しかし、ヒョンスの両親への挨拶は失敗に終わった。ミヒの両親は、ヒョンスのことを決して認めなかった。両親にとって、自慢も娘であるミヒの将来の夫が、しがない木工所の跡継ぎであることが許せなかったのだった。かれらは、ヒョンスの心のキレイさや性格の良さを認めずに、家の敷居を2度とまたぐことを許さなかった。ミヒの目から見ても、ヒョンスの心はずたずたに傷つけられたのが分かった。それ以来、ヒョンスはミヒの前では笑わなくなってしまった。ミヒはヒョンスを慰めたかったが、同時にピアニストの夢もあきらめられなかった。ちょうどその時、オーストリアにピアノ留学する話が持ち上がった。これは大学からの推薦で、このチャンスを手に入れれば、ピアニストとしての大きなキャリアの一歩になるはずだった。ミヒはためらいながらも、後ろ髪を引かれる思いでウィーンに旅立っていった。
こうして二人は少しづつ心も離れていくのだった。ミヒはヒョンスに何度も手紙を書いたり電話をしたりしたが、次第にヒョンスからの連絡は途絶えがちになっていった。二人にとって長い長い1年が過ぎた後、ミヒは韓国に帰国した。そのころのミヒはウィーンでさらに実績を上げており、大学を卒業後はNYの大学院に進まないかと打診されていた。ミヒは久しぶりに春川でヒョンスに会うことになった。
ミヒはいつも行っていた教会でヒョンスと会うことになった。ミヒはその日のことを昨日のように覚えている。ヒョンスと初めて出会った日よりも鮮明に。その日はまぶしいほど暑いの夏の日で、教会のステンドグラスにから木漏れ日が降り注ぎ、ヒョンスの顔を青く染めていた。教会ではパイプオルガンの練習の最中で、背後にずっと『主よ人の望みの喜びよ』のメロディが流れ続けていた。久しぶりに見たヒョンスは穏やかな表情の中にも、精悍な顔つきの青年になっていた。柔和な目の奥に、これまで見たことのない強い光を見た。ヒョンスは静かな声でミヒに別れを告げた。申し訳ない、と何度も詫びながら『好きな人ができた』とはっきりと告げた。『その人を守りたい』とも言った。ミヒはそんなことを言うヒョンスの顔を、心が凍る思いで見つめていた。あろうことか最後にヒョンスはぽつりとつぶやいた。『本当は初めて会ったときに聴いた月光のソナタは好きではない。今流れている曲のように、神や家族に祝福された結婚がしたいのだ』と。ミヒはそれ以来大好きだった『月光のソナタ』も最悪の場面で流れていた『主よ人の望みの喜びよ』も大嫌いになり、2度と弾かなくなったのだった。
月光のソナタ
主よ人の望みの喜びよ
そのあと、ミヒはヒョンスと、ヒョンスが愛しているという女と一度だけ会った。それはミヒがどうしてもと熱望したからであった。彼女はその女にあって自分にないものを知りたかったのだ。『君が悪いわけではない。僕が心変わりしただけだ。』と繰り返す彼の言葉に、どうしても納得いかなかったのだ。自分が捨てられた理由を知りたかった。ヒョンスは渋々ながらもミヒの要望を聞き入れた。しかし、二人と会ったミヒはさらに納得がいかなくなってしまった。相手のギョンヒは平凡そのもので、美人でもなく、金持ちでもなかった。何の才能もないし、その他大勢に埋もれてしまうような、そんなつまらない女だったのだ。ミヒは何でも特別な自分が、そんな女に負けたことに納得がいかず、ギョンヒをそしてヒョンスを恨んだ。ミヒはわめきもせず罵倒もしなかったが、ただ二人を殺しそうな目でにらみつけ、そして憎んだ。決して許さなかった。憎しみの芽はあの日教会で生まれ、長い長い間かけて育ち、やがてミヒと言う人間を覆いつくしていった。ミヒは憎しみをエネルギーに変えて、ピアニストとしては成功を収めることが出来た。時は流れ、ミヒは一流のピアニストとして韓国に凱旋帰国したのだった。その時、ミヒの隣にはミヒによく似た孤独な目をした少年がいたのだった。