺が異常に水っぽいというか、無理やり水を吸わせて増量したもののように感じられ、スープもまずくはないが「美味い」とも思えず、結局私の好みの店ではなかった。
藤や食堂さんの場合についても「量」的には満足だけれども、味の面では不満が残った。麺がべったりし過ぎているのではないか、麺の中に野菜などの具の細かい部分が絡んでいるために味がすっきりしない、具をもう少し大きめにして揃えてつくった方が食感としてよいのではないか、などと思った。
と食べていると、携帯に大文字屋から着信が入ったので、早々に大文字屋に向かう。
午後7時頃に到着すると、大文字屋はちょうど仕事も終わり、夕餉は何にと思案中。私は父に線香をあげた後、何がいいかと兄に問われ、私は「何でもいいけど、ふつうの家メシでいいよ。」と言うと「バーガ、ふつうの家とつがうんだ。忙しいんだがら。」と兄。(私の家メシ発言にはいろいろ意味があるが。)結局和食がいいのではということになり、中央2丁目広小路沿いの『かぐら』さんへ行くことに。
出発前は東北の爽やかな梅雨を楽しみにしているなどと思ったが、この日はだいぶ蒸し暑く、母(喜久子)も「ずいぶん、蒸すなや」とおっしゃっており、私はすっかりあてが外れてしまったが、その分ビールが美味しいだろうと気を変えた。母(喜久子)、恵美ちゃん、兄(忠典)、私が、生ビール大ジョッキで乾杯。肴は、刺身の盛り合わせ、ホヤ、小柳鰈(こやなぎがれい=やなぎがれいの小ぶりのもの)の姿揚げ、魚の煮つけ、その他大勢である。はじめホヤは品切れとのことだったが、一鉢分残っていたとのことで特別に出してもらった。こちらで食べるホヤは鮮度がちがう。子供の頃はどんぶり鉢にキュウリの薄切りとと共にできたホヤ酢を大量に食べたものだ。魚の煮付けはキンキか銀ダラだった思うが味がしみていて非常に美味しかった。また刺身では、何気ないマグロの赤身が非常に美味しかった。刺身というと鮮度がよければ美味しいというものではないということは、以前東京三鷹の活き造りの店で締めたばかりの魚のゴムのように弾力はあるが旨みがない刺身を食べて知っていた。この店のマグロの赤身の美味さにはかなり驚いた。
ビールの後に私は日本酒を頼んだ。こちらは地酒のメニューも充実していて、もちろん日高見や墨廼江もあるが、この日は飲んだことのないものということで「伯楽星(はくらくせい)」(純米)を頼んでみた。赤い枡に入れたグラスに注ぐ形で出される。飲んでみた。香りは控えめであるが、米のしっかりした旨みがあり、そしてすっきりしている。濃厚さはないので、料理と一緒に飲むのによい感じがする酒だ。こちらは宮城県大崎市の酒造である。2杯目は山形の「亀粋(きっすい)」。米の旨みと適度な酸が心地よい酒である。この日は2杯だけ飲んだが、地酒のメニューには長野の「真澄」の純米など、他にもいいお酒ばかりあった。
食べながら、父の一周忌の話になる。命日は8月31日である。皆さんの都合、時期的なことも考えて、前週の日曜日あたりはどうかという話がでる。逆に日曜日でない方がいいのではないかという話もでる。結局、お寺の都合や親戚の皆さんの都合もきいてみた上で決めようということになり、この日はそこまでとなった。
飲んでいるなかで、母が、昔私がみさちゃんの家に遊びに行った時の話をした。「みさちゃん」とは、阿部みさとさん、私が小学校低学年から中学年ぐらいの時期に大文字屋に住み込みで働いていた人である。かなり長く居た人で、私もかわいがってもらった忘れられない人である。そのみさちゃんの家に私は父に連れられていったのである。母の話によると、帰ってきた父が笑ってこう言ったというのである。
「ヨシヒロだら、みさちゃんの家の前に来たら、『これ、家?』って言うんだおんやー。」
何とも無礼な発言(私の)である。私の記憶には、みさちゃんの家に夕暮れ時に行って、五右衛門風呂のような釜の風呂がたいへん珍しくて、そのお風呂に入っていい気分で帰ってきたということだけが残っている。(泊まったかどうかは記憶にない。また、なぜ行ったのかも覚えていない。)こういうことを言った私と、父の言葉を伝えるものとしてそれをここに記すことを許されたい。
なお、みさちゃんはその後結婚。その娘さんであるみゆきさんも結婚して現在大文字屋にお手伝いに来てくださっている。みさちゃんは今でもカレーライスに醤油を回しがけして食べているのだろうか。父の葬儀の時には涙を流して悲しんでくれた。
兄はこの日も天丼を食べていた。聞くと「リン」の多いものはダメらしく、刺身の赤身などはダメなのだそうだ。
その晩私は父の仏壇の間で寝た。
6月21日(火)
午前中に市役所で用足しをし、駅前バス乗場で石巻商業高校に行くバスを調べる。飯野川行きのバスのなかに石巻商業高校経由の便があることがわかった。1時間に一本程度であるが、石商の事務室には午後1~2時頃に伺う旨連絡してあったので、12時15分ぐらいの便に乗ることにする。
石巻駅前から石商前まではバスで15分程度で着いた。開北橋を渡り切ったあたりである。バス停から石商まで歩いて数分あるが、約束の時間まで時間がある。この辺りは一面が田んぼで、その中に石商やら専修大学やらが点在しているが、見れば石商の向こうに結構新しい野球場が見える。時間つぶしに足を向けた。(というか、周りに田んぼ以外何もないので、時間つぶしをする場所がなかったのである。)石商の向こうといっても、歩いてみるとかなりあり、しかもそこはサッカー場なども併設した運動公園になっていて、その入口が石商側とは反対側にあったので、中に入るまでだいぶ大回りして辿り着くまで30分ほどかかった。この日はよく晴れ暑くなっていたので、炎天下の苛酷な行軍となってしまった。着いてみると「石巻市総合運動公園」とあり、敷地内では管理清掃の方が作業されていた。新しくてきれいな整備された野球場。サッカー場も芝生の養生が行き届いていた。
1時を過ぎていたので、石商に向かう。事務室を訪れ、父親の卒業年度問い合わせの旨を告げると、事務所の中に案内された。私の身分証明書(保険証)と父との関係を証明する書類(戸籍謄本)を提示した後に本題に入った。かねてお電話で相談させていただいていたので、事務の方が、校内に保存されていた卒業台帳を調べておいてくださり、私の父の卒業年度を教えてくださった。(詳しくは2010-06-24の記事「父のプロフィール 二版」を参照。)また、その事務の方は私のブログをご覧になったとのこと。(鰐陵同窓生の毛塚さんとゆかりの方で、その縁でブログの存在をお知りになったようである。)そういうわけで石巻の歴史についてもいろいろとご教示下さった。結局私は1時間も長居をして、ようやく石商を後にしたのである。お忙しい中、しつこく質問して尻を上げようとしない私にいやな顔一つせず応対くださった事務室の皆さんに心より感謝いたします。
石商の事務方からうかがった石巻の歴史の話の中に「石巻の昔の町並みを記憶を元に描いている方がいらっしゃる。その絵はこの近くの専修大学の図書館や石巻文化センターなどに展示されていたと思う」というものがあったので、私はせっかくだから専修大学の図書館に寄ることにした。この大学がこの地にできてから一度も行ったことがないし、折角こんなに近くまで来たのだから寄ってみようと思ったのである。
石商から専修大学までは、また歩いて30分以上かかった。なんで涼しい東北に来て炎天下の行軍をしなければいけないのか、われながらおかしくなったが、基本的に暑いのは好きだし、天気が悪いよりはよいのである。道々農家が多く、そこかしこに懐かしい堆肥のにおいがしていた。
専修大学は敷地が広大で、校舎が何棟もあるので、図書館のある棟を探しあてるのに少し時間がかかった。中に入ると、冷房がよく効いていて一息ついたというのは置いておいて、当然のことながら駅の自動改札機のようなセキュリティチェックの機械があり、利用者カードがないと入れない。学外者は受付にインターホンで問い合わせよと掲示にあったので、問い合わせると、受付の方が来てくださり、しかじかの絵を拝観したいと伝えると、「? ……○○のことかしら。」ということで、1Fエントランス付近、郷土資料の集めてあるスペースに案内してくださった。そこに展示されている絵がそれらしい。
特に手続きもなく入館を許可され、なおかつ、身分証明書があれば入館証を作ってくれるとのことなので、早速そのように。
1Fの新聞・購読雑誌スペースの棚上に、石巻の郷土資料が集めてある。それについていくつか見てみる。
①まず目についたのが『石巻合併記念 いしのまき ふるさと地図帳(新石巻市誕生記念)』(NPO法人 いしのまき環境ネット H18年3月)である。要するに石巻の地理歴史資料集である。その内容をいくつか挙げると、「8 石巻ゆかりの「人たち 宮澤賢治」のところで、以前に私が帰省の記で挙げた詩とは別の、初めて海を見たときの印象を歌った短歌が載っていた。
「まぼろしとうつつとわかずなみがしら/きほい与するをあやしみたり」
また、「10 石巻の苗字ベスト10」
(日本)
1 阿部 鈴木
2 佐藤 佐藤
3 高橋 田中
4 佐々木 山本
5 鈴木 渡辺
6 木村 高橋
7 千葉 小林
8 遠藤 中村
9 齋藤 伊藤
10 三浦 齋藤
ちなみに、わが「佐藤」については、「宮城県最大の姓氏 藤原秀郷の子孫で信夫壮(福島県)の佐藤荘司がはじまりとされている。」とある。
②『北上川が語る石巻の変遷(ふるさとのかたりべ発刊100号記念)』(石巻の歴史・風土を語り伝える 千石船の会 H22発行)
これは古地図や写真などで石巻の歴史を伝える資料集である。この中の資料をいくつか挙げる。
○「昭和6年石巻港明細図」(発行人:札幌市 富樫隆二良、印刷:石巻町 須田印刷書)
… 父が生まれた頃の大文字屋付近の地図が描かれている。それによると大文字屋の東隣は「阿部製帽」となっており、裏(寿町通り側)には民家なのか分からないが「后トウ」と記されている。西隣は「菊田洋品店」「須トウ商店」「もりや」、通りを隔てた向かい側には東から西に「京屋 呉服店」「松田肥料」「開北社」「東北館」「菅原商店」と並んでいる。
こんな感じである。
京屋 呉服店
(小路)
后 阿部製帽
ト 松田肥料
ウ 大文字屋
菊田洋品店 開北社
須トウ商店
(小路)
もりや 東北館
菅原商店
○米一俵〔60kg〕の時代別値段表〈天明1(1781)~昭和62(1982)〉
○時代別 各種 物価の値段表 〈明治1~昭和62〉
…「米30kgの値段」「駅弁」「理髪」「酒」「日雇賃」「教員初任給」「郵便(手紙・葉書)」等
○昭和20年代の石巻絵図(部分、矢口清志氏提供)
○安政年間 石巻絵図〔1854〕(毛利コレクション所蔵より)
○仙台石巻眺望之全図(年代不詳、小野寺鳳谷画より)
○石巻絵図(作者年代不詳、東北大学所蔵)
○享保年間の石巻絵図〈茨城県那珂湊市(現ひたちなか市)より寄贈〉
③『北上川が語る石巻物語』(②に同じ)
… ②が出された時、図や写真だけでは不足を感じた編者の方が「ひたかみ誌」に掲載された文章を集めたもの。
いずれも石巻の歴史を伝えるために有志の方々が尽力した末に実現した資料集である。その努力に敬意と感謝の意を表します。
ところで、上記②の中にある「昭和20年代の石巻絵図」(矢口清志氏提供)は、この図書館のこの郷土資料を集めたスペースの壁にその全図が展示されている。どうやらこれが石商の事務の方が教えてくださった絵であるらしい。この絵が描かれた経緯は明らかではないが、この絵を見るといろいろなことが分かる。
たとえば、泉町4丁目付近に「門中」「石中」「住中」「湊中」の4つの中学校が並んで建っている。これは、私が昨年石巻中学校に父のことを問い合わせた時に学校の方からうかがった「石巻では新制の中学校は終戦後に、現在の泉町付近に石中、門中、住中、湊中の4校が一度に建てられ、その後順次居住区域に学校が建設されて、住中、湊中と移転していった。」という話とまさに一致していた。
また「文化劇場」というのが見える。これは現在の中央1丁目8番の寿町通りに面してあった映画館である。私が初めて映画を見たのはこの映画館で、『ガッパ』を父に連れられて見にきた時のはずだ。『サンダ対ガイラ』もここで見たのではないだろうか。
「花火打ち上げ、館山、法華寺」は、川開きの花火の昔の打ち上げ場所である。私が小学校中学年ぐらいまでは大文字屋も花火観覧の特等席だった。花火は本当に腹にドンと響くものだった。それだけ近くで見ることができ、迫力があった。現在の八幡二丁目付近であろう。
あちこちに歌碑、句碑が示されている。茂吉・山頭火・土屋文明。あるいは特産物。
湊か吉野町あたりに、フランク安田の生家。(2010-04-15記事、「帰省2010.03.20,21(その2…)参照。)
ひばり野には「市営競馬場」が見える。
「釜入江」。なぜ釜港なるものがあるのか分かった。
というわけで、退館時には入館証をゲットして専修大学図書館を辞去したのである。
専修大学前からバスに乗り、中央3丁目で下車、大文字屋にもどる。時間はすでに5時近くになっていた。母が余った弁当があるとのことで幕の内弁当を持ってきてくれて、さらに野菜サラダとみそ汁と野菜の煮つけ(筑前煮)を出してくれた。結構歩いてお腹も減っていたので完食した。
19時の電車に乗ることにして帰り支度をしていると、千葉肉屋の奥さんが来て母と話し込んでいた。千葉肉屋さんと言えば、父の葬儀の時に大量の串カツを差し入れて下さった。その串カツの美味しかったこと。肉の旨みがたっぷりありながら、それでいてあっさりしている。私は一気に五本食べてしまった。今まで食べた串カツの中で一番である。憲ちゃんに線香をあげ、千葉肉屋さんに挨拶して大文字屋を出発。仙石線の快速に乗る。
仙台で途中下車をして、暑かったのでコーラと「ずんだアイス」を買う。「ずんだ」関係で涼しげに思える唯一のものだったからだ。新幹線の中で食べてみた。ふかしたサツマイモを凍らせたような味である。枝豆の味は淡いから、凍らせると味が出にくいようだ。ずんだアイスは、別にずんだじゃなくても…。
24時頃自宅到着。大文字屋から持ち帰った荷物を整理する。その中に日本酒が3本ある。帰り際、母が、流しの下を整理していたら中元や歳暮でいただいた日本酒が出てきた、どうせ誰も飲まないから、と持たせられたのだ。私は残酒整理係りか。
3本あって、一つは「大吟醸 四度の滝」(4合瓶)。酒造は茨城県大子町にある家久長本店。「四度の滝」とは、茨城県大子町にある「袋田の滝」という名勝の滝の異称。wikiによると「滝川が4段に岩肌を落ちることから名づけられたとされる説と、昔、この地を訪れた西行法師が『この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない』と、この滝を絶賛したと伝えられていることから名づけられたとされる説がある」とのこと。それはいいのだが製造年月日が(平成だと思うが)17.7.27.となっている。大文字屋の流しの下で熟成された5年古酒というわけである。飲んでみたが、まずまずの味わいであった。少なくとも腐ってはいなかったし、大吟醸の片鱗はうかがえた。
「一の蔵 純米 特別栽培米仕込み」(4合瓶)は減農薬・有機栽培で作った「ひとめぼれ」で造った純米酒である。製造年月は09.06.とある。宮城では有名な一の蔵だが、傾向として香りも味も控え目な造りである。ただしこの「特別純米」に関しては米の旨みをよく出していると思う。もともと「ひとめぼれ」自体が酒米ではなく、また味の強い米ではないだけに良いできだと思う。有機栽培米ということもあるかもしれない。こういうお米の味が生きた酒が私は好きである。
もう一本は「浦霞 本醸造 生貯蔵酒 ボトル500ml」である。製造年月は09.09.とある。これはまだ料理に使っただけで味見はしていない。(私は豚バラ肉500gをブロックで買い梅干入り角煮を作りおきして料理に使っている。)
今回の帰省で、父の高校卒業年度が分かった。
次回は一周忌になると思うが、日程は決まったらお知らせしたい。また、もう少し倉庫を調べて遺品の整理をしなければならない。そう思った。
かくして今回の帰省は完了したのである。
付記1
『銀座あけぼの』のHP。これで見ると私の買ったのは「濃茶本葛」という商品であった。
>http://www.ginza-akebono.co.jp/products/koichahonkuzu.html
付記2
『旬彩料理 かぐら』さんのHP
>http://www.kitakami.bz/kagura/
付記3
「伯楽星」は宮城県大崎市の新澤酒造店さんの銘柄。会社HPはないようだが、こちらを取り上げたブログを。
>http://www.yukinosake.com/04-04-hakurakusei.html
付記4
「亀粋」は山形の酒造「米鶴」の銘柄であるが、HPを見たところ、この「亀粋」は、私の好きな「亀の尾」から開発育成した独自の酒米「亀粋」(蔵人自ら栽培)による純米酒とのこと。これは極めて興味深い試みである。またそのような酒を選んだ『かぐら』さんに敬服である。
>http://yonetsuru.com/?p=log&l=168384
付記5
東池袋の大勝軒のマスターが修行し、つけ麺を編み出したとされるのが「中野 大勝軒」で、私は中野に10年ほど住んでいたが、この店の「スペシャルつけ麺」は非常に美味しかった。私としては「中野 大勝軒」の「スペシャルつけ麺」がお勧めである。(食べ終わって「スープ」と言うと、カウンターの人がつけダレにスープを注いでくれて、それを飲むのがこの店の流儀)。
付記6(2010.07.15. 追記)
「中野 大勝軒」について補足。まずHP。
>http://www.taishoken.net/
前の職場の同僚である千葉健さん(宮城県仙台市出身、現在はCAP勤務だと思う)をこの店に連れていったことがある。こんなに一気に食べてしまう(食べるのをやめられない)つけ麺は初めてだとお褒めの言葉をいただいた。そのお返しにと巣鴨の「千石自慢ラーメン」という背脂ギトギトラーメンに連れていってもらった。これがまた感動的な良い店だった。同系統には「ラーメン二郎」(三田)、「ホープ軒」(千駄ヶ谷)、昔の「土佐っ子ラーメン」(環七沿い板橋区常盤台、脂ギトギト度では最高か)などがあるが、そのいずれよりも背脂が旨味に昇華されていて、気品さえ感じさせるのだった。(ラーメンであり、しかも背脂ギトギトだから、まちがっても上品ではないが。)。店の雰囲気もほのかに江戸の粋を感じさせるところが異質だ。ということで、これもお勧めの店である。
>http://www.sengokujiman.com/top2.htm
今回の帰省の目的は、石巻商業高校に父の卒業年度を問い合わせることである。
6月21日(月)。午前中に仕事をしてから午後1時頃に自宅を出発。
生田駅前にある亀屋万年堂で抹茶金時の水羊羹を土産に買おうと寄るが、先客が数組あり、電車の時間も迫っていたので、断念。駅へ。
生田から新宿まで小田急線で30分、新宿から東京駅までJR中央線快速で16分、東京から仙台まで新幹線はやて21号(13:56発)で1時間40分分、仙台から石巻まで仙石線快速(15:58発)で69分、17:07に石巻着(の予定)。
家を出る時にだいぶバタバタしたため、いつも携行する父の書籍(遺品)を持たず、列車内では雑誌NumberでW杯の記事などを読んでいた。
仙台駅で土産を買おうとしたら、涼しい和菓子(自分が食べたいから)がなかなか見つからない。ずんだ餅は冬に買ったし、萩の月を試食してみたら、強烈に甘い(と感じた)ので、どうもなあと思いつつ、ようやく小倉つぶあん入り抹茶水羊羹をみつけ9個詰め合わせてもらった(3,150円)。店名は『銀座あけぼの』である。仙台で東京の店の買物はしたくなかったが、仙台駅構内およびSpalは、牛タン、ずんだ、笹かまのオンパレードで、夏向けのすっきりした和菓子が少ないのである(これは石巻にも言える)。観光客の土産用の店が多いのだろうから仕方がないが。
仙台で土産探しに1時間ほどかかったので、電車をずらしたが、この時に気づいたのは仙石線の仙台発石巻行の各駅停車の便が非常に少ないこと(塩釜・多賀城止まりが多い)。次の快速に乗るには、ほぼ1時間待たねばならない。ということで17時頃の仙石線快速に乗車。
石巻に18:00頃到着。小腹が空いていて夕飯には少し時間があるかと思い、以前物色しておいた駅前の食堂で石巻焼きそばを食することにする。藤や食堂さんである。
肉野菜やきそばを注文。10分後ぐらいに出てきた。食べていて思うのは、かなり量が多目であるということ。
昔都内でラーメンの食べ歩きをしたことがあり、東池袋の大勝軒という店に行ったことがある。超行列の店である。並んでいると店の人が注文をとりにくる。他の客とのやりとりを聞いていると、客「大盛り」、店員「大丈夫ですか。普通の店の3倍ぐらいありますが…」。ずいぶん大げさじゃないかと思いながら、店内に入ると、前の女性客数人が麺を1/3ぐらい残して帰るのを目撃。「もったいないなあー、食べきれないなら来なければいいのに」などと心の中で非難しつつ、自分は普通盛のラーメンを食べ始めた。普通なら黙々と食べ続けて5分ぐらいで食べ終わるのであるが、食べ終わらない。そして、食べている途中で「ウップ」となり、途中で箸を休めてしまった。「なるほど、多いわ…。」と、残して帰った客の気持ちに共感(?)。この店の場合、少なくとも私にとっては、「量」の店であった。味については、この量を予想していなかった食べ始めの時点で、麺が異常に水っぽいというか、無理やり水を吸わせて増量したもののように感じられ、スープもまずくはないが「美味い」とも思えず、結局私の好みの店ではなかった。
藤や食堂さんの場合についても「量」的には満足だけれども、味の面では不満が残った。麺がべったりし過ぎているのではないか、麺の中に野菜などの具の細かい部分が絡んでいるために味がすっきりしない、具をもう少し大きめにして揃えてつくった方が食感としてよいのではないか、などと思った。
と食べていると、携帯に大文字屋から着信が入ったので、早々に大文字屋に向かう。
午後7時頃に到着すると、大文字屋はちょうど仕事も終わり、夕餉は何にと思案中。私は父に線香をあげた後、何がいいかと兄に問われ、私は「何でもいいけど、ふつうの家メシでいいよ。」と言うと「バーガ、ふつうの家とつがうんだ。忙しいんだがら。」と兄。(私の家メシ発言にはいろいろ意味があるが。)結局和食がいいのではということになり、中央2丁目広小路沿いの『かぐら』さんへ行くことに。
出発前は東北の爽やかな梅雨を楽しみにしているなどと思ったが、この日はだいぶ蒸し暑く、母(喜久子)も「ずいぶん、蒸すなや」とおっしゃっており、私はすっかりあてが外れてしまったが、その分ビールが美味しいだろうと気を変えた。母(喜久子)、恵美ちゃん、兄(忠典)、私が、生ビール大ジョッキで乾杯。肴は、刺身の盛り合わせ、ホヤ、小柳鰈(こやなぎがれい=やなぎがれいの小ぶりのもの)の姿揚げ、魚の煮つけ、その他大勢である。はじめホヤは品切れとのことだったが、一鉢分残っていたとのことで特別に出してもらった。こちらで食べるホヤは鮮度がちがう。子供の頃はどんぶり鉢にキュウリの薄切りとと共にできたホヤ酢を大量に食べたものだ。魚の煮付けはキンキか銀ダラだった思うが味がしみていて非常に美味しかった。また刺身では、何気ないマグロの赤身が非常に美味しかった。刺身というと鮮度がよければ美味しいというものではないということは、以前東京三鷹の活き造りの店で締めたばかりの魚のゴムのように弾力はあるが旨みがない刺身を食べて知っていた。この店のマグロの赤身の美味さにはかなり驚いた。
ビールの後に私は日本酒を頼んだ。こちらは地酒のメニューも充実していて、もちろん日高見や墨廼江もあるが、この日は飲んだことのないものということで「伯楽星(はくらくせい)」(純米)を頼んでみた。赤い枡に入れたグラスに注ぐ形で出される。飲んでみた。香りは控えめであるが、米のしっかりした旨みがあり、そしてすっきりしている。濃厚さはないので、料理と一緒に飲むのによい感じがする酒だ。こちらは宮城県大崎市の酒造である。2杯目は山形の「亀粋(きっすい)」。米の旨みと適度な酸が心地よい酒である。この日は2杯だけ飲んだが、地酒のメニューには長野の「真澄」の純米など、他にもいいお酒ばかりあった。
食べながら、父の一周忌の話になる。命日は8月31日である。皆さんの都合、時期的なことも考えて、前週の日曜日あたりはどうかという話がでる。逆に日曜日でない方がいいのではないかという話もでる。結局、お寺の都合や親戚の皆さんの都合もきいてみた上で決めようということになり、この日はそこまでとなった。
飲んでいるなかで、母が、昔私がみさちゃんの家に遊びに行った時の話をした。「みさちゃん」とは、阿部みさとさん、私が小学校低学年から中学年ぐらいの時期に大文字屋に住み込みで働いていた人である。かなり長く居た人で、私もかわいがってもらった忘れられない人である。そのみさちゃんの家に私は父に連れられていったのである。母の話によると、帰ってきた父が笑ってこう言ったというのである。
「ヨシヒロだら、みさちゃんの家の前に来たら、『これ、家?』って言うんだおんやー。」
何とも無礼な発言(私の)である。私の記憶には、みさちゃんの家に夕暮れ時に行って、五右衛門風呂のような釜の風呂がたいへん珍しくて、そのお風呂に入っていい気分で帰ってきたということだけが残っている。(泊まったかどうかは記憶にない。また、なぜ行ったのかも覚えていない。)こういうことを言った私と、父の言葉を伝えるものとしてそれをここに記すことを許されたい。
なお、みさちゃんはその後結婚。その娘さんであるみゆきさんも結婚して現在大文字屋にお手伝いに来てくださっている。みさちゃんは今でもカレーライスに醤油を回しがけして食べているのだろうか。父の葬儀の時には涙を流して悲しんでくれた。
兄はこの日も天丼を食べていた。聞くと「リン」の多いものはダメらしく、刺身の赤身などはダメなのだそうだ。
その晩私は父の仏壇の間で寝た。
6月21日(火)
午前中に市役所で用足しをし、駅前バス乗場で石巻商業高校に行くバスを調べる。飯野川行きのバスのなかに石巻商業高校経由の便があることがわかった。1時間に一本程度であるが、石商の事務室には午後1~2時頃に伺う旨連絡してあったので、12時15分ぐらいの便に乗ることにする。
石巻駅前から石商前まではバスで15分程度で着いた。開北橋を渡り切ったあたりである。バス停から石商まで歩いて数分あるが、約束の時間まで時間がある。この辺りは一面が田んぼで、その中に石商やら専修大学やらが点在しているが、見れば石商の向こうに結構新しい野球場が見える。時間つぶしに足を向けた。(というか、周りに田んぼ以外何もないので、時間つぶしをする場所がなかったのである。)石商の向こうといっても、歩いてみるとかなりあり、しかもそこはサッカー場なども併設した運動公園になっていて、その入口が石商側とは反対側にあったので、中に入るまでだいぶ大回りして辿り着くまで30分ほどかかった。この日はよく晴れ暑くなっていたので、炎天下の苛酷な行軍となってしまった。着いてみると「石巻市総合運動公園」とあり、敷地内では管理清掃の方が作業されていた。新しくてきれいな整備された野球場。サッカー場も芝生の養生が行き届いていた。
1時を過ぎていたので、石商に向かう。事務室を訪れ、父親の卒業年度問い合わせの旨を告げると、事務所の中に案内された。私の身分証明書(保険証)と父との関係を証明する書類(戸籍謄本)を提示した後に本題に入った。かねてお電話で相談させていただいていたので、事務の方が、校内に保存されていた卒業台帳を調べておいてくださり、私の父の卒業年度を教えてくださった。(詳しくは2010-06-24の記事「父のプロフィール 二版」を参照。)また、その事務の方は私のブログをご覧になったとのこと。(鰐陵同窓生の毛塚さんとゆかりの方で、その縁でブログの存在をお知りになったようである。)そういうわけで石巻の歴史についてもいろいろとご教示下さった。結局私は1時間も長居をして、ようやく石商を後にしたのである。お忙しい中、しつこく質問して尻を上げようとしない私にいやな顔一つせず応対くださった事務室の皆さんに心より感謝いたします。
石商の事務方からうかがった石巻の歴史の話の中に「石巻の昔の町並みを記憶を元に描いている方がいらっしゃる。その絵はこの近くの専修大学の図書館や石巻文化センターなどに展示されていたと思う」というものがあったので、私はせっかくだから専修大学の図書館に寄ることにした。この大学がこの地にできてから一度も行ったことがないし、折角こんなに近くまで来たのだから寄ってみようと思ったのである。
石商から専修大学までは、また歩いて30分以上かかった。なんで涼しい東北に来て炎天下の行軍をしなければいけないのか、われながらおかしくなったが、基本的に暑いのは好きだし、天気が悪いよりはよいのである。道々農家が多く、そこかしこに懐かしい堆肥のにおいがしていた。
専修大学は敷地が広大で、校舎が何棟もあるので、図書館のある棟を探しあてるのに少し時間がかかった。中に入ると、冷房がよく効いていて一息ついたというのは置いておいて、当然のことながら駅の自動改札機のようなセキュリティチェックの機械があり、利用者カードがないと入れない。学外者は受付にインターホンで問い合わせよと掲示にあったので、問い合わせると、受付の方が来てくださり、しかじかの絵を拝観したいと伝えると、「? ……○○のことかしら。」ということで、1Fエントランス付近、郷土資料の集めてあるスペースに案内してくださった。そこに展示されている絵がそれらしい。
特に手続きもなく入館を許可され、なおかつ、身分証明書があれば入館証を作ってくれるとのことなので、早速そのように。
1Fの新聞・購読雑誌スペースの棚上に、石巻の郷土資料が集めてある。それについていくつか見てみる。
①まず目についたのが『石巻合併記念 いしのまき ふるさと地図帳(新石巻市誕生記念)』(NPO法人 いしのまき環境ネット H18年3月)である。要するに石巻の地理歴史資料集である。その内容をいくつか挙げると、「8 石巻ゆかりの「人たち 宮澤賢治」のところで、以前に私が帰省の記で挙げた詩とは別の、初めて海を見たときの印象を歌った短歌が載っていた。
「まぼろしとうつつとわかずなみがしら/きほい与するをあやしみたり」
また、「10 石巻の苗字ベスト10」
(日本)
1 阿部 鈴木
2 佐藤 佐藤
3 高橋 田中
4 佐々木 山本
5 鈴木 渡辺
6 木村 高橋
7 千葉 小林
8 遠藤 中村
9 齋藤 伊藤
10 三浦 齋藤
ちなみに、わが「佐藤」については、「宮城県最大の姓氏 藤原秀郷の子孫で信夫壮(福島県)の佐藤荘司がはじまりとされている。」とある。
②『北上川が語る石巻の変遷(ふるさとのかたりべ発刊100号記念)』(石巻の歴史・風土を語り伝える 千石船の会 H22発行)
これは古地図や写真などで石巻の歴史を伝える資料集である。この中の資料をいくつか挙げる。
○「昭和6年石巻港明細図」(発行人:札幌市 富樫隆二良、印刷:石巻町 須田印刷書)
… 父が生まれた頃の大文字屋付近の地図が描かれている。それによると大文字屋の東隣は「阿部製帽」となっており、裏(寿町通り側)には民家なのか分からないが「后トウ」と記されている。西隣は「菊田洋品店」「須トウ商店」「もりや」、通りを隔てた向かい側には東から西に「京屋 呉服店」「松田肥料」「開北社」「東北館」「菅原商店」と並んでいる。
こんな感じである。
京屋 呉服店
(小路)
后 阿部製帽
ト 松田肥料
ウ 大文字屋
菊田洋品店 開北社
須トウ商店
(小路)
もりや 東北館
菅原商店
○米一俵〔60kg〕の時代別値段表〈天明1(1781)~昭和62(1982)〉
○時代別 各種 物価の値段表 〈明治1~昭和62〉
…「米30kgの値段」「駅弁」「理髪」「酒」「日雇賃」「教員初任給」「郵便(手紙・葉書)」等
○昭和20年代の石巻絵図(部分、矢口清志氏提供)
○安政年間 石巻絵図〔1854〕(毛利コレクション所蔵より)
○仙台石巻眺望之全図(年代不詳、小野寺鳳谷画より)
○石巻絵図(作者年代不詳、東北大学所蔵)
○享保年間の石巻絵図〈茨城県那珂湊市(現ひたちなか市)より寄贈〉
③『北上川が語る石巻物語』(②に同じ)
… ②が出された時、図や写真だけでは不足を感じた編者の方が「ひたかみ誌」に掲載された文章を集めたもの。
いずれも石巻の歴史を伝えるために有志の方々が尽力した末に実現した資料集である。その努力に敬意と感謝の意を表します。
ところで、上記②の中にある「昭和20年代の石巻絵図」(矢口清志氏提供)は、この図書館のこの郷土資料を集めたスペースの壁にその全図が展示されている。どうやらこれが石商の事務の方が教えてくださった絵であるらしい。この絵が描かれた経緯は明らかではないが、この絵を見るといろいろなことが分かる。
たとえば、泉町4丁目付近に「門中」「石中」「住中」「湊中」の4つの中学校が並んで建っている。これは、私が昨年石巻中学校に父のことを問い合わせた時に学校の方からうかがった「石巻では新制の中学校は終戦後に、現在の泉町付近に石中、門中、住中、湊中の4校が一度に建てられ、その後順次居住区域に学校が建設されて、住中、湊中と移転していった。」という話とまさに一致していた。
また「文化劇場」というのが見える。これは現在の中央1丁目8番の寿町通りに面してあった映画館である。私が初めて映画を見たのはこの映画館で、『ガッパ』を父に連れられて見にきた時のはずだ。『サンダ対ガイラ』もここで見たのではないだろうか。
「花火打ち上げ、館山、法華寺」は、川開きの花火の昔の打ち上げ場所である。私が小学校中学年ぐらいまでは大文字屋も花火観覧の特等席だった。花火は本当に腹にドンと響くものだった。それだけ近くで見ることができ、迫力があった。現在の八幡二丁目付近であろう。
あちこちに歌碑、句碑が示されている。茂吉・山頭火・土屋文明。あるいは特産物。
湊か吉野町あたりに、フランク安田の生家。(2010-04-15記事、「帰省2010.03.20,21(その2…)参照。)
ひばり野には「市営競馬場」が見える。
「釜入江」。なぜ釜港なるものがあるのか分かった。
というわけで、退館時には入館証をゲットして専修大学図書館を辞去したのである。
専修大学前からバスに乗り、中央3丁目で下車、大文字屋にもどる。時間はすでに5時近くになっていた。母が余った弁当があるとのことで幕の内弁当を持ってきてくれて、さらに野菜サラダとみそ汁と野菜の煮つけ(筑前煮)を出してくれた。結構歩いてお腹も減っていたので完食した。
19時の電車に乗ることにして帰り支度をしていると、千葉肉屋の奥さんが来て母と話し込んでいた。千葉肉屋さんと言えば、父の葬儀の時に大量の串カツを差し入れて下さった。その串カツの美味しかったこと。肉の旨みがたっぷりありながら、それでいてあっさりしている。私は一気に五本食べてしまった。今まで食べた串カツの中で一番である。憲ちゃんに線香をあげ、千葉肉屋さんに挨拶して大文字屋を出発。仙石線の快速に乗る。
仙台で途中下車をして、暑かったのでコーラと「ずんだアイス」を買う。「ずんだ」関係で涼しげに思える唯一のものだったからだ。新幹線の中で食べてみた。ふかしたサツマイモを凍らせたような味である。枝豆の味は淡いから、凍らせると味が出にくいようだ。ずんだアイスは、別にずんだじゃなくても…。
24時頃自宅到着。大文字屋から持ち帰った荷物を整理する。その中に日本酒が3本ある。帰り際、母が、流しの下を整理していたら中元や歳暮でいただいた日本酒が出てきた、どうせ誰も飲まないから、と持たせられたのだ。私は残酒整理係りか。
3本あって、一つは「大吟醸 四度の滝」(4合瓶)。酒造は茨城県大子町にある家久長本店。「四度の滝」とは、茨城県大子町にある「袋田の滝」という名勝の滝の異称。wikiによると「滝川が4段に岩肌を落ちることから名づけられたとされる説と、昔、この地を訪れた西行法師が『この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない』と、この滝を絶賛したと伝えられていることから名づけられたとされる説がある」とのこと。それはいいのだが製造年月日が(平成だと思うが)17.7.27.となっている。大文字屋の流しの下で熟成された5年古酒というわけである。飲んでみたが、まずまずの味わいであった。少なくとも腐ってはいなかったし、大吟醸の片鱗はうかがえた。
「一の蔵 純米 特別栽培米仕込み」(4合瓶)は減農薬・有機栽培で作った「ひとめぼれ」で造った純米酒である。製造年月は09.06.とある。宮城では有名な一の蔵だが、傾向として香りも味も控え目な造りである。ただしこの「特別純米」に関しては米の旨みをよく出していると思う。もともと「ひとめぼれ」自体が酒米ではなく、また味の強い米ではないだけに良いできだと思う。有機栽培米ということもあるかもしれない。こういうお米の味が生きた酒が私は好きである。
もう一本は「浦霞 本醸造 生貯蔵酒 ボトル500ml」である。製造年月は09.09.とある。これはまだ料理に使っただけで味見はしていない。(私は豚バラ肉500gをブロックで買い梅干入り角煮を作りおきして料理に使っている。)
今回の帰省で、父の高校卒業年度が分かった。
次回は一周忌になると思うが、日程は決まったらお知らせしたい。また、もう少し倉庫を調べて遺品の整理をしなければならない。そう思った。
かくして今回の帰省は完了したのである。
付記1
『銀座あけぼの』のHP。これで見ると私の買ったのは「濃茶本葛」という商品であった。
>http://www.ginza-akebono.co.jp/products/koichahonkuzu.html
付記2
『旬彩料理 かぐら』さんのHP
>http://www.kitakami.bz/kagura/
付記3
「伯楽星」は宮城県大崎市の新澤酒造店さんの銘柄。会社HPはないようだが、こちらを取り上げたブログを。
>http://www.yukinosake.com/04-04-hakurakusei.html
付記4
「亀粋」は山形の酒造「米鶴」の銘柄であるが、HPを見たところ、この「亀粋」は、私の好きな「亀の尾」から開発育成した独自の酒米「亀粋」(蔵人自ら栽培)による純米酒とのこと。これは極めて興味深い試みである。またそのような酒を選んだ『かぐら』さんに敬服である。
>http://yonetsuru.com/?p=log&l=168384
付記5
東池袋の大勝軒のマスターが修行し、つけ麺を編み出したとされるのが「中野 大勝軒」で、私は中野に10年ほど住んでいたが、この店の「スペシャルつけ麺」は非常に美味しかった。私としては「中野 大勝軒」の「スペシャルつけ麺」がお勧めである。(食べ終わって「スープ」と言うと、カウンターの人がつけダレにスープを注いでくれて、それを飲むのがこの店の流儀)。
付記6(2010.07.15. 追記)
「中野 大勝軒」について補足。まずHP。
>http://www.taishoken.net/
前の職場の同僚である千葉健さん(宮城県仙台市出身、現在はCAP勤務だと思う)をこの店に連れていったことがある。こんなに一気に食べてしまう(食べるのをやめられない)つけ麺は初めてだとお褒めの言葉をいただいた。そのお返しにと巣鴨の「千石自慢ラーメン」という背脂ギトギトラーメンに連れていってもらった。これがまた感動的な良い店だった。同系統には「ラーメン二郎」(三田)、「ホープ軒」(千駄ヶ谷)、昔の「土佐っ子ラーメン」(環七沿い板橋区常盤台、脂ギトギト度では最高か)などがあるが、そのいずれよりも背脂が旨味に昇華されていて、気品さえ感じさせるのだった。(ラーメンであり、しかも背脂ギトギトだから、まちがっても上品ではないが。)。店の雰囲気もほのかに江戸の粋を感じさせるところが異質だ。ということで、これもお勧めの店である。
>http://www.sengokujiman.com/top2.htm
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