『勝福寺(親鸞聖人旧蹟)
寺伝によれば,当寺はもと「清水庵」、「一條坊」と呼ばれ、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人(一一七三~一二六二)が一時期住居とした旧蹟である。親鸞聖人は布教のため関東にて約二十年を過ごしたが、故郷の京都に戻ってきたのは、六十歳を過ぎた頃といわれる。帰洛後は主に「教行信証」(親鸞の集大成的著作)の補筆完成に精進すると共に、都での教化活動にも力を注いだ。帰洛後の住まいについては、洛中を転々としたが、嘉禎二年(一二三六)に一条附近にあった清水庵に居住したという。
当寺に残る「御生骨縁起」によると、この寺で教化している時、親鸞聖人の歯が抜け落ち、
「秋はつる 落葉は冬ぞ いざさらば
無量寿国の春ぞ なつかし」と一首詠んだ。
四季の移ろいの中に自らの老いを重ねるというその歌に感動した、弟子の真仏房平太郎は、聖人に対し、形見に歯を所望したところ、聖人はその願いを聴きいれ、自ら彫った木像を共に与えた。それが当寺の伝わる「落葉の尊形(親鸞像)」であり、その由来である。永正十六年(一五一九)に本願寺第九世の実如上人は当時の一條坊善正に対し、「当寺が親鸞聖人の重要な旧蹟であること、また落葉の尊形を子々孫々大事に保管せよ」と書状を与えている。
京都市』 (駒札より)
勝福寺は堀川中立売の西側にある。通り沿いに小さな山門がありやや 目立ちにくい状態だ。門のわきに駒札が立っているので、それを目当てにすることができる。山門を潜って 境内に入ると住宅密集地の中にあるということもあり、思った以上に狭い。境内は多くの草花に覆われていて、本堂への短い通路がある。本堂そのものも一見すると歴史的な由緒のある寺のようには見えない。しかしこの寺は親鸞聖人が一時住まいとして滞在していたところであり、所以の深いお寺となる。但し当時は勝福寺という名前ではなく、これは後年つけられた名前となる。親鸞が関わったということで浄土真宗本願寺派のお寺となっている。
本尊は阿弥陀如来立像で恵心僧都の作と言われている。だとすれば彼は平安時代の人物であり、本尊自体が相当な古いもので貴重なものということになる。このお寺の前身である 清水庵と呼ばれた時代に安置されたものかもしれない。勝福寺としての創建は室町時代となる。
境内を撮影していると、寺の関係女性から「ここは観光寺院ではないので・・・」と撮影を拒否された。お寺とはそんなものなのだろうか。時々こういうお寺があるが、文化財的な価値も含めて国からはこのような宗教施設は特別扱いをされている。固定資産税も免除されているのだ。やはり人々の信仰や心休まる場としての存在意義があるはずだ。そういった意味で門から内部に入っていくこと自体を拒否されるというのは、お寺のあり方として疑問を覚える。ましてや当時貧しい人々にも分け隔てなく救いの手を差し伸べた親鸞聖人の関係が深いお寺であれば、なおのこと人々に門戸を広げているべきではないのか。はっきり言って 極めて残念な思いだ。