早朝3時半起床
台所で、
昨日の12時までの食器を
ミルトンと同じ濃度の
次亜塩素酸の入った
クエン酸液につけておいた
除菌の済んだことにしている食器を
レベル2の微温湯で液を洗い流し
食器かごに入れて自然乾燥させてゆく。
昨日の湯上りのシャツや、
下着類、モモヒキなど
100度のお湯をかけて、
洗濯機の蓋をして20分後
よく洗うスイッチにして、
自動洗濯機のスイッチオン!
連休中は
朝食のサラダは
主人の出番!!!
クク、、ク、、、子供心満杯のデザインサラダ
自然の味そのまま、、、
シェフには、、、絶対に、、つくれないでしょうね!!
ありがとう(^^
連休って感じがするわ!!
夜中も昼も無い、、、アトランダムに、、
体力任せのスケジュールですが
何故か、、、・??私は独身時代から夜型で、
短時間爆睡型で、、、
家族からは、、、
「いつ寝ているの? 」
学生時代から、
夜更かしの
ながら族だった。
深夜の味麻番組が大好きで
かけっぱなしで、、、朝が来る
明治生まれの父母の時代は
今のウクライナのような
東京全土、、、焼夷弾で廃墟になった時代だけに
防空壕で生まれた私は
栄養失調で,、、泣きだすことが無かったそうです、
泣いた赤ちゃんは
味方の手で、口をふさがれ
生き残れなかった時代です。
栄養失調は中学3年ぐらいまで続き
貧血で、、どこでもぶっ倒れて
そのまま寝ていたことを思い出します。
日本は、、日本の
独特の文化と歴史の長い、、島国という
天然の要塞に囲まれた立地条件だった事の
良い面悪い面が、、交錯して
今日に至っていると
学校では習った、、、モノだった。
学校は先生方の創る教育指針で生徒を導くので
先生の言うとおりに「正解」が有った。
しかし、、人生には「正解」などは存在しない。
運と金の力、自然の条件
資源があるとか、、海があるとか、、、
たたき上げの伝統の技術が受け継がれているとか、、、
教育でも、政治でも
受け継がれてゆく家系が、、、見えない期待を背負って
長男に引き継がれてゆく、、、長かった封建時代
人間100年、、、一台では到底できないような
伝統芸、、伝統工芸、、伝統食品
伝統のお家の隠し技
見えない実力を秘めていた
日本という国
決して表面には
もてはやされることはないが、、、
地面の下から、、
日本人の未来を支えてきた、、、
何かが,、、ある。
パソコンでも、スマホでもつたえられない
手ごたえや、、感覚の中に
宇宙行きのドローンのネジを創っている。
ロボットにさえ、、命を吹き込む日本の伝統芸が
不可能を可能にするかもしれない。
その秘めたる、、、精神の杜だった日本列島は
太平洋戦争で、、破壊された。
戦争は、、、破壊しかない。
名人も、、名選手も、、
沢村投手も
戦場の露となった、、、恐ろしい破壊のエネルギー!
我が家は、、今でも、、
どこかに、、千人針や奉公袋を置いてあるはず、、
何処に仕舞ったか?間違って、親類の誰かに託したか?
78歳になるまで、、
良いと思うモノ、
未来に参考に残してもらえそうなものから
事ある毎に
あげてしまった。
でも、、、戦前の日の丸の旗、、
神社の寄せ書きでうまった、、、祈りの旗は
何処にしまってしまったのか?
想い出せない。
歳をとることは、、自覚無しに
多くの事がめんどくさくなって
手抜きする。
家族が、あちこち動かしたりすると
爪きり一つ見つからない、、、。
引き出しの置き場から、、棚に移っただけなのに
一日探しても見つからない、、、。
緊張を欠くづ脳になってくれているおかげで
連日の、、、戦争の報道で
パニックにならずに済んでいる。
ウクライナとロシア
アメリカと、、中国、、台湾、、北朝鮮
連日の報道で
足が浮くという漢字はしているが、、、
私自身、、世界史の試験は「5点」しか取れなかったという
世界音痴で、、社会音痴で、、政治音痴、、
NHKの「プレミア番組で、、、
プーチンさんの、、
人柄と、来し方の行動実績を見た時
そうなんだ、、、!と肝をつぶす、」
いかに、、専門のこと以外は、、幼稚園の知識で
この年まで、、生きてきてしまった事か???
若い人の話題には、、ついて行けない。
時代に乗れない日々の中で
世界戦争がはじまったら、、、もう、、終わりだと思ったりする、
日本は島国だから、、巻き込まれないように
終戦に向かうお手伝いをするしかないと思う、、、
太平洋戦争が終わる一年前から、、、、13年,、、、間!
南紀の山奥には、、、電気が無くて
ランプに火をともして
青竹の洗い場で、お風呂に入った。
竹藪の中のような香りのする、、、檜のお風呂、、、
何処にもない、、最高の贅沢な、、疎開地のお風呂だった。
アメリカから帰国した祖父は
私が物心ついたころには
疎開地の村長さんをしていた。
、
疎開地に電気を弾くダムの建設の時代
娘婿の、外科医を、終戦まじかの戦場から迎えて
村の診療所に連れてきた。
無医村の外科医として
日夜働いた父は、、、
戦場の軍医として、戦場に行くトラックを待っていたという。
いつまで、、待っても、、トラックは現れなくて
病院に還ると
日本から、祖父が、娘夫婦の家族を迎えに来ていたという。
戦場へのトラックが来ないわけである、、、
日本は国内への報道とは違って
行くはずの戦場はすでに、、、玉砕していたのだった。
最後の連絡船に間に合うように
祖父は、我が身を捨てて、、戦場近くの病院まで
娘夫婦の家族を引き取りに来たのだった。
祖父の、、、信じられない捨て身の救済で
帰国できた父と母、、、
終戦間際で疎開してくる人々で
人数が急に膨らんだ山村の診療所で
復興に向かう国のダム計画に沿って
診療所では
ダム工事で怪我した工夫が連日
包帯だらけになって、
松葉杖で歩き。幼い私は、
待合室の本を膝に於いて
怪我人の、治癒してゆくまでの様子を、、見ていた。
アメリカに勝てるわけはなかった、、、
山村には、、電気が無かった!!
駅も、、電車も無い、、、一日1本のバスだけの村が
一日2本のバスになった。
夕方のバスに乗ると
運転手さんの叔父さんが、、、お酒を飲んで
ご機嫌だった!!
道幅の方が、、バスより狭い所もある、、
南紀の山道を
ほろ酔いで、、ご機嫌の運転手さんお叔父さんは
バスのおケツを、、谷底の方にはみ出させながら
ぎりぎりの山道を、
器用に運転するのだった、、、
しかも、、お酒でご機嫌でした。
毎度のことなので、、誰も何にも云わなかった。
運転手の神様だから、、
お酒を飲んでも大丈夫だったのかもしてないが
今なら、、ありえない、、光景でしたね。
家族も親戚も、、戦争で死んで、、、
今更、、どうにでもならない、、この命、、、
死なばもろとも、、よう、、駅まで乗せてくれ、、、
乗り込むお客も,、、酔っぱらい、、、。
不思議とバスは事故ることも無く、、
父の診療所に運ばれてくるのは
ダム建設の資材を運ぶ、、、街からの運搬車が
がけから転落して、
顔面が割れて、、白骨が見えているのに
生きている人だとか、、、
父は「顔面だから、糸で縫わないようにして
バンソコウに似たテープではりあわせ「
ところどころ
縫った顔の筋肉以外は
包帯で巻かれ、、、透明人間のようになっていた。
一か月も経たないうちに、
顔面には、線を残しただけで
フランケンシュタインのようにはならないで
創口は、、きれいにふさがっていた。
患者さんは、、喜んでいました。
私は、、村に医者が居なかったら
あの、、骸骨の見えるまで
顔の肉が剥がれた顔は
どうなったのだろうと、、考えると
戦場で、、怪我をした兵隊さんの苦しみが
戦争の罪でもあると、、、子供の頃は真剣に思った。
即死する人は、、苦しまないが、、、
生き地獄の兵隊さんの苦しみを思う時、
地球を汚さない、、苦しませない戦争なんてありえない。
戦争はすぐに中止すべきだと思いました。
人道的な事だけを考えても
戦争は殺人であり、、破壊であり、、地球汚染の
最低の、、手段だと思います。
日本も大勢の政治家が、、、ロシヤ入りを断られていますが
オンラインで、、話し合えばいいと思います。
戦場も、ウクライナの国土の中でしないようにして
オンラインの、知的な 画面戦争で
勝敗を決めればよいではないですか!
ほんものの市街地を廃墟にする必要が
ないはずですよね。
ウクライナで、、知的な幸船日々を過ごしていた市民の
思い出野¥のともなった街を
これ以上破壊することはないのではないか!、、
終戦に導いてください。
他人事とは思えません。
かって、、マッカーサーから12歳だと言われた日本人の
血気にはやって、、軍隊の一部の人間が
短期決戦で、、、勝負が付くと思った、、戦争だったらしい。
現代は「情報戦争と行っても良いかもしれない。」
window8,1を使っている私は
戦う前の段階まで行かないで、、、没します。
ハッカーが、、雲の上の「アメリカの飛行機の連帯を
あぶりだせるかという
キータッチ一つの差で、、勝負は決まりそうですね、、、
若者のスマホの使いか方を見ていると
ニッポンの未来は、、若者の教育にかかて居そうですね
学校で、机に座って教えるのではなくて
会社そのものが、学校のように
一年生から六年生のように
仕事の内容を難しくして順序づけて
6年で終わると、、次の3年、、、、とまた3年と
稀有なる情報も、稀有なる技術も判断も成長する会社にして
他国では育たないスペシャリストが育つという
教育システムを、、知識から、、熟練へと移行させるシステムにして
世界の追従を許さない、、、仕事のできる国民にして
財産は{腕}一本で、貯金は要らないという
教育の一環として
定年まで進歩し続ける、、、情報システムの会社にするとか、、、
考え直さないと、、、
試験は100点だけど、、、能無しの口ばかりの人間では
もう、、ごまかしがきかない時代に突入、、、て
そんなかんじしません?????
あくまで、、、78歳が目の前の婆ちゃんの
時代を振り返る、、、思い付きですけどね、、、!
核戦争。。。起きてしまったら。。。。おしまいです!!
太平洋戦争の焼夷弾の雨の中を
廃墟になった実家のある東京は
破壊されていました。
日本を復興するのは、
これからの若者の教育だと、、
万難を排して、、全てを疎開地に残して
子供らの教育の事だけの為に
背水の陣の「東京下町、、開業」という
stressを乗り越えて、、
生まれ故郷の東京に帰ってくれました。
鮭が,、故郷の川に還るのは、、、何故・・・??
東京都言っても、、、もとの実家のあるあたりには
巨大なホテルが建ち
公の機関の高層ビルが立ち並び
実家のあった文人ドーロは、、、昔を残すのは、、、
道路わきの石積みぐらいだろうか??
戦争で破壊された故郷は
他人の街のように、、、観ならないビルで
とり付くしまもない。。。見知らに街に生まれ変わる。
それでも父は東京に、、帰還した。
3人の戦争からの生き残りと、、
戦後っこの弟には
日本復活の使命が、、かかっていた、、、
団塊の世代である。
目指せ、、、新しい日本!!
アメリカに追いつき追い越せ!!
戦後の父母の人生は
日本の復興に、、
のり遅れないようにと
子供達や
親戚一同の子供達
大學に進学したが、、
下宿代に困る学生など
2000円で、部屋を提供して
大勢の食事時には
早い者勝ちの速さで、、
テーブルは、、空の皿ばかり並んだ。
子供達の教育に、、、
収入の120パーセントつぎ込んでくれたと思っています。
我が家の白黒テレビの部屋は
教室のように、、
近所のおじさんや少年や その兄弟友人で
人で一杯だった。
プロレスや、相撲の時は
近所のおっさんで、、
奇声が絶えない
うるささだった。
我が家は、、
我が家でありながら、、、
私の居場所は無かった。
私は、、ほとんど図書館に居た。
家に帰ってくると、、、
母のピアノの音がしていた。
ムーンライトの第三楽章とか、、
不安タージアンプロンプチュウ、、とか
ショパンとか、、、
ヴァㇽトシュタイン、、
ときには、、
リストの曲、、、
受験勉強どころではありませんでした。
母は、、近所からも苦情を言われて
完全防音室に、、自分で買ったグランドピアノと
アップライトピアノの、、2台、、
母専用のスペースが60坪ほどの別棟に隔離して
刑務所の塀とまで,、、行かなくても
外に音が逃げ出さ荷様に、、、
田尾会ブロック塀で囲みました。
別棟の家族の棟には
居候やら、、、学生やら、、、職員やら
中卒のぶとった、台所見習いのような
陽気な女中さんが、
私たち姉弟を
お兄さん、、お姉さん、、、と呼びながら
家族の一員のようにして、、
家じゅうを、、どこにでも出入りして
無口な大人たちの間を飛び回るのでした。
その他にも...曜日を決めて
東京大学の学生が、
英語の家庭教師として
自分の家のように
家族のように、、
何年もいらしていた。
家庭教師などをしなくても良いような
大金持ちの坊ちゃんだったけれど
母は、、、英語を習うというのも、
目的の一つだけれど
疎開地で
小学校高学年まで
田舎の井戸の
カエルのようだった
田舎っぺの我が子に
中学まで田舎に居た長男の為に
東京の住人の
代表になるだろう
「東大生」を
家庭教師として迎え
男の子だけを、、、
特訓教育し始めた。
英語で将棋を教わったり
英語でマージャンを教わったり
一日英語だけで銀座に出たり、、、
ユニークな家庭教師だった。
笑い声がソプラノで
私は先生の事を
「ケタケタさん」と呼んだ。
今でも、、本名は思い出せない。
田舎っぺの我ら姉妹の
傍に来てもらう事で
井戸の中の蛙のように
田舎のエリート並みに、
勉強のできた3兄弟の
身の程をわきまえるのには
家庭教師の、
当たり前の日常が
身近にあることで
田舎っぺの、、、
思い上がりが均されて。
田舎と、
東京のエリートの考えが
ミックスして
母が、思うような意気地が出来ると
母が思った通りの
人材配置だったと
私なりに、、、
男兄弟の家庭教師の為の
カレーライスづくりを担当していた。
その家庭教師は、、
消防署長さんの長男で
東大卒業後は、「丸紅」とかいう
大きな会社に勤めて
勤務後も、、、時々来ていたのをおぼえているが
得意の英語を駆使して、
外国相手の第一線に抜擢されたのか???
いつ居なくなったのか覚えてない、、が??
カレー作りから解放され、、、
私的には「ほ!ホ!と」
一息入れて以来、、、
当時の男の子と
女の子の、
受験に対する待遇は
男女差別としか言いようのない、、、j時代であった。
私は、家庭教師に、世話になる事は無かったが
学校からは、「御茶大付属高校」ゕ
教育大付属高校を受験するようにと
先生は願書を下さった。
日大の医学部に入学していた8歳上の長男が
「これから、大学に行く男がまだ2人居るんだから」
「毎日毎日、、東京横断の電車賃を使うような事は許さん!!」
「女は、やがて出てゆくのだから
大學も、、短大にしろ!!」
ミカン箱いっぱいの、、、短大の願書や
短大につながった、、、エスカレーターの
高校の願書を持って来て
学生結婚した自分の奥さんの短大を
強硬に進めてきた。
まだ式も上げていない学生結婚の奥さんが
兄貴にとっては、、「守らねばならない、、、家族」だった。
お姉さん、、と呼んでいたら
「お姉さま、、、と呼べ!」と命令であった。
お姉さまは「床の間の花だから、、、仕事をさせてはならない。」
「兄貴の命令した仕事だけを、、してもらう事にしているから、、」
「週に一度、生け花教室、、大関早苗さんとかいう、、美容化のもとに、、、
日曜は、、芝のゴルフクラブに、、、
たった一度の手作りの食事も、、戴かないまま
喧嘩もしないで、、
すれ違う時は、立ち止まって道を譲り
話し合う事もないまま、、、喧嘩さえしないで
兄貴家族とは別れて、、
私は、気が付くと、、、北海道に住んでいました。
兄貴夫婦とはいさかいは起こさなかったが
私への「愛」は感じなかったので
居なくなったのも気が付かないように
やがては、、家を別にして
母を見なくてはならなくなると
私なりに考えていた。
兄貴には、、しばしば、、、
でんぐり返るほど、、腹が立つことがあった。
大切に収集していた
「砂漠の魔王」
「カバヤ文庫全集」
、、これはキャラメルを買って
一生懸命、、キャラメルを食べながら
友だちにキャラメルを配りながら
集めた、私的には,、秘蔵の本の全集だった。
ある日帰ると、、、自分の部屋も本も無くなっていた。
私の部屋は没収して
お嫁さんお部屋になっていた。
本屋備品は、、、無分別のまま
兄貴が必要と感じた、、受験の参考書と教科書だけが残っていた。
クルマのトランクに積んで、
古本屋に売ってしまったというのだった。
戦争中戦地で過ごした、、、昭和10年代の男たちは
叩く事だけを指導された時代だから、、、
話しても、、解らない、、、解ってくれない
男尊女卑がすごい所があった。
兄貴に従って、、都立高校で
130円のバス代で行ける
小松川高校に
進学した。
荒川が流れていて、、気さくな学友は、、皆素敵だった。
本が好きで、、付き合いの悪い私の事を
バレー部のキャプテンのYサンが、
「あんたを見てると、、イライラするんよ!!
少しは皆と、、フオ~クダンスに行ったり
休み時間に、、付き合わんのよ^^^
イライラするんよ、、、椅子の上のキノコみたいで!」
それから、私は、登山や、ボート漕ぎに参加し始めた。
放送部の早朝放送にも機械を回しに参加した。
美術部に入って、三人で合作の100号の作品も作った。
2年生になると、
「科学部」に入って、
写真を自分で焼き付けたりした。
学際には
全紙の大きさに引き伸ばした写真を提出。
「祭りの女の子を撮影した写真」も
廊下に貼って、盛り上がったりした。
二番目の
兄たちは浪人してしまい
理数系の
熊本大学に在学中の学生が
夏休み、冬休みに来るようになった。
その学生は、、、
バンカラな方で
「でっかいおにぎり」の中に、
「牛肉の炒めたもの」を入れて
江戸名物の糊でくるんだもので、、
喜んでくれた。
そのころ、、、初めてのラブレターをもらった。
付き合ってくれと、、言われた。
男の兄妹だけで、、
うんざりしていた私は、、
男の子に、、全く興味が無かった。
友だちとしての学友の男の子は
性を意識するところまでは、、とても行かなかった。
ヒットラーのような考え方の男の子だっていたし
社会党のような男の子もいた。
浅沼さんが、、、青天の霹靂の、、結果の事件が起きた。
まさに、、、、青天の霹靂だった。
これからの社会党には、必要な議員さんだったと
クラスはざわついた。
卒業生には「山口シズエ」さんという
衆議院が居る高校だけに、
エスぺラン語を話して
海外協力に夢を燃やす友人もいた。
外語を受験するという友人は英語の一級が受かっていた。
私は2級は受かったが、、
それ以後、、南海受けても、、、
政治新聞の時事英語で、、落第!
女性には優秀な生徒が多かった。
私は語学だけでも、、
文系には、進まない方がよさそうだと
自覚していた。
願書は、国立の千葉大学と、
単科の医科大学に願書を出した。
2郎した兄貴は、医者になるのだけは嫌だと、、言っているのに
兄貴は、、お前は医師になり、、開業を手伝え!!
嫌いな理数系を押し付けられて、、、逃げ回っていただけあって
医学部は、、落ちた。
私は、短大を勧められているだけに
兄貴は、医学部を受けるのを
いやだと言っている次男の伴奏で
同じ医学部を受ける事を許すと言った。
ただし、、、合格しても、、通学はさせない、、と言った。
「そんなんなら、、受験料がもったいないし、、、
大学を愚弄しているよ!」
その医科大学しか行きたくないという受験生も居るんだから、、
私は受けない、、、と言った。
しかし、、医者になりたくない音楽の好きな次男を
受けさせるためにも、
受けるだけは受けてほしいと、、母は言った。
活かしてもらえないのに受けるなんて、、、気が乗らなかったが
単科医科大学を、、次男と二人で受けた。
、、、この受験を受けたことで、、
4年生の大学に行っても良いという
兄貴のお許しが出た。
合格発表は、全て長男が把握していた。
日大は理工学部の合格者が住人に満たないコースで
最終応募の受験だっただけに
倍率は38倍になっていた、
面接のとき、、、
あなたの兄さんの物理を受け持ったSですが、、
あなたの兄さんは物理が良くできるので
私が書いて出版した教科書を,、、訂正されてしまいましてね、、、
あなたは、化学が得意ですね、、
ぜひ、、我が大学に来てください、、、と行ってくれました。
とても良い条件でした。
こんなに優しい先生が居るんだったらと、、、
緊張が一気にほぐれました。
大學との出会いですよね、、、
私は、、30分で通学できる御茶ノ水にある
日大の理工学部に進学した。
親友は早稲田に進学して
ゼミが面白いから、、
あなたも、、受けなおして、、
早稲田に来い!!と、、
電車で会うたびに、、早稲田のゼミの話をしていた。
父も早稲田中学から早稲田高校、、、
慈恵医科大へと進学しているし
学徒出陣から帰還できた父の弟は
28歳から早稲田に入学
理工学部を卒業しているから
私は、、近いから、、日大で満足だと言ったら、、
その友人は、、日大はね、、、
ゼミが無いでしょう??、、というのだ。
日大の理工学部に入学すると
基礎の理数系の勉強は孤独な戦いだから、、、
ゼミは関係ないというと
これからは文科系が日本のリーダーになるのだと
一年浪人しても良いから、、早稲田に来いと言う!!
内心、、、早稲田バカになった友人が、、、可愛く思えた。
思わず、、、笑い声を出して,、
「幸せだね~~~!!」と
ハイたちして別れた切り,、、。
昭和38年は、、、早慶戦のたけなわの時代でした。
日大は,、、ポンダイ、、、、
専修は、、、ピン大
農大は,、、肥桶担ぐ大根踊,、、大、、とか、、
、、、
勝手な事を行っていた。
大学名はどうでもよかった。
出来るだけ、、自立できるように
多くの学部の生徒と交流して
社会の縮図が学べれば、、、それで十分だった。
千葉大学薬学部は、受験番号125番
日大からは合格通知が来ていた。
気持が楽に受けられそうだった
受験の当日に
クルマを出してくれるはずの兄貴から
千葉大は入学できても、、、下宿になるから
今日は車は出さない!!
直前のドタキャンに会った。
一緒に受けるはずの同級生は
前日に、試験場の前の旅館にトマッテ合格した。
この時の兄貴の卑怯な妨害は
忘れることが出来ない,、、が、、
結果的には、ワツィが日大に通学するようになってから
同窓生になった妹には優しくなった気がした。
「僕は医学部、、、あんたは薬学部、、、余は満足」
(東大を落ちると、、人は小さくなるね、、
妹と争うな、、、バカやろう、、、相手を間違えている!!)
心の中で、、ぶつぶつと独り言を言って、、、
黙っていた。
男なんか、、、口も利きたくないと、、、思うのは
兄貴の、、異常な、、男尊女卑の成果もネ??
人のせいにはしたくないが、、、
戦場で8歳まで父の病院に居た兄は
戦争の被害者に近い、、
、一生懸命すぎる、、、
勝気があると
戦争後遺症だと思うと、、、
一度は腹が立つのだが
どこかで,、、同情して、、
仕方がないと、、大きく受け止めている。
負けられません、、、勝つまでは、、、
そういう時代を
多感な8歳の兄は
戦場と隣り合わせの病院で
過ごしたのだから、、、
ナーバスな神経に
勝ってくるぞと勇ましく、、、
つぶやきながら、、
震えながら、、、
頑張った少年だったに違いない、、、
哀しいね、、、戦争後遺症!?
哀しいね、、、東大受験惜敗、、後遺症、、、
8歳まで、、外国に居たのだから、、
国語だけでも、、、
東大落ちても、、、当たり前で、、、
負けた感を持たなくても
この国語じゃ、、やっぱりだめか!?
そのくらいの気持で良いと、、、女性の私なら
こだわらないと思いますね、
男は、、、闘うね!、、一生戦うね!、、、
男尊女卑は、、、
日本が大金持ちになれば、、、
治るかもしれないね
武力の競争社会が無くなれば、、、
心も豊かになるかもしれない
戦争は、、、人間の心を貧乏にしてしまう。
勝ち負けのこだわり、、、
負けを
飲み込み
大きくなる事が
下手になるようだ。
学ぶ心の余裕をなくし、、、勝に走る心が育つよね、、、
こんな、、、どうでもいいような考えの妹を
統制しようという兄貴は
父が死んでしまった後も続いた。
日本の男尊女卑は、、、根っこが深いと、、、思った。
大学の授業の生薬学で
「シェークスピア薬品考」という本を図書館で見つけ、
読んだ。、、、
クスリの文化史、、
ディオスコリデス植物集
世界を変えた薬用植物、、、
大上段に「薬学」と構えないで、、気楽に読むと面白い。
これらの中でも、、
マンドラゴラという、、、
キチガイなすびと異名のある植物がある
男尊女卑という、、、
「小さなトマト」が赤くならないので
根っこを掘って、、
植え替えようとしたら、、、
根っこが、、
人間よりも大きくて、、、
掘り起こせなかったという
植物である、
私は実物を、、パリ大学の薬草園で観た。
写真もとって来た、
何処にも発表しなかった。
発表したくない植物だった。
昭和38年頃の高校生活~大学生の頃の日記です・
家庭内の気が付かない孤立と
気が付かない、、
虐めに近い、、、
ダメダメダメ、、の拒否の壁!
戦争で、
ぞん底の気持を味わった
母の せいだとは、、、
これっぽちも思っていません。
心理描写で、、、
弱者になった心の貧乏の体験が
勝気な人間に豹変してゆくという、、、
心の貧乏の,、
後遺症を考えると
戦争が終わってからの
心のケアが、、、
大切な課題となるほど
見えない分野で、、、虐めとか、、、
放置するとか、、、意地悪とか、、、の
虐めの原因の心の点火薬は、、戦争被害からくる
敗北感が
点火薬になっているのではなかろうかと、、、
戦地真っただ中で、、 子供を3人無くした母と、
子供を殺して死のうと思ったという、、、
半狂乱の母を支えた長男の
戦争体験を思うと、、、
一家の中には、、、「虐められっ子」の存在が、、
大きな、、
キーマンになっているという考えが
私にはあった。
プロ級の、、
差別に反応しない心を養い
基本的人権の、、、
存在の権利があれば良い、、、と
人とのかかわりを求めなければ
全てがスムースにゆく事も体験した。
小姑根性になるのは、、
御法度である。
人に「愛を求めるのも、、、
御法度である。」
戦争を体験した戦争の被害を受けた
それが原因で生ずる、
、、「貧乏な心」は、、、
人を支配して、、、
自分の存在を感じようとする、、、
お化けであると思った。
他人に、、、自分を認めさせないと
アイデンティティが、、無いというのか??
人の物を奪う事で、、、
自分の存在と自己満足の勝利感に酔う
戦争にかかわって、、
ありえない被害や、、
ありえない体験をさせられた人の心は
得体のしれない、、
ラックホールが
出来ているのかもしれない。
まさに、、プーチンさんは
小さな家庭の、、
それぞれの生き残りの中に
大きなヒントがあるのではなかろうか??
国が貧乏になれば,、、
ファショが、、生れる。
欲張りな侵略戦争になる、、、
経済封鎖で、、、ロシアを追い詰めるのは
両刃の剣かもしれない、、、が
自分しか見えない精神状態のプーチンさんは
恐ろしい存在である。
医寮しか、、、彼を救えないのではなかろうか???
難しい問題はさておき
戦争から生き残った母の心理から、
ウクライナから、、、
避難してきたみなさんの
、
受け入れた皆さんの心を
どのように癒していけばよいのか???
ブラックホールを抱えた心を
日本のサポートは、、、
どのように動いてゆくのだろうか??
他人事とは思えない「北海道に住みながら、、、」
「戦争が起きてしまったら、、、
おしまいだと、、、思っている。」
戦争は「幸せから…ぞん底に...人を突き飛ばす」
戦争体験をした母の孤独との戦いを
娘から見た視点で
日記に書いておきます。
********************
台所で、
昨日の12時までの食器を
ミルトンと同じ濃度の
次亜塩素酸の入った
クエン酸液につけておいた
除菌の済んだことにしている食器を
レベル2の微温湯で液を洗い流し
食器かごに入れて自然乾燥させてゆく。
昨日の湯上りのシャツや、
下着類、モモヒキなど
100度のお湯をかけて、
洗濯機の蓋をして20分後
よく洗うスイッチにして、
自動洗濯機のスイッチオン!
連休中は
朝食のサラダは
主人の出番!!!
クク、、ク、、、子供心満杯のデザインサラダ
自然の味そのまま、、、
シェフには、、、絶対に、、つくれないでしょうね!!
ありがとう(^^
連休って感じがするわ!!
夜中も昼も無い、、、アトランダムに、、
体力任せのスケジュールですが
何故か、、、・??私は独身時代から夜型で、
短時間爆睡型で、、、
家族からは、、、
「いつ寝ているの? 」
学生時代から、
夜更かしの
ながら族だった。
深夜の味麻番組が大好きで
かけっぱなしで、、、朝が来る
明治生まれの父母の時代は
今のウクライナのような
東京全土、、、焼夷弾で廃墟になった時代だけに
防空壕で生まれた私は
栄養失調で,、、泣きだすことが無かったそうです、
泣いた赤ちゃんは
味方の手で、口をふさがれ
生き残れなかった時代です。
栄養失調は中学3年ぐらいまで続き
貧血で、、どこでもぶっ倒れて
そのまま寝ていたことを思い出します。
日本は、、日本の
独特の文化と歴史の長い、、島国という
天然の要塞に囲まれた立地条件だった事の
良い面悪い面が、、交錯して
今日に至っていると
学校では習った、、、モノだった。
学校は先生方の創る教育指針で生徒を導くので
先生の言うとおりに「正解」が有った。
しかし、、人生には「正解」などは存在しない。
運と金の力、自然の条件
資源があるとか、、海があるとか、、、
たたき上げの伝統の技術が受け継がれているとか、、、
教育でも、政治でも
受け継がれてゆく家系が、、、見えない期待を背負って
長男に引き継がれてゆく、、、長かった封建時代
人間100年、、、一台では到底できないような
伝統芸、、伝統工芸、、伝統食品
伝統のお家の隠し技
見えない実力を秘めていた
日本という国
決して表面には
もてはやされることはないが、、、
地面の下から、、
日本人の未来を支えてきた、、、
何かが,、、ある。
パソコンでも、スマホでもつたえられない
手ごたえや、、感覚の中に
宇宙行きのドローンのネジを創っている。
ロボットにさえ、、命を吹き込む日本の伝統芸が
不可能を可能にするかもしれない。
その秘めたる、、、精神の杜だった日本列島は
太平洋戦争で、、破壊された。
戦争は、、、破壊しかない。
名人も、、名選手も、、
沢村投手も
戦場の露となった、、、恐ろしい破壊のエネルギー!
我が家は、、今でも、、
どこかに、、千人針や奉公袋を置いてあるはず、、
何処に仕舞ったか?間違って、親類の誰かに託したか?
78歳になるまで、、
良いと思うモノ、
未来に参考に残してもらえそうなものから
事ある毎に
あげてしまった。
でも、、、戦前の日の丸の旗、、
神社の寄せ書きでうまった、、、祈りの旗は
何処にしまってしまったのか?
想い出せない。
歳をとることは、、自覚無しに
多くの事がめんどくさくなって
手抜きする。
家族が、あちこち動かしたりすると
爪きり一つ見つからない、、、。
引き出しの置き場から、、棚に移っただけなのに
一日探しても見つからない、、、。
緊張を欠くづ脳になってくれているおかげで
連日の、、、戦争の報道で
パニックにならずに済んでいる。
ウクライナとロシア
アメリカと、、中国、、台湾、、北朝鮮
連日の報道で
足が浮くという漢字はしているが、、、
私自身、、世界史の試験は「5点」しか取れなかったという
世界音痴で、、社会音痴で、、政治音痴、、
NHKの「プレミア番組で、、、
プーチンさんの、、
人柄と、来し方の行動実績を見た時
そうなんだ、、、!と肝をつぶす、」
いかに、、専門のこと以外は、、幼稚園の知識で
この年まで、、生きてきてしまった事か???
若い人の話題には、、ついて行けない。
時代に乗れない日々の中で
世界戦争がはじまったら、、、もう、、終わりだと思ったりする、
日本は島国だから、、巻き込まれないように
終戦に向かうお手伝いをするしかないと思う、、、
太平洋戦争が終わる一年前から、、、、13年,、、、間!
南紀の山奥には、、、電気が無くて
ランプに火をともして
青竹の洗い場で、お風呂に入った。
竹藪の中のような香りのする、、、檜のお風呂、、、
何処にもない、、最高の贅沢な、、疎開地のお風呂だった。
アメリカから帰国した祖父は
私が物心ついたころには
疎開地の村長さんをしていた。
、
疎開地に電気を弾くダムの建設の時代
娘婿の、外科医を、終戦まじかの戦場から迎えて
村の診療所に連れてきた。
無医村の外科医として
日夜働いた父は、、、
戦場の軍医として、戦場に行くトラックを待っていたという。
いつまで、、待っても、、トラックは現れなくて
病院に還ると
日本から、祖父が、娘夫婦の家族を迎えに来ていたという。
戦場へのトラックが来ないわけである、、、
日本は国内への報道とは違って
行くはずの戦場はすでに、、、玉砕していたのだった。
最後の連絡船に間に合うように
祖父は、我が身を捨てて、、戦場近くの病院まで
娘夫婦の家族を引き取りに来たのだった。
祖父の、、、信じられない捨て身の救済で
帰国できた父と母、、、
終戦間際で疎開してくる人々で
人数が急に膨らんだ山村の診療所で
復興に向かう国のダム計画に沿って
診療所では
ダム工事で怪我した工夫が連日
包帯だらけになって、
松葉杖で歩き。幼い私は、
待合室の本を膝に於いて
怪我人の、治癒してゆくまでの様子を、、見ていた。
アメリカに勝てるわけはなかった、、、
山村には、、電気が無かった!!
駅も、、電車も無い、、、一日1本のバスだけの村が
一日2本のバスになった。
夕方のバスに乗ると
運転手さんの叔父さんが、、、お酒を飲んで
ご機嫌だった!!
道幅の方が、、バスより狭い所もある、、
南紀の山道を
ほろ酔いで、、ご機嫌の運転手さんお叔父さんは
バスのおケツを、、谷底の方にはみ出させながら
ぎりぎりの山道を、
器用に運転するのだった、、、
しかも、、お酒でご機嫌でした。
毎度のことなので、、誰も何にも云わなかった。
運転手の神様だから、、
お酒を飲んでも大丈夫だったのかもしてないが
今なら、、ありえない、、光景でしたね。
家族も親戚も、、戦争で死んで、、、
今更、、どうにでもならない、、この命、、、
死なばもろとも、、よう、、駅まで乗せてくれ、、、
乗り込むお客も,、、酔っぱらい、、、。
不思議とバスは事故ることも無く、、
父の診療所に運ばれてくるのは
ダム建設の資材を運ぶ、、、街からの運搬車が
がけから転落して、
顔面が割れて、、白骨が見えているのに
生きている人だとか、、、
父は「顔面だから、糸で縫わないようにして
バンソコウに似たテープではりあわせ「
ところどころ
縫った顔の筋肉以外は
包帯で巻かれ、、、透明人間のようになっていた。
一か月も経たないうちに、
顔面には、線を残しただけで
フランケンシュタインのようにはならないで
創口は、、きれいにふさがっていた。
患者さんは、、喜んでいました。
私は、、村に医者が居なかったら
あの、、骸骨の見えるまで
顔の肉が剥がれた顔は
どうなったのだろうと、、考えると
戦場で、、怪我をした兵隊さんの苦しみが
戦争の罪でもあると、、、子供の頃は真剣に思った。
即死する人は、、苦しまないが、、、
生き地獄の兵隊さんの苦しみを思う時、
地球を汚さない、、苦しませない戦争なんてありえない。
戦争はすぐに中止すべきだと思いました。
人道的な事だけを考えても
戦争は殺人であり、、破壊であり、、地球汚染の
最低の、、手段だと思います。
日本も大勢の政治家が、、、ロシヤ入りを断られていますが
オンラインで、、話し合えばいいと思います。
戦場も、ウクライナの国土の中でしないようにして
オンラインの、知的な 画面戦争で
勝敗を決めればよいではないですか!
ほんものの市街地を廃墟にする必要が
ないはずですよね。
ウクライナで、、知的な幸船日々を過ごしていた市民の
思い出野¥のともなった街を
これ以上破壊することはないのではないか!、、
終戦に導いてください。
他人事とは思えません。
かって、、マッカーサーから12歳だと言われた日本人の
血気にはやって、、軍隊の一部の人間が
短期決戦で、、、勝負が付くと思った、、戦争だったらしい。
現代は「情報戦争と行っても良いかもしれない。」
window8,1を使っている私は
戦う前の段階まで行かないで、、、没します。
ハッカーが、、雲の上の「アメリカの飛行機の連帯を
あぶりだせるかという
キータッチ一つの差で、、勝負は決まりそうですね、、、
若者のスマホの使いか方を見ていると
ニッポンの未来は、、若者の教育にかかて居そうですね
学校で、机に座って教えるのではなくて
会社そのものが、学校のように
一年生から六年生のように
仕事の内容を難しくして順序づけて
6年で終わると、、次の3年、、、、とまた3年と
稀有なる情報も、稀有なる技術も判断も成長する会社にして
他国では育たないスペシャリストが育つという
教育システムを、、知識から、、熟練へと移行させるシステムにして
世界の追従を許さない、、、仕事のできる国民にして
財産は{腕}一本で、貯金は要らないという
教育の一環として
定年まで進歩し続ける、、、情報システムの会社にするとか、、、
考え直さないと、、、
試験は100点だけど、、、能無しの口ばかりの人間では
もう、、ごまかしがきかない時代に突入、、、て
そんなかんじしません?????
あくまで、、、78歳が目の前の婆ちゃんの
時代を振り返る、、、思い付きですけどね、、、!
核戦争。。。起きてしまったら。。。。おしまいです!!
太平洋戦争の焼夷弾の雨の中を
廃墟になった実家のある東京は
破壊されていました。
日本を復興するのは、
これからの若者の教育だと、、
万難を排して、、全てを疎開地に残して
子供らの教育の事だけの為に
背水の陣の「東京下町、、開業」という
stressを乗り越えて、、
生まれ故郷の東京に帰ってくれました。
鮭が,、故郷の川に還るのは、、、何故・・・??
東京都言っても、、、もとの実家のあるあたりには
巨大なホテルが建ち
公の機関の高層ビルが立ち並び
実家のあった文人ドーロは、、、昔を残すのは、、、
道路わきの石積みぐらいだろうか??
戦争で破壊された故郷は
他人の街のように、、、観ならないビルで
とり付くしまもない。。。見知らに街に生まれ変わる。
それでも父は東京に、、帰還した。
3人の戦争からの生き残りと、、
戦後っこの弟には
日本復活の使命が、、かかっていた、、、
団塊の世代である。
目指せ、、、新しい日本!!
アメリカに追いつき追い越せ!!
戦後の父母の人生は
日本の復興に、、
のり遅れないようにと
子供達や
親戚一同の子供達
大學に進学したが、、
下宿代に困る学生など
2000円で、部屋を提供して
大勢の食事時には
早い者勝ちの速さで、、
テーブルは、、空の皿ばかり並んだ。
子供達の教育に、、、
収入の120パーセントつぎ込んでくれたと思っています。
我が家の白黒テレビの部屋は
教室のように、、
近所のおじさんや少年や その兄弟友人で
人で一杯だった。
プロレスや、相撲の時は
近所のおっさんで、、
奇声が絶えない
うるささだった。
我が家は、、
我が家でありながら、、、
私の居場所は無かった。
私は、、ほとんど図書館に居た。
家に帰ってくると、、、
母のピアノの音がしていた。
ムーンライトの第三楽章とか、、
不安タージアンプロンプチュウ、、とか
ショパンとか、、、
ヴァㇽトシュタイン、、
ときには、、
リストの曲、、、
受験勉強どころではありませんでした。
母は、、近所からも苦情を言われて
完全防音室に、、自分で買ったグランドピアノと
アップライトピアノの、、2台、、
母専用のスペースが60坪ほどの別棟に隔離して
刑務所の塀とまで,、、行かなくても
外に音が逃げ出さ荷様に、、、
田尾会ブロック塀で囲みました。
別棟の家族の棟には
居候やら、、、学生やら、、、職員やら
中卒のぶとった、台所見習いのような
陽気な女中さんが、
私たち姉弟を
お兄さん、、お姉さん、、、と呼びながら
家族の一員のようにして、、
家じゅうを、、どこにでも出入りして
無口な大人たちの間を飛び回るのでした。
その他にも...曜日を決めて
東京大学の学生が、
英語の家庭教師として
自分の家のように
家族のように、、
何年もいらしていた。
家庭教師などをしなくても良いような
大金持ちの坊ちゃんだったけれど
母は、、、英語を習うというのも、
目的の一つだけれど
疎開地で
小学校高学年まで
田舎の井戸の
カエルのようだった
田舎っぺの我が子に
中学まで田舎に居た長男の為に
東京の住人の
代表になるだろう
「東大生」を
家庭教師として迎え
男の子だけを、、、
特訓教育し始めた。
英語で将棋を教わったり
英語でマージャンを教わったり
一日英語だけで銀座に出たり、、、
ユニークな家庭教師だった。
笑い声がソプラノで
私は先生の事を
「ケタケタさん」と呼んだ。
今でも、、本名は思い出せない。
田舎っぺの我ら姉妹の
傍に来てもらう事で
井戸の中の蛙のように
田舎のエリート並みに、
勉強のできた3兄弟の
身の程をわきまえるのには
家庭教師の、
当たり前の日常が
身近にあることで
田舎っぺの、、、
思い上がりが均されて。
田舎と、
東京のエリートの考えが
ミックスして
母が、思うような意気地が出来ると
母が思った通りの
人材配置だったと
私なりに、、、
男兄弟の家庭教師の為の
カレーライスづくりを担当していた。
その家庭教師は、、
消防署長さんの長男で
東大卒業後は、「丸紅」とかいう
大きな会社に勤めて
勤務後も、、、時々来ていたのをおぼえているが
得意の英語を駆使して、
外国相手の第一線に抜擢されたのか???
いつ居なくなったのか覚えてない、、が??
カレー作りから解放され、、、
私的には「ほ!ホ!と」
一息入れて以来、、、
当時の男の子と
女の子の、
受験に対する待遇は
男女差別としか言いようのない、、、j時代であった。
私は、家庭教師に、世話になる事は無かったが
学校からは、「御茶大付属高校」ゕ
教育大付属高校を受験するようにと
先生は願書を下さった。
日大の医学部に入学していた8歳上の長男が
「これから、大学に行く男がまだ2人居るんだから」
「毎日毎日、、東京横断の電車賃を使うような事は許さん!!」
「女は、やがて出てゆくのだから
大學も、、短大にしろ!!」
ミカン箱いっぱいの、、、短大の願書や
短大につながった、、、エスカレーターの
高校の願書を持って来て
学生結婚した自分の奥さんの短大を
強硬に進めてきた。
まだ式も上げていない学生結婚の奥さんが
兄貴にとっては、、「守らねばならない、、、家族」だった。
お姉さん、、と呼んでいたら
「お姉さま、、、と呼べ!」と命令であった。
お姉さまは「床の間の花だから、、、仕事をさせてはならない。」
「兄貴の命令した仕事だけを、、してもらう事にしているから、、」
「週に一度、生け花教室、、大関早苗さんとかいう、、美容化のもとに、、、
日曜は、、芝のゴルフクラブに、、、
たった一度の手作りの食事も、、戴かないまま
喧嘩もしないで、、
すれ違う時は、立ち止まって道を譲り
話し合う事もないまま、、、喧嘩さえしないで
兄貴家族とは別れて、、
私は、気が付くと、、、北海道に住んでいました。
兄貴夫婦とはいさかいは起こさなかったが
私への「愛」は感じなかったので
居なくなったのも気が付かないように
やがては、、家を別にして
母を見なくてはならなくなると
私なりに考えていた。
兄貴には、、しばしば、、、
でんぐり返るほど、、腹が立つことがあった。
大切に収集していた
「砂漠の魔王」
「カバヤ文庫全集」
、、これはキャラメルを買って
一生懸命、、キャラメルを食べながら
友だちにキャラメルを配りながら
集めた、私的には,、秘蔵の本の全集だった。
ある日帰ると、、、自分の部屋も本も無くなっていた。
私の部屋は没収して
お嫁さんお部屋になっていた。
本屋備品は、、、無分別のまま
兄貴が必要と感じた、、受験の参考書と教科書だけが残っていた。
クルマのトランクに積んで、
古本屋に売ってしまったというのだった。
戦争中戦地で過ごした、、、昭和10年代の男たちは
叩く事だけを指導された時代だから、、、
話しても、、解らない、、、解ってくれない
男尊女卑がすごい所があった。
兄貴に従って、、都立高校で
130円のバス代で行ける
小松川高校に
進学した。
荒川が流れていて、、気さくな学友は、、皆素敵だった。
本が好きで、、付き合いの悪い私の事を
バレー部のキャプテンのYサンが、
「あんたを見てると、、イライラするんよ!!
少しは皆と、、フオ~クダンスに行ったり
休み時間に、、付き合わんのよ^^^
イライラするんよ、、、椅子の上のキノコみたいで!」
それから、私は、登山や、ボート漕ぎに参加し始めた。
放送部の早朝放送にも機械を回しに参加した。
美術部に入って、三人で合作の100号の作品も作った。
2年生になると、
「科学部」に入って、
写真を自分で焼き付けたりした。
学際には
全紙の大きさに引き伸ばした写真を提出。
「祭りの女の子を撮影した写真」も
廊下に貼って、盛り上がったりした。
二番目の
兄たちは浪人してしまい
理数系の
熊本大学に在学中の学生が
夏休み、冬休みに来るようになった。
その学生は、、、
バンカラな方で
「でっかいおにぎり」の中に、
「牛肉の炒めたもの」を入れて
江戸名物の糊でくるんだもので、、
喜んでくれた。
そのころ、、、初めてのラブレターをもらった。
付き合ってくれと、、言われた。
男の兄妹だけで、、
うんざりしていた私は、、
男の子に、、全く興味が無かった。
友だちとしての学友の男の子は
性を意識するところまでは、、とても行かなかった。
ヒットラーのような考え方の男の子だっていたし
社会党のような男の子もいた。
浅沼さんが、、、青天の霹靂の、、結果の事件が起きた。
まさに、、、、青天の霹靂だった。
これからの社会党には、必要な議員さんだったと
クラスはざわついた。
卒業生には「山口シズエ」さんという
衆議院が居る高校だけに、
エスぺラン語を話して
海外協力に夢を燃やす友人もいた。
外語を受験するという友人は英語の一級が受かっていた。
私は2級は受かったが、、
それ以後、、南海受けても、、、
政治新聞の時事英語で、、落第!
女性には優秀な生徒が多かった。
私は語学だけでも、、
文系には、進まない方がよさそうだと
自覚していた。
願書は、国立の千葉大学と、
単科の医科大学に願書を出した。
2郎した兄貴は、医者になるのだけは嫌だと、、言っているのに
兄貴は、、お前は医師になり、、開業を手伝え!!
嫌いな理数系を押し付けられて、、、逃げ回っていただけあって
医学部は、、落ちた。
私は、短大を勧められているだけに
兄貴は、医学部を受けるのを
いやだと言っている次男の伴奏で
同じ医学部を受ける事を許すと言った。
ただし、、、合格しても、、通学はさせない、、と言った。
「そんなんなら、、受験料がもったいないし、、、
大学を愚弄しているよ!」
その医科大学しか行きたくないという受験生も居るんだから、、
私は受けない、、、と言った。
しかし、、医者になりたくない音楽の好きな次男を
受けさせるためにも、
受けるだけは受けてほしいと、、母は言った。
活かしてもらえないのに受けるなんて、、、気が乗らなかったが
単科医科大学を、、次男と二人で受けた。
、、、この受験を受けたことで、、
4年生の大学に行っても良いという
兄貴のお許しが出た。
合格発表は、全て長男が把握していた。
日大は理工学部の合格者が住人に満たないコースで
最終応募の受験だっただけに
倍率は38倍になっていた、
面接のとき、、、
あなたの兄さんの物理を受け持ったSですが、、
あなたの兄さんは物理が良くできるので
私が書いて出版した教科書を,、、訂正されてしまいましてね、、、
あなたは、化学が得意ですね、、
ぜひ、、我が大学に来てください、、、と行ってくれました。
とても良い条件でした。
こんなに優しい先生が居るんだったらと、、、
緊張が一気にほぐれました。
大學との出会いですよね、、、
私は、、30分で通学できる御茶ノ水にある
日大の理工学部に進学した。
親友は早稲田に進学して
ゼミが面白いから、、
あなたも、、受けなおして、、
早稲田に来い!!と、、
電車で会うたびに、、早稲田のゼミの話をしていた。
父も早稲田中学から早稲田高校、、、
慈恵医科大へと進学しているし
学徒出陣から帰還できた父の弟は
28歳から早稲田に入学
理工学部を卒業しているから
私は、、近いから、、日大で満足だと言ったら、、
その友人は、、日大はね、、、
ゼミが無いでしょう??、、というのだ。
日大の理工学部に入学すると
基礎の理数系の勉強は孤独な戦いだから、、、
ゼミは関係ないというと
これからは文科系が日本のリーダーになるのだと
一年浪人しても良いから、、早稲田に来いと言う!!
内心、、、早稲田バカになった友人が、、、可愛く思えた。
思わず、、、笑い声を出して,、
「幸せだね~~~!!」と
ハイたちして別れた切り,、、。
昭和38年は、、、早慶戦のたけなわの時代でした。
日大は,、、ポンダイ、、、、
専修は、、、ピン大
農大は,、、肥桶担ぐ大根踊,、、大、、とか、、
、、、
勝手な事を行っていた。
大学名はどうでもよかった。
出来るだけ、、自立できるように
多くの学部の生徒と交流して
社会の縮図が学べれば、、、それで十分だった。
千葉大学薬学部は、受験番号125番
日大からは合格通知が来ていた。
気持が楽に受けられそうだった
受験の当日に
クルマを出してくれるはずの兄貴から
千葉大は入学できても、、、下宿になるから
今日は車は出さない!!
直前のドタキャンに会った。
一緒に受けるはずの同級生は
前日に、試験場の前の旅館にトマッテ合格した。
この時の兄貴の卑怯な妨害は
忘れることが出来ない,、、が、、
結果的には、ワツィが日大に通学するようになってから
同窓生になった妹には優しくなった気がした。
「僕は医学部、、、あんたは薬学部、、、余は満足」
(東大を落ちると、、人は小さくなるね、、
妹と争うな、、、バカやろう、、、相手を間違えている!!)
心の中で、、ぶつぶつと独り言を言って、、、
黙っていた。
男なんか、、、口も利きたくないと、、、思うのは
兄貴の、、異常な、、男尊女卑の成果もネ??
人のせいにはしたくないが、、、
戦場で8歳まで父の病院に居た兄は
戦争の被害者に近い、、
、一生懸命すぎる、、、
勝気があると
戦争後遺症だと思うと、、、
一度は腹が立つのだが
どこかで,、、同情して、、
仕方がないと、、大きく受け止めている。
負けられません、、、勝つまでは、、、
そういう時代を
多感な8歳の兄は
戦場と隣り合わせの病院で
過ごしたのだから、、、
ナーバスな神経に
勝ってくるぞと勇ましく、、、
つぶやきながら、、
震えながら、、、
頑張った少年だったに違いない、、、
哀しいね、、、戦争後遺症!?
哀しいね、、、東大受験惜敗、、後遺症、、、
8歳まで、、外国に居たのだから、、
国語だけでも、、、
東大落ちても、、、当たり前で、、、
負けた感を持たなくても
この国語じゃ、、やっぱりだめか!?
そのくらいの気持で良いと、、、女性の私なら
こだわらないと思いますね、
男は、、、闘うね!、、一生戦うね!、、、
男尊女卑は、、、
日本が大金持ちになれば、、、
治るかもしれないね
武力の競争社会が無くなれば、、、
心も豊かになるかもしれない
戦争は、、、人間の心を貧乏にしてしまう。
勝ち負けのこだわり、、、
負けを
飲み込み
大きくなる事が
下手になるようだ。
学ぶ心の余裕をなくし、、、勝に走る心が育つよね、、、
こんな、、、どうでもいいような考えの妹を
統制しようという兄貴は
父が死んでしまった後も続いた。
日本の男尊女卑は、、、根っこが深いと、、、思った。
大学の授業の生薬学で
「シェークスピア薬品考」という本を図書館で見つけ、
読んだ。、、、
クスリの文化史、、
ディオスコリデス植物集
世界を変えた薬用植物、、、
大上段に「薬学」と構えないで、、気楽に読むと面白い。
これらの中でも、、
マンドラゴラという、、、
キチガイなすびと異名のある植物がある
男尊女卑という、、、
「小さなトマト」が赤くならないので
根っこを掘って、、
植え替えようとしたら、、、
根っこが、、
人間よりも大きくて、、、
掘り起こせなかったという
植物である、
私は実物を、、パリ大学の薬草園で観た。
写真もとって来た、
何処にも発表しなかった。
発表したくない植物だった。
昭和38年頃の高校生活~大学生の頃の日記です・
家庭内の気が付かない孤立と
気が付かない、、
虐めに近い、、、
ダメダメダメ、、の拒否の壁!
戦争で、
ぞん底の気持を味わった
母の せいだとは、、、
これっぽちも思っていません。
心理描写で、、、
弱者になった心の貧乏の体験が
勝気な人間に豹変してゆくという、、、
心の貧乏の,、
後遺症を考えると
戦争が終わってからの
心のケアが、、、
大切な課題となるほど
見えない分野で、、、虐めとか、、、
放置するとか、、、意地悪とか、、、の
虐めの原因の心の点火薬は、、戦争被害からくる
敗北感が
点火薬になっているのではなかろうかと、、、
戦地真っただ中で、、 子供を3人無くした母と、
子供を殺して死のうと思ったという、、、
半狂乱の母を支えた長男の
戦争体験を思うと、、、
一家の中には、、、「虐められっ子」の存在が、、
大きな、、
キーマンになっているという考えが
私にはあった。
プロ級の、、
差別に反応しない心を養い
基本的人権の、、、
存在の権利があれば良い、、、と
人とのかかわりを求めなければ
全てがスムースにゆく事も体験した。
小姑根性になるのは、、
御法度である。
人に「愛を求めるのも、、、
御法度である。」
戦争を体験した戦争の被害を受けた
それが原因で生ずる、
、、「貧乏な心」は、、、
人を支配して、、、
自分の存在を感じようとする、、、
お化けであると思った。
他人に、、、自分を認めさせないと
アイデンティティが、、無いというのか??
人の物を奪う事で、、、
自分の存在と自己満足の勝利感に酔う
戦争にかかわって、、
ありえない被害や、、
ありえない体験をさせられた人の心は
得体のしれない、、
ラックホールが
出来ているのかもしれない。
まさに、、プーチンさんは
小さな家庭の、、
それぞれの生き残りの中に
大きなヒントがあるのではなかろうか??
国が貧乏になれば,、、
ファショが、、生れる。
欲張りな侵略戦争になる、、、
経済封鎖で、、、ロシアを追い詰めるのは
両刃の剣かもしれない、、、が
自分しか見えない精神状態のプーチンさんは
恐ろしい存在である。
医寮しか、、、彼を救えないのではなかろうか???
難しい問題はさておき
戦争から生き残った母の心理から、
ウクライナから、、、
避難してきたみなさんの
、
受け入れた皆さんの心を
どのように癒していけばよいのか???
ブラックホールを抱えた心を
日本のサポートは、、、
どのように動いてゆくのだろうか??
他人事とは思えない「北海道に住みながら、、、」
「戦争が起きてしまったら、、、
おしまいだと、、、思っている。」
戦争は「幸せから…ぞん底に...人を突き飛ばす」
戦争体験をした母の孤独との戦いを
娘から見た視点で
日記に書いておきます。
********************
読後感ありがとうございました。人生は、はっきりしたものはない、混沌としている・・・、
心の宇宙を旅する、、、
子供心の視点に
気付かせられることが多いです。
人生、、いろいろ、、、
人間を軸に於いて
考えることの
新鮮な思考が、
そのまま「詩集になっているのですね。」
読ませていただいています。(^^👆
とても為になっています。