切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

大雲寺・・・極楽への旅立ち    京都市下京区     2025.1.19 訪問

2025-01-27 22:34:06 | 撮影
 

 西大路七条の交差点から南西の方向にある。周囲は住宅密集地で、その中にあるお寺は 比較的分かりやすい。大雲寺の創建や由緒等のことについては情報がなく不明だ。やや小さめの山門をくぐり境内に入ると、かなり細長くまた思いのほか広い境内となっている。植物があちこち植えられており、季節によっては綺麗な花なども咲く状態になるだろう。

  少し進むと祠があり中には数体の石地蔵が並んでいる。さらに進むと本堂と結ぶ渡り廊下があった。このような建物は仏教寺院にはたまに見られるが、大半は中規模から大規模なお寺となる。比較的小さなお寺では非常に珍しいと言える。渡り廊下の反対側には巨木がたち、そこにはひょっとしてかつて池があったのかもしれない。普段は訪れる人が少ないであろうが、池なども見られるとすれば一つの名所になった可能性がある。

 

 大雲寺という名前のお寺は京都市内に3箇所ほどあるが、他の 2箇所は比較的有名なお寺であり、また重要文化財を有するお寺もある。こちらの方はその点、全く不明だ。浄土宗のお寺であり本尊は阿弥陀如来となる。

 ところでこのお寺のように「雲」という文字がつくお寺は比較的多い。仏教において雲というのは、やはりそれ相応の意味があるものだ。仏像でもあるいは絵画に描かれた阿弥陀如来でも、雲に乗って空を飛んでいるような場面が比較的よく見られる。本来は人が臨終でなくなる時に西方極楽浄土 から、阿弥陀仏が多くの菩薩などを引き連れて雲に乗ってお迎えに来るものだとされている。これは平安時代あたりから見られる信仰の形態の一つだ。そういった意味では雲というのは、人々の最後の場面で優しくお迎えに来られて、安らかに極楽へ旅立つ。心も穏やかで安心感のある姿として人々の信仰を集めた。直接菩薩などに雲の名前がつけられたものもあり、特に有名なものが宇治市の平等院にある「運中供養菩薩」であり、一体一体が全て雲に乗りお迎えに来る様子を表している。50体以上あるが全て一つ一つが国宝に指定されている。

 

 従って大雲寺という名前は、どんな人でも臨終を迎えた時に大きな雲に乗って安心して 西方極楽へ旅立って行けるように願う思いが込められた名前となっているんだろうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

延仁寺・・・親鸞聖人荼毘所       京都市東山区   2025.1.18 訪問

2025-01-26 22:48:59 | 撮影


『親鸞聖人荼毘所(延仁寺)
  真宗大谷派(東本願寺)宗史蹟第4号2011(平成23)年1月19日指定

 『惠信尼消息』や 『御伝鈔(本願寺聖人伝絵)』によると、親鸞聖人は1262(弘長2)年11月28日に90歳で亡くなられました。最後を看取った末娘の覚信尼や子息の益方(道性)および門弟たちが葬儀を執り行い、東山の延仁寺で荼毘に付されました。
 古代から中世にかけての延仁寺一帯の鳥辺野は洛中の葬場でありましたが、応仁の乱以後は次第に荒廃していきます。
 その後、幾つかの候補地の中から延仁寺の旧地に関する考証が進められ、現在地であったとの結論が出されました。1865 (慶応元)年に「西光寺」として再興され、 1883(明治16) 年には東本願寺第21代嚴如上人によって「延仁寺」と改称されました。また、六角形の石垣で囲まれた礼拝所を備えた茶毘所が設けられ「見真大師荼毘所」の石碑が建てられています。
  真宗大谷派(東本願寺)
  宗宝宗史蹟保存会』  (説明板より)

  

 延仁寺は東大路今熊野の交差点の東側の道をずっと登って、 小高い山の中腹にある。道は細く車の交換は場所によっては極めて難しい。軽自動車が望ましい。ちょうどお寺の駐車場があり、向かい側に延仁寺がある。
 創建の詳細については詳しいことは分かっていないが、平安時代の僧である最澄によって 開基されたという。当時は別の名前だった。これからすると寺の大元は、平安時代の創建ということになる。かなり長い歴史を持つ由緒のあるお寺だ。最澄が開いたということで当初は天台宗のお寺ということになるが、ずっと後に真宗大谷派のお寺となり、今に至る。従って本尊は阿弥陀如来となる。

   

 この辺りの土地は「鳥野辺」と言って、すでに平安時代には葬送の土地であり、多くの人々がここで荼毘に付された。平安時代が終わり鎌倉時代になると、いわゆる「鎌倉仏教」と呼ばれる新興の仏教勢力が次々に現れ、 法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗、道玄の曹洞宗など、それまでの密教系の仏教が藤原氏たちとの権力に融合する実態を見て、本来の仏教の教えとは異なるということで、比較的若手の新しい僧たちが自分たちの教義を広げるために新たな仏教の宗派を開いたのだ。特に法然の浄土宗や親鸞の浄土真宗は専修念仏といい、南無阿弥陀仏と何度も唱えるだけで極楽往生すると解釈され、庶民の間に広まっていくと同時に、新興の武士たちにも広がり後には皇族にも影響を与えるようになる。 こうして親鸞の名前は各地に広まり、大きな崇敬を得ることとなった。

 この親鸞が亡くなると彼の子供たちや子弟たちが中心となり、この地で荼毘に付して石碑を建てることになった。親鸞の墓所とされる地は他にも色々と言われているが、少なくとも 火葬されたのはこの地となるというのが本願寺の主張だ。
 後にお寺は荒廃し、実質役割をなくしてしまうが後年、再建され近くにある泉涌寺の塔頭となった。明治時代になって本願寺がこの地を譲り受け、寺を正式に再興し名前も延仁寺となったという。墓地は親鸞聖人の埋葬地とされる墓を中心に大きく広がっており、かなり上の方まで登ることになる。上記のごとく親鸞聖人の葬送地は諸説あって、正式には不明な部分もあると同時に、墓所も必ずしもこことは限らないが、少なくとも本願寺としてはこの血が親鸞聖人の墓地としている。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

《 兵庫県 斎藤知事による他人ごとの闇・・・ 県職員 3人が自殺 》  2025.1.24

2025-01-24 22:45:14 | 社会


 昨年末から続く兵庫県斎藤知事によるパワハラ疑惑や、公金支出問題などに関わる一連の流れの中で、ついに3人目となる自殺者(おそらく)が出てしまった。
 
 最初は2024年3月、斉藤知事に関わっていくつかの疑惑があると文書で外部に告発した 西播磨県民局長 A 氏。
  2人目は2023年秋にプロ野球阪神タイガース 及び オリックス・ブルーウェーブの優勝祝賀パレードを神戸市内において行う際、不正な公金支出疑惑があったのではないかとされた問題で、当時の担当課長だった B 氏。
 そして今回 3人目となったのが、パワハラ等の疑惑を解明するために設けられた百条委員会の委員長であった内県会議員だ。

 斉藤知事は疑惑追及を受けて知事職を辞任し、新たな知事選挙に再出馬し当選を果たした。この時点ですでに2人の県職員が自殺をしているというのに、再び知事に返り咲いた。斉藤氏はほとんど何の言及もなく文字通り他人ごとでしかなかったようだ。彼にとってみれば最初の疑惑である部下の県職員たちに対するパワハラ問題というのはないものと考えているのだろう。根本的に部下の一般職県職員との意識の差があまりにも激しすぎる。県のトップである知事という最高職について、謂わば彼は県の「天皇」となったのだ。少なくともそういう意識を持つようになったのだろう。

 しかし 1人の知事のパワハラ疑惑において、その周辺の問題も含め、なぜ 3人もの県職員や県会議員が自殺しなければならない状態になってしまったのか。ここには県庁という巨大な城の内部に、一般人には知り得ない闇の世界があるものだと思う。
 県庁内での調査ではかなり多くの職員が、直接パワハラを受けたりその場面を見たり、あるいはまた伝えきいたりしていると回答している。知事にとって少しでも気に入らないことがあれば激怒し、長々と説教が始まる。このような事態が日常化しており、これを問題視して県庁内職員の一部が話し合い告発すべきだという方向になった。しかし事態の改善は全く見られず、ついに1人目の A 氏が「死を持って抗議する」との書き置きを残して自ら死を選んだ。
 斎藤氏自身にとってみれば、自分に対して不満を持っている職員の死などというのはまさしく好都合のものだろう。自ら死んだのだから本人の責任ということで、顔色一つ変えず 淡々と コメントをしただけだ。しかし2023年のプロ野球優勝チームの祝賀パレードの件については、かなり多くの予算支出が必要となり、当初予算において組まれていなかったものを補充するために県内にある各種企業に寄付という形で要請をしたところが、そのうちの一部はパレード後に納金されており、おかしいのではないかとの声が上がり、かつ一部の寄付金が知事部局の方へ環流したのではないかという疑惑が明らかになってくる。この時の寄付金や公金を取り扱う課長が精神的に追い詰められてやはり自殺したのだ。

 これらの事実はただ単に自殺者が出たというにとどまらず、斉藤知事に対する県庁職員の信頼は完全に地に落ち、また県議会側との対立も明確になってくる。そんな中、県議会では調査委員会が発足し知事の様々なパワハラや業者からのもてなし、プレゼントなどなどの疑惑に対して調査が開始される。追い詰められた斎藤知事は結局、知事職を辞職して県知事選 を実施し、そこに本人が再出馬するという形になった。
 
 この選挙において昨年行われた東京都知事選の新たな方法がこちらにも広がり、ずいぶん問題のある選挙戦となっていく。斎藤陣営は SNS を最大限に利用し、また選挙戦の戦略を自らが知り合いの広告業者に依頼する。この時に70万円のお金がかかったとされている。これらの方策が公職選挙法の中で認められるのかどうかという問題点も出てくる。
  SNS を使った宣伝戦は思いもよらぬ方向で物議を醸すことになる。ここに現れたのが東京都知事選の方にも昨年の衆議院選挙の時にも現れた NHK 党の立花孝志氏だ。

 立花氏は自らの X や YouTube を使って、連日のように反斉藤陣営に対する様々な嘘の内容・デマを拡散し続けた。その結果立花氏の SNS の再生回数は100万単位で広がっていく。その中 SNS 内で繰り返されたデマに大勢の一般県民が踊らされて、斉藤氏は全く悪くない、県庁職員や県議会の方が悪いのだ、ということをなぜか信じる人々が一種「斉藤応援団」のような姿を呈して、新たなデマの SNS を公開し拡散していく事態となった。
 立花氏はもはや英雄扱い。本人も自分が英雄であることを自覚しているようだった。そして相手陣営に対する攻撃はまさしく「恫喝」と言った様相をあらわにしていく。何度も何度も県議会の百条委員会の委員長である竹内氏に対してデマを並べ、「警察の取り調べを受けている」「近いうちに逮捕されるようだ」云々の拡散を何の根拠もなしに、また示さずに次から次へと広めていったのだ。これを読んだあるいは見た県民たちは何の根拠もないこのデマをいとも簡単に信じて、斉藤氏を応援。そして選挙結果は斉藤氏の圧勝となった。

 立花氏は街宣車を使って自殺した県職員たちに、あるいは県議会の竹内氏に対して「出てこい」「次は誰々の家に行くからな、待ってろよ」 まさしく暴力団そのものの言い草だ。脅迫そのものということになる。結果、竹内氏の奥様が精神的に参り竹内氏は議員を辞職する。それでも脅迫や罵詈雑言はやまない。無言電話もあれば、着払い宅急便が届くなどと言った悪質な卑劣な事態も起こる。彼の家庭はこのままでは崩壊するので辞職したのだが、 結局妻と2人の小学生を残して自殺するまでに追い詰められてしまった。



 あまりにもの卑劣な事態に、県警察本部長も竹内氏を参考人として呼んだ、あるいは近いうちに逮捕の予定があるということは一切ないと明言した。すると立花氏は「 SNS で発信したことは間違いだった。県警の人たち申し訳ありませんでした」と謝罪したが、この謝罪はあくまでも県警の人たちに対する謝罪であって、自殺した竹内氏は含まれない。人を死に追いやって、平然とこういうことが言えるというのはやはり、暴力団・ヤクザと同じ類の人間だとしか言いようがない。そして根拠のない嘘で固められたデマを発信した責任も取れないような内容を、一般の県民たちがこれも何の根拠もなく、簡単に騙されて信じているというこの低劣な人権意識のほとんどないような県民たちの実態に、ただただ呆れるほかはない。兵庫県民だけでなく、付近の他県府民もいるだろう。自分たちのしたことを一体どう思っているのか。

 
 
 要するに今回の問題は、よってたかって正当な活動をしている県議会の、そして県職員の人たちを自殺に追い詰めたということであり、これははっきり言って「立花氏を中心とする 極めて多くの一般県民が、集団で徹底的にいじめ抜いて殺したのに等しい」と私は思っている。要するに「 一般県民による集団いじめ殺人事件」というに等しい行為と いうべきだろう。
 立花氏のような極めてヤクザまがいで卑劣な人間を中心に、全く嘘とデマで固めた中身をあえて SNS で発信し拡散させ、その内容を、これまた何の根拠もなく簡単に信じて集団で一部の県庁職員や県議会議員を徹底的に叩きのめした兵庫県民の馬鹿さ加減が、全国に示されたのと同じ結果をもたらした。こんな連中を絶対に許してはならない。 SNS の開示請求はかなりハードルが高いと言われるが、今後も様々なケースでデマ情報の SNS を簡単に信じて一部の人を攻撃するというやり方が主流となっていくだろう。何も選挙だけではない。 裁判の現場でも弁護士が集中砲火を浴びて、 SNS で総攻撃を受けているという実態が現にある。

 今回の事件は間違いなく「事件」であり、兵庫県民を中心に集団でたった一人のあるいは数人の人々を追い詰め、死に至らしめたある意味、兵庫県民たちは殺人者と言うべきだろう。事件の経過をメディアのニュースなどで知ってしまった者として怒りが収まらない。このような匿名性の高い SNS のあり方について、法改正や条文の制定、あるいは開示請求を簡単なものにして思想信条の自由を超えて、公共の福祉に反するものについては、警察による捜査権及び逮捕権を実行すべきだと思う。放置すれば間違いなく悪質なケースにのめり込んでいくのは明らかだ。
 とにかくまず立花孝志氏の責任を取らせろ。

   (画像は、MBSテレビ、日本テレビ ニュースより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弘法閣大師堂・松永稲荷社・・・路地沿いの祠と神社  京都市上京区  2025.1.13 訪問

2025-01-21 22:26:05 | 撮影
弘法閣大師堂



 出水通りの一方通行の途中にある。ちょうど堀川通りと千本通りの中間あたりだ。大師堂は格子状の窓に少し大きめの祠が立っているだけだ。京都市内に数ある小さな地蔵堂の少し大きめのものという感じで、ややもすると見逃してしまいそうだ。弘法大師というのはもちろん平安時代の僧である空海のことを言っている。

 この大師堂がいつ頃建てられたかは分かっていない。安置されている本尊は弘法大師坐像となる。言い伝えではこの大師像が井戸の中から現れたという。ただこれもいくつかの説があって詳しいことはよく分かっていないようだ。伝承として伝わっているだけという気がしないでもない。そういった意味で出水七不思議の一つとなっている。この場所には説明書きや駒札等何もなく、あくまでも いろんな説が伝承として語り継がれているだけとなるようだ。無論、祠は何度か建て替えられて格子状の窓の部分はかなり新しいように見えた。

  


松永稲荷社



 弘法閣大師堂の横の道を北に上がったところにある。すぐ近所だ。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、豊臣秀吉が平安京大内裏跡に建てた聚楽第があったと言われる。聚楽第 というのは秀吉が政治活動を行う場所であり、同時に住まいでもあった。但しこの聚楽第は10年持たずに取り壊されている。したがって詳細についてはよく分かっていないことも多いようだ。

 松永稲荷社はその聚楽第の跡地の横に位置しているが、ここも創建等の由緒はよく分かっていない。鳥居の横に聚楽第跡地と彫られた石柱が立っている。神社そのものは狭い敷地に小さな祠、その両サイドにそれぞれ「鵲大明神」「白玉大明神」と書かれた大きめの石が置かれている。無論、稲荷社であるので伏見稲荷大社を総本社とする神社となる。京都の町には細い路地沿いに、このような極めて小さな敷地に小さな神社が建っているケースが非常に多い。これもその一つだ。

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稱名寺(称名寺)・・・空誉上人?   京都府久世群久御山町  2025.1.12 訪問

2025-01-19 22:14:19 | 撮影
 

 久御山町には称名寺というお寺が2箇所ある。 1箇所目は何年も前に訪れ当ブログにおいても紹介している。久御山町佐古地区で重要文化財などの仏像を有する名所ともなっている。今回はもう1箇所の称名寺で、久御山町野村地区にある。すぐ隣に常磐神社があるのだが、この神社についても何年か前に当ブログに掲載している。その時にはこのお寺の存在を知らなかった。改めて地図を調べている中でこの称名寺を見つけ訪れた次第。

 場所は久御山町内のイオンモールの西南方向になる。国道1号線が通じており、それを渡ったところとなる。
 創建等の由緒についてはよく分かっていないが、少なくとも空誉上人が再建に関わっており、彼は戦国末期の僧であることから、少なくとも室町時代、あるいはそれ以前の創建となると思われる。

  

 空誉上人というのは当初、徳川家の陣営についていたが豊臣家との対立が激しくなる中で、空誉上人との関係が深かった黒田官兵衛とずっと行動を共にしていた。その黒田官兵衛が突然、豊臣方に入りその説得のために空誉上人が大阪城に派遣される。しかし説得は失敗し、徳川家康の激しい怒りをかい福岡にて処刑されることになった人物だ。

 

 話は少し それたが戦国時代末期から徳川時代初期にかけての出来事であり、ちょうどこの頃に称名寺が再建され、宗派も浄土宗となったと言われている。幕末から明治にかけては 各建物の再建などが行われ、最近に至るまでかなり長い年月をかけながら建て替えなども行われてきた。従って本堂などの建物も比較的新しいものとして見える。

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする