今、、夜明けの6時です。
札幌は土砂降りです。
昨日は、、、お出かけ日和の初秋の空が、
午後にはしっぽりと空気が湿りはじめました。
消費税が10%になって、商店は閑散としていると思いきや
確かに、、、大型電気店や、
携帯電話の販売店は、、、人がいないが
いつもは閑散としているはずの、バックやカバンを売っている商店には
バク買の外人さんらしき女性が群れている。
そろそろ「すまほ」にするかな~~~?
ドコモのショップが、毎日Rme-ru を
送ってくる。
帰りの電車の中では
「すまほ」を見つめる乗客の姿は、
「スマホ教の信者」のような、集中した精神が
小さな画面に吸い込まれてゆく。
家に着くと 、じかn
夕方、可愛がって育てている「君子欄」のプランターから
[
mama,,,samukunarukara ,,,outini irete!!!!!...
ママ、、、?
タシカニ、、、「ママ」 クンシラン が、いきなり、脳の中に電波でヘルプを伝えてきた。
夕方、5時である。
私は、ガーデンジーンズに着替えて
プランターの 7株の君子欄を
グラスウールの厚い大型の箱に移し換えて
すっぽりと透明のビニールに入れた君子欄を
食堂のテーブルの脇に移した。
後は丁寧に、移し替えるときにハネタ泥をふき取って仕上げた。
君子欄の7株は「初代の乱の3代目、、、つまり赤い実から発芽した子供の実から育った欄である。
この界隈は、50年前はタケノコの丘だった。
其処に、日ノ丸宅地という会社が造成した空き地が
定山渓鉄道の会社の「造成ニュータウン予定地の隣に隣接していた。」
おりからのバブルのピークの昭和49年頃の子育て未来の不安から
無給医の大学院生と結婚していた私は、
結婚前の24歳までの間に「薬剤師として勤務していた貯金」で
土地だけは、、、いつか必要になると信じて、主人と二人の名前で買っておいた。
二年後に、男の子の二人目が誕生して
この地に売れ残っていた隣接地の「ミサワホーム」を
北海道ミサワに勧められるままに、、、0.9パーセントの提携ローンで購入しました。
その時は羊が丘が見渡せました。
若かった私たちは、借金の利息の怖さを知らなかった事もあり、
主人は、博士号を取得すると、
あっちこっちで「アルバイトしながら、家計を助けてくれるようになりました。」
長男の手を引いて、私も仕事に行きながら、
何とか、、、北海道人としての根を、此処に降ろし、、、ホットしていると
三軒先の東京出身の未亡人で、男の子のお子様と二人暮らしの「お婆ちゃん」が
大きな君子欄を抱えて、持ってきてくれたのでした。
「大切に育てさせていただきます、、、ありがとう、、」
「奥さんが東京から来たって聞いて、、、懐かしくって、、、」
そのお婆ちゃんは、此処は岩手あたりのNさん、U,T、、、、などが開拓した村気質の
強い結束があるから、
無理やり仲間に入っ行くというよりは、
造成地だから、どんどん開けてきて、
新しい人たちの住宅地になってゆくから、長い目で住人になってゆくことですよ。」
「君子欄はね、、、日当たりの良いところより、日陰の方が美しく咲くのよ、、、!」
あの日から50年になります。
その間には、、、家族が病気で入院したり、母が亡くなったり、、、
主人が単身赴任したり、、、
受験生を二人抱えて、正職員で働きながら、単身赴任の主人とは、交流が途絶えたり、、、
東京の実家が、姉の痴呆発病で維持できなくなり、、、売却されたり、、、
東京には、もう、、、主人も、私も買える必要が亡くなったり、、、
抱えきれなくなった欄を、うっかりミスの温度管理が原因で、、、全滅させてしまったことがあった。
その時、欄は「橙閼伽の梅の実のような実を残してくれていた。」
ふんわりと泥の中で、全滅したはずの君子欄が、小さな、、小さな葉っぱを出しはじめた。
そして、、、今は3代目の君子欄が7株になった。
2代目の君子欄も5株、、、一抱えでは持ちきれませんが、、、
この株は、今年は外には出さなかった。
羽の入れ替わりが少なくて、強靭な濃い緑の厚い葉っぱが
ピアノの前で、母の代わりに演奏しているようだ。
一年に一回、、、多くても2回だけ、
君子欄には橙色の薬玉のような花が咲いてくれる。
私が、、、死んだら、、、この欄たちの面倒を看てくれる人がいない。
少しでも、、、長生きして、、、、その時は心ある人に
欄ののこ祖てくれた「橙淦」の実を、、、孫に受け取ってもらおうと思っている。」
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