「こころの処方箋」1998/5/28
河合隼雄
ーあらすじー
「耐える」だけが精神力ではない。
心の支えは、時にたましいの重荷になる。
あなたが世の理不尽に拳を振りあげたくなったとき、人間関係のしがらみに泣きたくなったとき、
本書に綴られた55章が、真剣に悩むこころの声の微かな震えを聴き取り、
トラブルに立ち向かう秘策を与えてくれるだろう。
この、短い一章一章に込められた偉大な「常識」の力が、
かならず助けになってくれるだろう。
(本書裏表紙より)
21章 ものごとは努力によって解決しない
P91
確かにいくら努力しても報われないとか、不運としか言いようがないとか、
そのような人が居られることは事実で、全くお気の毒である。
あるいは、努力しても努力しても解決の緒さえ見つからぬときもある。
しかし、翻って考えてみると、「努力すればうまくゆく」などということが本当に正しいのか、
なぜそうなのかわからなくなってくる。
私は来談される沢山の人たちのお話を聴いていて、
人間が自分の努力によって、何でも解決できると考える方がおかしいのではないか、
と思いはじめた。
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P92~93
「ものごとは努力によって解決しない」というのは、私の好きな言葉である。
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当初の言葉が随分と好きになったので、よく口走っていたら
「それにしては、あなたはよく努力するじゃないの」と言われたことがある。
それに対して、私は
「努力によってものごとは解決しない、とよくわかっているのだけど、私には努力ぐらいしかすることがないので、やらせて頂いている」と答えたことがある。
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解決などというのは、しょせん、あちらから来るものだから、そんなことを「目標」にせずに、
せいぜい努力でもさせて頂くというのがいいようである。
☆感想☆
この本は10年以上前に購入して、何度か読み返しています。
その時々で、感じ方も変わってきて、今回はより深く心に響きました。
この21章に関しては、河合先生が「私には努力ぐらいしかすることがないので、やらせて頂いている」と答えているのが印象的でした。
長く生きてくると、努力したからといって、物事が解決するとは限らないし
夢が実現するかと言えば、なかなか難しいことはよくわかってきます。
でも、何かせずにはいられないし、心の安寧のためにも何かしらの努力は、ついしてしまう気がします。
過度に期待せず、努力でもさせて頂くという心持ぐらいがちょうどいいのかもしれません。
23章 心の新鉱脈を掘り当てよう
P98~99
仕事など必要なことに使うのは仕方ないとして、
不必要なことに、心のエネルギーを使わないようにする、となってくると、
人間が何となく不愛想になってきて、生き方に潤いがなくなってくる。
他人に会う度に、にこにこしていたり、相手のことに気を使ったりすると
エネルギーの浪費になるというわけである。
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これとは逆に、エネルギーがあり余っているのか、と思う人もある。
仕事に熱心なだけではなく、趣味においても大いに活躍している。
他人に会うときも、いつも元気そうだし、いろいろと心づかいをしてくれる。
それでいて、それほど疲れているようではない。
むしろ人よりは元気そうである。
このような人たちを見ていると、人間は生まれつき、心のエネルギーを沢山もっている人と、
少ない人があるのかな、と思わされる。
いろいろな能力において、人間に差があるように、
心のエネルギー量というのにも生まれつきの差があるのだろうか。
これは大問題なので、今回は取りあげないことにして、
もう少し他のことを考えてみよう。
☆感想☆
「心のエネルギー量というのにも生まれつきの差があるのだろうか」。
河合先生は今回このことをとりあげませんでしたが
これってあると思います。
個人的には器とかキャパシティとか、そのあたりのことを指すのではないでしょうか?
これが生まれつきのものだというのなら、
器が小さい、キャパが狭い人間は、どうしたらいいのか?
不公平だなぁとは思いますが、自身の器量を知ることはとても重要なことだと思います。
それによって生き方も変わってくると思うのです。
54章 「幸福」になるためには断念が必要である
P225
他人の「幸福」のために何らかの断念を行ったという人は、あんがいにある。
それは時に美談にさえなる。誇りにしている人もある。
それは確かにそうだとは思うものの、あまり自慢を聞かされたりすると、今度は逆の気持ちが起こってくる。
この人は「これでよかったのだ」と自ら言えるような人生を生きることが怖いので、
うまい弁解を見つけるため、他人の「幸福」などという看板を借りてきているのではないか、
と思ったりもする。
毎度のことながら、ここにも正しい答などはない。
各人は己の器量と相談しながら、自分の生き方を創造してゆくより仕方ない。
「幸福」は大切なことながら、人生の究極の目標にするのはどうかと思う、というところだろう。
断念せずに突き進むのもひとつの生き方である。
そのときは、「これでよかった」と言えるにしても、自分や他人の「幸福」を破壊することがあるかもしれぬという覚悟は必要である。
覚悟もなしに自分のやりたいことをやって、「幸福」が手に入らぬと嘆いている人は、
「前面降伏」の人生ということになろう。
☆感想☆
「他人の「幸福」のために何らかの断念を行ったという人」
これを自己犠牲というのでしょうか?
確かに美談かもしれませんが、そういうことを自慢するのは違うんじゃないか?
と個人的には思っています。
そしてそういう人は自分の人生を生きていないのではないか?
これは私自身にも言えることだからです。
自分さえ我慢すればいいって思って生きていると、どこかで限界がきませんか?
でも、それなりの器がある人はやりこなしてしまうんでしょうね。
そして今回読んでいてびっくりしたのが
『「幸福」は大切なことながら、人生の究極の目標にするのはどうかと思う、というところだろう。』
この文面、以前も読んでいたはずですが、忘れていたのか?
誰もが幸福になりたいって思っているはずだけれど、それを究極の目標にするのはどうかと思う?
幸福は目標というよりは、願望って気がしますが、幸福以外の目標も持ちましょうということでしょうか?
それとも幸福にとらわれず、自分の人生を生きましょう!ですかね?
全体を読んで感じたことは、「人のこころなどわかるはずがない」と言えるところに
河合先生のすごさを感じました。
あとがきにもありましたが、「本屋へ行ってみると、人の心がわかるようなことを書いた本がたくさんあるのに驚かれることだろう」。とあります。
現在はネットの普及により、多くの情報が流れています。
どんな情報も..特に心の問題に関しては、簡単に答えを出す人を私は信用しません。
参考程度に聞くのはいいかもしれませんが、最終的には自分の頭で考えることが重要だと思います。
余談ですが
以前、何かのテレビ番組で、今、占いがとても流行っているとのこと。
人気の占い師にみてもらいに来ていた、二人組の若い女性にインタビューする場面があったんですが
そこで二人の女性が「占いは答え合わせです」と答えていて
なんだ!もう答えは出ているんだ!!それを確認しにきてるんだー
そうそう、その程度が一番いいと思います。
なぜかホッとした私がいました。