切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

千手院~浄徳寺・・・桂川近く    京都市伏見区     2024.10.11 訪問

2024-10-13 22:34:55 | 撮影
千手院



 京都外環状線と横大路の交差点から、住宅街のある西の方向にある。細い道を入るのでかなり分かりにくい。ようやく現地について見ると、お寺らしきものはなくその代わり石造りの土台の上に、広い高台が控えていた。そこそこ面積のある高台で全体は雑草に覆われており、その一部に石段があった。これが千手院なのかと思いながら眺めてみたが、もうかなり以前に更地になったようだ。 1箇所だ 井戸水の汲み上げ施設のようなものが立っているだけ。他には何もない。

 

 一体どうなってしまったのか。廃寺になったのか、それとも移転したのか。その場でスマホで調べてみる。出てくるサイトはお墓の案内が中心だ。それらを見ているとやはりお寺は存続しているような感じだ。すぐ近くに少し年数の経った住宅が何件も繋がって並んでいた。ひょっとしてこの一番手前の住宅がお寺何だろうかと思いつつ見ていくが、寺の表札はどこにもない。結局何もわからず、お寺の建物や境内があったとおぼしき高台を撮影し、事情がわからないまま次のお寺に向かうことにした。

 分かったことは、黄檗宗のお寺で本尊が釈迦如来ということだけだった。




浄徳寺

 

 京都外環状線が桂川を渡る橋から下流の方にある。堤防がすぐそばなので、豪雨に見舞われると少し怖いなという感じがする。それは何もこのお寺だけではなく周辺の住宅地一帯も同様だ。堤防はかなり頑丈そうで、厚みもあってそういった可能性はないだろうとは思うが、このような大きな川沿いにお寺があるケースも京都ではそこそこ多い。

 
 
 お寺の詳しいことは何もわからなかったが、真宗大谷派の寺であり本尊は阿弥陀如来となる。東本願寺に属するお寺だ。門が閉められていて身を乗り出して撮影することになった。従って境内の一部しか見ることができない。面積としては比較的狭い方となる。かなり綺麗な本堂の建物が見えておそらく鉄筋コンクリートではないかと思えた。緑の植栽が丁寧に配置され、小さいながらもなかなか綺麗なお寺だと言える。この辺りにはもう1箇所お寺があるから、この2つのお寺でこの辺り一帯の信仰を集めているのではないかと思われる。寺の名前も縁起のいいもので、いかにもご利益がありそうだ。


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大雲寺・・・かつては庭園が?   京都市下京区    2024.10.10 訪問

2024-10-11 22:28:45 | 撮影
 

 大雲寺といえば左京区の同名のお寺が知られるが、こちらは下京区にある。西大路七条の交差点から南西の方向に少し行ったところとなる。浄土宗のお寺で本尊は阿弥陀如来。

 少し離れたところにコインパークがあり、そこに車を置いてあとは歩く。山門と大きな樹木の緑が、そして塀が目立ってすぐにわかる。お寺の詳細については色々と調べたが全く何もわからなかった。門の正面から写真を撮り始める。よく見ると山門の上部に見事な彫刻がなされている。大きなお寺や歴史的な由緒のあるお寺などに見られるが、このようなあまり知られていないお寺については、ある意味珍しいのかもしれない。

    

 境内に入るとすぐに住居があり、細長い境内が続く。進んでみると渡り廊下がある。そしてその廊下の向こう側には、雑草が背高くあちこち生えているが、よく見ると池 らしきものもあり、おそらくかつてはちょっとした日本庭園のようなものがあったのかもしれない。 今は手入れはされていないようだ。境内の方は無論整備されているが、なんだかその庭園らしきものがもったいないような気がした。

  

 渡り廊下の先に本堂があり、比較的小さな印象だった。特に本尊が見えるような状態にはなかった。境内には鬼瓦やカエルの置物などがあり、相応に手入れがなされている。浄土宗ということもあり、地域に根ざしたお寺としての役割で、ずっと存続してきたものと考えられる。

  

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安養寺・・・ 秋の特別公開  京都府宇治市    2024.10.5 訪問

2024-10-08 22:01:44 | 撮影
 

『沿革
 山号院号は羽戸山大鳳院で浄土宗の寺院。創建の詳細は不明だが、当初は現在地の西南方向の羽戸(現在の京阪宇治駅周辺の宇治川岸あたりとみられる)にあり、1685年に現在地へ移った。この地域はかつて大鳳寺村(白鳳時代 にこの地にあった寺の名前に因む)と呼ばれ、あたり一帯が茶畑で数軒の茶師で構成され、その帰依を受け、地域の中でも格式高い寺として清栄した。その茶師のうち2家は、約400年を経た今なお安養寺近隣の旧家にその末裔が住んでいる。このように寺の創建初期からの檀家の末裔が同地に引き続き在住しているということは全国的にも珍しいことで、 村社会の文化の名残を見ることができるのは、貴重な文化遺産でもある。

木造阿弥陀如来坐像(宇治市指定文化財)
 平安時代、10世紀の作。像高49.5cm、定印を結ぶ。両手の一部、両足部を除き、檜材とみられる一材により彫出し、 内刳も施さない技法で造られている。後世の補修跡はあるものの、10世紀に遡る仏像は宇治市内でも少なく大変貴重。


木造地蔵菩薩立像(宇治市指定文化財)
 平安時代末期〜鎌倉時代初期の作で、小野篁の手による像とも伝わる。像高97cm、寄木造、彫眼古色。「北向地蔵」「延命地蔵」とも呼ばれ、脚気に効験あるとされ、地域住民から慕われ続けた。』
  (パンフレットより)



 

 このほど宇治市内の文化財 秋の特別公開 と 言うことで、5箇所の寺院が特別公開となった。中には普段から公開されているお寺もあるが、多くはこういう機会でないと本堂内に入ることはできない。この日は恵心院と安養寺の2箇所を訪れた。その間に方生院もあったが、ここはすでに一般参拝で文化財の仏像を拝観している。今回はスルーした。
 なお安養寺については、当ブログにおいて、 2018年8月30日付で掲載している。無論その時はただ単に訪問して、境内の様子を撮影したりしただけだ。今回は本堂内も全て開放して参拝することができるどころか、なんと撮影も許可されていた。極めて珍しい ケースだ。重要文化財とまではいかないが、宇治市指定の文化財もある。そうした貴重なものが自由に撮影できるというのは、今まで数多くのお寺を回ってきてほとんど記憶にない。本堂の一部がガラス張りになっていて、そこから本尊を撮影したことはあるが、今回のようなケースは初めてだ。

  

 今回の特別公開は地元新聞や地元ニュースでも紹介されていなかったので、私はネットで知った。しかし恵心院も安養寺も かなりたくさんの人が訪れていた。一定の人数が集まると、ボランティアの方々が交代で様々な説明をしてくれて、ゆっくり落ち着いて拝観することができた。説明が終わると静かに歩き回って、本堂内の数多くの仏像を撮影していく。さらに安養寺のご住職が執筆された仏教教義関係の本を無料でいただくこともできた。

 上記の説明のように宇治市指定文化財の仏像は、平安時代から鎌倉時代にかけて彫られたものだ。状態も非常によく、場合によっては国の重要文化財と言ってもおかしくない。その辺りどういう基準で判断されているんだろうか。特に地蔵菩薩立像は小野篁による作ともされて、彫師が分かっているのならばなおさらのことだ。

 これ以外にも貴重な仏像があって、やはりかなり古いものだが、文化財として指定を受けていないものもある。あるいはまた「阿弥陀三尊来迎図」という掛け軸があって、これは 鎌倉時代のものという。写真にある通り保存状態も非常に良い。恵心院の場合もそうだが、 この安養寺においても数多くの仏像や掛け軸がある。というのは明治の廃仏毀釈の影響が大きいという。当時は寺や仏像を破壊し、なくしてしまおうという動きが全国的に起こり、貴重なお寺も廃寺となったケースが多い。その時にせめて本尊だけは、ということで破壊を免れたお寺に周辺のお寺から預けられた仏像が、そこそこあるとの説明もあった。

     

  自分自身の居住自治体のお寺や神社もそこそこ回ってきたが、まだ訪れていないところも結構ある。そういった点からは身近なお寺も視野に入れながら、改めてその価値を見出すことも大事だと思えた。


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高円寺・・・本堂は?     京都市西京区     2024.10.2 訪問

2024-10-05 22:10:57 | 社会
 

 高円寺は阪急京都線、桂駅から南西の方向 約1.5km のところにある。幹線道路に面しているが門が細い道を入ったところにあるので、見逃してしまう。巨木が密集しているので それが目印となる。
  西山浄土宗のお寺で、創建等の具体的な由緒についてはよくわかっていない。別名「塚の堂」とも呼ばれるが、これはお寺の境内に小さな円墳があるところからそう呼ばれているのだろう。少し離れたコインパークに車を停めたが、寺の山門の前にかなり広い駐車場があった。一見して お寺全体を巨木が何本も覆っており、山門の奥に見える建物も本堂ではなく、一般の建物のように見えた。従ってお寺という雰囲気があまり感じられなかった。

  山門をくぐると目の前に普通の家のような建物があり、屋根越しに一回り大きな屋根が見える。おそらくそれが本堂 だろうと思われる。この場所からは左右に数多くの小さな石造物が並べられており、その一角に小さな 石地蔵が祠の中に置かれていた。これらの多くの石造物は、全てがこのお寺のものではないように思われる。このお寺のものも含め、近辺にあったお寺が、おそらく明治の廃仏毀釈などで廃寺とされ、こちらに集められたような気がする。多分 江戸時代あたりのものだろうと考えられる。

     

 本堂の前にどこからどうやって出るのかわからず、結局山門近くの境内を撮影して出てしまった。多分巨木が立ち並ぶその端を進んで奥の境内に出るのだろうと思う。もう少し貪欲にそこまで行くべきだった。
 幕末期に起こった様々な事件の中で、「金門の変」があるが、その戦いの中で殺害された長州藩や薩摩藩の武将たちの葬儀がこの寺で行われている。どのような関わりがあったのかは色々調べたがわからなかった。全体的にはあまり目立たない静かなお寺だという印象。

  
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念仏寺・・・もちろん浄土宗     京都府綴喜郡井手町    2024.10.1 訪問

2024-10-03 21:56:53 | 撮影


 念仏寺は JR 奈良線、山城多賀駅から直線距離、東北へ 約1km のところにある。実際には幹線道路を歩いて行くと2㎏近くになるだろう。少し高台にあり手前に大きな西福寺があり、どうしてもそこで終わってしまいがちになる。この西福寺から100m あまり北側に念仏寺がある。

 

 井手町は人口約7000人余り。30年ほど前は9000人を超していたが、このところ人口減少が著しい。全体的に平らな土地が少なく、 1次産業も少々やりにくい場所だ。そんな中で町が中心となって、2次産業3次産業の誘致が行われ、 少し企業数も増えた。
 古墳の発掘からかなり以前から人が住み着き、生活していたことが分かっている。奈良時代には橘諸兄の邸宅があり、貴族として優雅な生活をしていたものと思われる。彼は万葉集の撰者の一人として知られており、井手町そのものも当時の和歌集などに町の中央を流れる 玉川を歌ったものも散見される。今ではこの玉川沿いに見事な桜並木が、春に花を咲かせ 一つの名物となっている。しかし全体的には観光資源に乏しく、JR 奈良線が走っているとはいうものの、この辺りでは本数はかなり少なくやや不便な地域となる。

  

 念仏寺は山門が分かりにくい場所にあり、結局塀も何もない裏側から入ることになった。正面に本堂が控え扁額が掲げられている。れを見ると「光明山」とあり、その横に細かな文字で「大本山百萬遍四恩寺・・・」とあった。これは京都市左京区の百万遍にある知恩寺というお寺の末寺ということになる。まさかこんな遠いところに関係のある寺があるとは思いもしなかった。

 境内はそこそこ 広く、植栽がよく整備されており全体的に好ましい雰囲気だ。一通り撮影をしながら境内の奥に行くと、そちらの方に正式な 山門があった。近くに石地蔵があり ひまわりの花が周りを囲っていた。

     
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