お茶の間の、、、ばあちゃんや、子供たち、、、そして
自営の合間に休息時間をTVで過ごす人、、、
おおざっぱにいえば
専門的な政治家や、政治解説者や
マスコミを、政治を
プロの目で
お茶の間族には難解な政治理論や、
世界のあり方云々という
巨視眼で、
兵庫県知事選を見ているわけではないが、、、
はっきり言って、、、ばあちゃんは、、、初めに思ったことは
「疑わしきは罰せず」という、、、原則でした。
親戚縁者の中にも、、、
精神力の強い人、、弱い人、、、
それぞれの個人の心には、、、ステンドグラス並みの
色違いの悩みや葛藤を抱えているということですよね。
特に、、立場上、歴史的にその立場の役割が決まっていたりするような場合
教師と生徒、、、職員室と教師 校長先生と実習生
先生と生徒、、、、既成概念で、役割が決まっているような
シナリオが、、
伝統的にあったりする場合に
気に入るかどうかは
因習にフットするかどうかで
決められっしまうような場合があり
個人の能力や、職業意識の高さや。
実行力の評価が
お仲間、、相棒、、、
指導者として心の中に入れてもらえるかどうかの
ファースト条件ではないということだと思うんですよね。
ばあちゃんは、大学時代に
教職課程を、、専攻していました。
昼間の授業が終わった後
大学院の生徒と合同の、理科系の教職課程取得の授業と
中学、、高校の実習を担当させていただきました。
小さな教室内の50人に満たない
生徒たちの中にも
派閥があり、、、転校生や、出来すぎる生徒への、、、
反発グループや
おとりまきやら
先生をからかうという集団、、、
人が集まれば、、小さな教室の中でも、、、
思わぬ方向に、、、授業にならない方向へと展開したりもするのでした。
一人の生徒が虐められたり
成り行きで、、、逆転したり、、、
指導教官が飛んできて、、一括のもとに
力で抑え込んでしまうというのが
昭和40年時代の
一段高い,、、教壇のある、、教師の位置でした。
ばあちゃんのような、、教育実習の先生などは
生徒に、、、逆に、、、励まされてしまうという
なめられた、、、パワハラを、、、
どのようにして、、授業を進行させるか?
興味を持って聞いてくれる、、、流れに乗せるかと
青少年心理の本を読むことで、、、自問自答しながら
実習は「実験一本で授業をうめよう、、、」と
ぼろを出しにくい方法で、ともかく
実習合格の評価を得ないとなりませんでした。
目的は、、、実習の期間中は、
問題を起こさないと決心したものでした。
「やって見せて、、、」
「やらせて見せて、、、」
考えさせて、、、
自由に答えや考えを書かせて、、、
教師側で評価をしないで、、、
生徒同士で評価をしてもらい
その考えの良いところをチョイスして
「 ほめてから、、、」
「この実験の目的は、、なんだったのか?」
生徒に各自に
思うことをレポートに書いてもらって、、、
50人の生徒の「視点の違い」を、、表にしました。
個人的には全員が合格点という結果で、
全員に「ハナマル」という、、、次の授業にも頑張ってくれるように
クラスの実験への興味を育てる方向を大切にして実習をしましたが
生徒の奇想天外な視点に気づかされたものでした。
つまり、、集団の中には、、、
見方の方向を変えると
ダメな生徒は一人もいないのではないかと、、、思うことですよね。
日本にも「IQ」が180の人が
存在すると、
ネットには出ていましたが
普通の人は100前後だと思うのですよね。
特殊な方向に「キズキ,、、キズク、、気が付く、、」
特殊なものの判別がすごいスピードでできるとか、、、
その頭脳を磨いてゆけば、世界の国をけん引できる人も育つでしょうね。
しかし、、、指導者が、、、使途の前を歩くような教育をすると
たぶん、、、生徒は、、学ぶというより、、、
教えられるという受け身になってしまい、、、
生徒の前を行かない先生のほうが
生徒の達成感は大きいのだと思いましたね。
今日は、、黒柳さんの番組に、
栗山監督が出演していらっしゃって
北海道のファイターズに入団した大谷選手の軌跡を
大切に話されていらっしゃいましtが
栗山監督さんが選手に
ファイターズに入ってもらって
「やる気にさせるまでの、プロセス」を
黒柳さんの語り口で、
お茶の間の、、、野球はともかく、、、
大谷選手の大フアンが、、、TVの前で
泣き笑いで、、、拝聴していたのではないでしょうかね!?
私は、、「栗山監督さんも、ドジャースの監督さん」も
人を導ける監督さんは、、、、
人間愛といえばよいのでしょうか?
大谷選手に、直接アメリカに行った選手と
日本でチームの活躍をして、、、
日本で実蹟を挙げてから、、メジャーに参加して、頑張った選手の、
メジャーでの活躍を、、大谷選手の目的と重ね合わせて指導していることに
ひととして、
結婚してからは、、、二人の男の子を育てましたが
私自身、、、北海道という土地柄の雰囲気の中に入ってゆくことを
極力控えて、、、
父兄の中によく見かける派閥にかかわらないように
余分な時間を費やさないようにと
一切無関係に、、、傍観者として、、、その他一同の席で
子供の学校とは、、、あまりかかわらないで
育ててしまったという、、、、
ダメ親に似ていた行動をとったと思うんですよね。
近くには、地域のリーダーにも匹敵するPTA会長をされている
開業医の先生方がいらっしゃいましたし、、、
大学の医局で、身分もない、、収入もアルバイトしかない
研究中の一医局員の主人は
育児に一切顔を出してくれるという余裕はありませんでした。
おまけに、、、私自身は、、
ひょんなことから北海道に住み着いた
東京から来た「よそ者」でした。
アクセントや、、、雰囲気や
言葉は違うし、、、服装もそのころは、、、
東京で買ったものをそのまま来ていたので
きっと、、周りのみんなからは、、、
違和感があったかもしれません。
なんとなく、、、周りになじめずに、、、
子供中心の子育てを
自然のままに、、、
放任していたと記憶しているのです。
子供の後からついてゆかないと、、、
余計な老婆心で教科の優秀性を競わせても
北海道の大自然ンをバックに育つ子供らには
余計なお世話かもしれないと
子供は、何に興味を持って
北海道人になってゆくのだろうと
子供を観察していたような、、、
母親としては
ほかの地元の生徒の父兄の後手のなることが多かったですね。
しかし、、子供は、、、
地域になじめない母親だけの見守りで
すべてにおいて、、
ほかの子供の父兄のすることより、、
至らない母親のもとで
よくぞまともに、、、食べてゆける男に育ってくれたと
北海道の風土習慣になかなかついてゆくだけで、、、
なじめなかった育児の時代を振り返り、、、
大学で知識だけは、、、
知識は豊富にいただいてきたはずなのに、、、
北海道のご婦人たちからは
接点を持つことができなかったですね。
たくましい人たちばかりのように見えました。
運動会も、、我が家の子供たちは、、、梅干し入りの握り飯だけ。
反省をすれば、、、限りがない。
小学校から大学卒業までお茶の水界隈で教育を受けることのできた
夢のような生活は、、、北海道に嫁いで、、
2か月目には火事に出会った。
新建材のタールで、別の色になっていた。
私は実家の東京に帰っていた。
母が作ってくれた北海道向きの衣類は、、ごみ袋に入れて、、
袖を通すことのないまま棄てた。
誰も、、誤りには来なかった。
部屋で火を使うことの多い北海道では、、、運が悪いと、、
階下の住人が、家事を出すことは、、、想定外ではない。
2か月ほどしてから、、修復したAPに戻ったのですが
火事がトラウマになって、、、
眠れない日が続き、、、やせましたね。
38キロ、、、とか、、に。
近所のおばさんたちは、、、
「アパートの住人と仲良くしたって
出て行ってしまうからね、、、、」と言いながら、、、
誰もが無関心だった。
キナ臭さや、、、壁の色が変色した上から壁を張りなおして、
床の抜けたのは、、、新しい床材で直してくれていたが、、、
全体にしみ込んだ、、きな臭い匂いには閉口した。
一か月だけ、、、家賃は無料になったが、、、
17000円では、、、一着の衣類も着物も買い戻せない額であった。
なんで、、、勤務していた病院を辞めて、、、
東京から、、、だれも知人のいない北海道に
来てしまったのだろうか、、、?
女性24歳といえば、、、
男兄弟の中には長男を先頭に
実家の近くの総合病院で薬剤師として勤務していた私を
嫁に出したいという家族の、、、「パワハラ」は相当なものだった。
家に帰ると、、、
結婚の話、、見合いの話し、、、
兄の友人も、、結婚を申し込んでくれて、、、
感謝ですが、、、私にはもったいないようなよさそうな人でしたが
兄の友達とだけは、、、縁があるとは思えないほど
私は長男が苦手だった。
私には、、自分を仕上げてから結婚はそのあとに考えようと
決して、、家族に逆らってはいませんでしたが
天の命令を感じる時期を待ってほしかった。
父の代からの地域開業の医師の家では
跡継ぎの医師の兄のもとに、、、短大卒の女性が
来てしまっていた。
兄はまだ5年生だった。
大学受験時代に、、私の部屋を、、、彼女に譲れと言って
学校から帰ると、、私の大切な部屋はなくなっていた。
大切にしていた「砂漠の魔王」,、、「カバヤ文庫の世界名作集」
手塚治虫さんの漫画の「初版」もの、、、
兄と彼女が古本屋に売ってきたといった。
その日から、、、私は、、入院室の蒲団部屋の空白の3畳が
勉強部屋になった。トイレが隣だったので、、、人が通るのが、、、ね、、、。
昭和生まれの女性が大学に行くということは
周囲の反対を押し切ってゆくという、、、家からは
好もしくない家族を宣言するようなものだった。
長男は妹の大学進学を良しとせず、、、
同キョヂていた短大卒の嫁さんの友人となえるように
短大の願書を、ミカン箱いっぱい集めて
私に、、「この中の気に入った短大にしなさい!」
19歳の時に父が亡くなり、、、その直前に
我が家に表れて、、、玄関に立ちつくし、、、
お帰りになったかと思ったら、、、
朝まで立っていたといった
ハイティーンのような判断力の彼女を
まだ医学生の5年生なのに
兄は、、彼女が居たいというまで いてもいいよと、、、言った。
兄は家に住み込んでしまっていた彼女と
結婚式を挙げて入籍したのは
国家試験が受かった時だった。
反対する親が、いなくなったということは、、、
話が通じるということは、、考えられない出来事だったから、、、
物言わぬ彼女ではあったが、、、兄が保護するので
私のものはどんどん無断で、、、捨てられて
無くなってゆく毎日だった。
私は、、、兄のパワハラだと断定したのは、、、
極め付きは、、、
父の代から知人も多い医師会雑誌に
「医師の妹、、、本人は薬剤師、、、 医師に嫁がせたし」
広告を出したんですよね、、
医師の妹、、、、この文字が、、絶対に、、パワハラだと思いましたね。
私は、、妹は、、、兄ものではないはず、、、
人権蹂躙だと思いましたね。
私も若かったのですね、、、まことに、、、腹が立った経験ですね。
、
しかも、、地域医療として評価のあった父を知っている方からの
申し込みも、、数多くいただいて、、、
断るに断り切れずに
、兄のところに集まった、、、結婚話の先生方に
、、自分は30までに、自分を仕上げるためにも
結婚の意思はないと、、、謝ってって回りました。
ある先生の母親であり女医であり、、、病院長夫人である方からは
巻物のような筆でしたためたお手紙をいただき
あれだけの息子ですが、、、
結婚のお相手として、、付き合ってくださいと
身に余る文章をいただきましたが、、、
私は幼いときに、、、いっろりに落とされて
大やけどを負っています、
女性としては致命傷だと
兄はいうのですが、、、
野口英世だって、、私と同じやけどがあっても
医師として自己実現をされたでしょう、、、
私は、、医師になるか薬剤師になって
右手の傷など、、、問題にならないという
キャリアで生きてゆくことを
小学生の時に決心していました。
しかし、、、薬剤師になった日から、、、
「嫁に行け攻撃が、、、日に日に激しくなりました。」
パワハラですよね、、、
ほっておいてほしかったですね。
北海道には、、、大学時代の、、半年だけ同級生だった旧友が
北大の医師と結婚するので、
友人代表のあいさつをしてほしいと
ヒコーキの切符と、ホテルの宿泊支払い済みの券を
母宛に送ってきた。
北海道行きを、何度も断っている私には
気持ちが通じないと思ったのかもしれません。
勝手の同級生の結婚相手の、、
外科の先生からの(初めて知る名前の)結婚式への招待状でした。(
真夜中に到着した千歳まで
迎えに来ていた、、、、見たことのない医学部の大学院生だと言った。
隣には4年ぶりで出会った旧友が、、
自分自身だけに通じる冗談を言いながら、、、
自分はあなたの親友だと、、みんなには言ってあるので
北海道には、、大卒の友人は「あなただけ」だから、、、
あいさつに、、
どうしても、、「大卒の友人を一人呼びたかった」のだといった。
昭和40年代は、北海道からの大卒の女性は、、、
学歴を誇示したかったのでしょう?
女子大が少ない北海道においては
、東京の女子大卒当たり前の地区とは違って
北海道は、、、初めて来たのですが、、、、
女子の大卒は、、、アピールするだけ、、、少なかったようですね。
何もかもが、、、50年前に来たような、、、時代錯誤がありました。
結婚式はそれなりに、、、自分の役を終了して、
6月の北海道は
最高だった。
空気がおいしかった。
深夜のオーロラ便がお役されていたので
真夜中についた高速道路は、、未開の土地に来たような
千と千尋の神隠しの、、、ガードの向こう側の世界のような
未知なる空間が、、、
閉塞感で、、、
生きている気持のしなかった日常から
解放された気がしていたことを、、、鮮明に覚えている。
大好きな人もいた、、、勉強せねばならないこともまだまだ、、あった。
しかし、、、私は、、二度と、、東京に帰ることのない
これから40歳までは、、私がサポートしなければならないという
無休医局員と、、
博士論文研究中の、、、
10年先には、、間違いなく、、社会参加ができるだろうという
若き医師の「博士論文の研究中」の
大学院生のドクターと
無からの出発に、、巻き込まれていった。
シナリオは、、友人夫婦と、、未来のダンナさんが、、、
自分たちを主役として、、、
必要な人生の役立つ道具として
、、未来のアイテムだという
生きるための選択を、、、、
、持ちつ持たれつという
勝手なシナリオが、、、24歳の結婚しない女性の周りに起こした竜巻だった。
24歳になっても、、、
自己実現するべく、、、
独身で、実家に住みつかれることは
周りが耐えられないのだと、、
ここまで、、シナリオをつきつけられると
やっとわかった。
「パワハラだと!、、」
自己実現にまっしぐらだったことが、、、
父の残していった家屋敷に相続権が発生する前に
完全放棄させて、、嫁に出すには
相手も、自立できる保証が必要だったのでしょうね、、、
パワハラだと思える一連の行動は
大学卒業してからも、、、実家から勤務先まで通っていた私のほうが
「バカ御嬢さん」だったのだと、、、
北海道に来て気が付きました。
兄はパワハラでも何でもなかったのだと、、、
大学を卒業して、、、薬剤師の免許を取得した妹が
いつまでも、、小姑でいてもらっては、、、邪魔だったのだと、、、
北海道に来て、、、
女性の24歳の身の振り方を
他人から、、言われていたのだと、、、
「自分一番」「オレオレ万歳みたいな自己中の考え」に
急ブレーキを踏みました。
数学者なら、、、23歳ぐらいまでの脳の若いうちに
何事かを、、、発表できなければ、、、
その学者の人生でやれることは
周りは期待しないと、、、
大学に通っているとき
数学科の、、、ゲンチさんといったっけ?
ESS仲間から聞いたことを思い出した。
ここら辺で、、、自己実現は、、
、社会に選ばれなかった!!と
潔く、、自分の小ささを認めようと、、、
相手が望むなら、、、
ここら辺で
子供を育てて、、社会に御恩を返して、、、
人生の余った時間で、、続きをしよう、、、と
私の結婚への踏切は、、、
自分は、、
「パワハラと戦っていたんではない」と、、、
後輩が続いてくるんだから、、、ここら辺で、、
社会の期待することは
「女性としての役目を果たす」母親となる時期が来ていたんだと、、
結婚は、、、「すべての自意識の高」さを、、、白紙に戻す、、、原野がいいと、、、。
北海道の、何も見えない高速道路が
未来にしなければならない
私という、、、一女性の機能にあてがわれた開拓の原野を見るようで
付き合ったこともない、、、
大学院生が
「先輩が、、お見合い相手に会わせるというから迎えに同乗してきた」という
結婚に準備どころか、、、
まだ収入もないのに、、、
奨学金が借り金になって100万もたまっているという
北大の医学部の大学院生の
博士論文の研究をサポートするべく
奨学金の返済から、、、同居が始まった。
籍を入れるには、、、、、海のものとも山のものとも、、、
性格すらわからない。 北海道という異次元の世界で
何もない生活が始まった。
家事という追い打ちもあった。
それでも、、私の居場所は実家には無いということが
北海道からは、、よくわかった。
昭和の時代は、、敗戦からの復活の時代であった。
薬剤師の免許を取得したものが、、、独立しないで
寄生虫のように、、、
実家のトイレットペーパーを使うのは
女性という男尊女卑の情勢の中で、、、
許される限界を超えて、、、
既得権の上に胡坐をかいていた自分が見えた。
家を出なければ、、、一人前に女性とは言えない、、、
私が「パワハラだと思ったすべてのこと」は
北海道に来なくても、、、
気が付いて、、、
独立しなければいけないことだったのだと
北海道の原野を見ながら、、、
私は、、
「家庭の父母のいたころの既得権」に胡坐をかいていたことが
北の果てで、、、やっとわかりました。
女性という、、子供を産めるという、、、特殊能力が
24歳からの後半の力として、、、社会に還元できるはずだと
自己確立を、、まず、、
女性として果たしてから、、
母が50過ぎてから「ピアノ教室を始めたように」
50歳から自立のチャンスはあると、、、
北海道で、、大河に流されて、、、行き着いたところで
もう一度、、自分を取り戻そう、、、と
家族も、、兄も、、、私に縁談を持ってきた教授の先生にも
女性排斥のパワハラだと、、誤解していた自分が
何もない北海道の深夜の千歳の原野を見ていて
誰も悪くない、、、
自分が鈍感だったと、、、
思い知りましてね。
ダンナになるべく人との出会いの運命の十字路にいたというだけで、、
いまだに、、ダンナさんの過去の生活も、、
人間関係も、、聞くことはないままに
55年以上が過ぎました。
パワハラとか、、いじめとか、、、
確かに
とんでもないものが存在しますが
時とともに、、、
自分の役割が変わるのだということが
自覚できないのが、、、人間の、、
「我の強さ」でもあると
ユズリハの、、、葉が落ちるとき
北海道についた自分を思い出しますね。
見方を変えれば、、、いじめも、、、パワハラも、、、
双方が譲れば、、新しい新芽が出てくるのだと、、、
80歳になったばあちゃんは、、、
父の残した遺産の一切を分けてくれなかった、、
当時の男尊女卑を、、パワハラと思う前に
大学教育という、、、
永遠に増え続ける大いなる遺産を
父が,、自らの手渡しで、、遺産をクレタではないか、、、!(^^
お父さん、、お母さん、、ありがとう、、、
m(--)m
気が付くのが遅かったけど、、、
父さんも母さんも
今頃は偉い、、えらい、、、上位の仏様として
慈愛に満ちているころだから
娘の鈍感さは、、、笑って、、許してくれますよね、、、
私も、、孫子には、、
教育だけを、、遺産になるように
心がけたいと思います。
パワハラだと思ったり、、、
いじめだと思ったら
自殺だけは避けないと、、、
本当の悪者は誰だかわかりません
無関係な人のせいになることだってありますし
自殺は、、
すべてのなかの良い人間関係を
冷凍してしまいます。
社会の機関として、、、
自殺だけは、、、原因がわからないだけに
安易に罪びとを作らぬ様な
心理学者。、、法律家、、倫理学者
経済学者、、、脳科学者、、、精神科医
連帯という円周の
あまたのドットのような考えの
スペシャリストの意見を聞きながら
総合の判断でも、、、真実は違うかもしれないという
自殺という円の中心の、、、ドットを
解明するのは、、不可能ではなかろうかと、、、
人の心だけは、、、
渦中から見る自分と
真夜中の、、星降る6月の宇宙の下で
大自然の空気を吸いながら
雑踏の東京の
実家の小さな
家の中で考えるのとでは
24歳の女性にかけられたパワハラは
180度、、見方を変えると
自分だけが貴重な時間んを、、自分のためだけに使っていたと
既得権を盾に、、、父が生きていたころのように
自分の権利を 独り占めしていたと
4次元の価値観に気が付いた、、、
貴重な経験でした。
朝になりました。。。おやすみなさい、、、
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