「いのちの始まりと終わりに」2001/6/1
柳澤桂子
再読です。
ちょっと調べ物をするために、柳澤さんの本を開いたら
読むのが止まらなくなってしまいました😸
生命科学者である柳澤桂子さんが、生と死の倫理を問い、
いのち本来のあり方を考える内容となっています。
本の内容はかなり重く、いろいろ考えさせられました。
人工授精、体外受精、精子銀行、代理母、高齢出産、出生前診断、クローン
自殺幇助と安楽死、老人医療、倫理、自然...
20年以上前に書かれた本ですが
内容的には今読んでもかなり勉強になりました。
本の中で私自身も考えさせられた箇所がありました。
(本文より)
2001年1月11日に放映された、NHKの「ETV2001 シリーズ・いのちの対話」の中で、
アジア辺境の地で17年間も医療をおこなってきた中村哲医師が話していました。
(中村哲医師は2019年12月4日アフガニスタンで死去)
内乱でたくさんのけが人が出たときには、重傷の人から治療するのではなく、
助かると予想される人から治療するというのです。
重傷の人は放置して死ぬにまかせておくわけです。
また重い障害が残って、その家族が共倒れになりそうな場合は、
その人を見殺しにするとのことでした。
「私は人殺しです」と中村医師はいいます。
阪神大震災のあとでも、この負傷者のランクづけの問題が考えられていました。
最近の戦争では、けが人に色のちがう札をつけて、処置の順序をきめたりしているようです。
治る見込みのない人は放置されるわけですが、もしその人に意識が残っていたら、
どんなに辛い思いをすることでしょうか。
極限の場合、人はこうせざるを得ないということは納得できます。
仕方がないでしょう。
医師に見放された人は、どんなに苦しくても放置されるのでしょうか。
モルヒネなどで自殺幇助をしてはいけないでしょうか。
おそらく、そのような余裕もないことはたくさんあるでしょう。
人間はいつでも最高の医療を受けられるとはかぎらないのです。
そういう考えは甘いのでしょう。
戦争は禁じられるべきですが、天災はいつやってくるかわかりません。
平和な世の中でもいのちの選別はおこなわれる可能性があります。
☆感想☆
以前ある本で「トリアージ」という言葉を知ったとき、最初は重傷の人が優先だと思っていました。
そうではなく、命が助かりそうな人を優先するという事実は結構ショックでした。
仕方がないことかもしれませんが、
重傷で意識があったとしたら、それは耐え難い苦痛なのではないか?
柳澤さんがいうように、モルヒネなどで自殺幇助できたら..と思ってしまいますが
今の日本の法律では、そんなことできませんよね..
今後日本に大きな自然災害が起きたとして、そういう状況になったら
いのちの選別がおこなわれるってことなのか?
なんともやるせない気持ちになりますね...
また、柳澤さんは、こうも言っています。
(本文より)
技術の進歩にともなって、「いのちを感じる」能力も失われてきているような気がします。
いのちを感じるということは、大脳辺縁系の仕事かもしれません。
私たちは、大脳新皮質があまりにも大きくなってしまったために、論理に特別な価値を与えています。
理路整然と説明できないことには意味がないと思いがちです。
けれどもすでに考えてきたように、論理からはずれた直感、
本能などの価値をもう1度見直す必要もあると思います。
(本文終わり)
☆感想☆
個人的には直感や本能を大切にして生きています。
技術の進歩は素晴らしいけれど、なんでも論破するような世の中はどこか息苦しく感じます。
だいぶ暖かくなってきて、現在は梅の花が見頃です。
自然に目を向けるといろいろないのちに出会えます。
花の匂いや鳥の声を聞いていると心が落ち着きます。
頭でっかちにならず、もう少し自然と触れ合う時間を持ってみるのもいいかも♪