切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

勝福寺・・・親鸞聖人ゆかり   京都市上京区   2023.5.25 訪問

2023-05-31 21:29:54 | 撮影
 

『勝福寺(親鸞聖人旧蹟)

 寺伝によれば,当寺はもと「清水庵」、「一條坊」と呼ばれ、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人(一一七三~一二六二)が一時期住居とした旧蹟である。親鸞聖人は布教のため関東にて約二十年を過ごしたが、故郷の京都に戻ってきたのは、六十歳を過ぎた頃といわれる。帰洛後は主に「教行信証」(親鸞の集大成的著作)の補筆完成に精進すると共に、都での教化活動にも力を注いだ。帰洛後の住まいについては、洛中を転々としたが、嘉禎二年(一二三六)に一条附近にあった清水庵に居住したという。
 当寺に残る「御生骨縁起」によると、この寺で教化している時、親鸞聖人の歯が抜け落ち、
「秋はつる 落葉は冬ぞ いざさらば 
  無量寿国の春ぞ なつかし」と一首詠んだ。
四季の移ろいの中に自らの老いを重ねるというその歌に感動した、弟子の真仏房平太郎は、聖人に対し、形見に歯を所望したところ、聖人はその願いを聴きいれ、自ら彫った木像を共に与えた。それが当寺の伝わる「落葉の尊形(親鸞像)」であり、その由来である。永正十六年(一五一九)に本願寺第九世の実如上人は当時の一條坊善正に対し、「当寺が親鸞聖人の重要な旧蹟であること、また落葉の尊形を子々孫々大事に保管せよ」と書状を与えている。              
  京都市』  (駒札より)

  
 
 勝福寺は堀川中立売の西側にある。通り沿いに小さな山門がありやや 目立ちにくい状態だ。門のわきに駒札が立っているので、それを目当てにすることができる。山門を潜って 境内に入ると住宅密集地の中にあるということもあり、思った以上に狭い。境内は多くの草花に覆われていて、本堂への短い通路がある。本堂そのものも一見すると歴史的な由緒のある寺のようには見えない。しかしこの寺は親鸞聖人が一時住まいとして滞在していたところであり、所以の深いお寺となる。但し当時は勝福寺という名前ではなく、これは後年つけられた名前となる。親鸞が関わったということで浄土真宗本願寺派のお寺となっている。
 本尊は阿弥陀如来立像で恵心僧都の作と言われている。だとすれば彼は平安時代の人物であり、本尊自体が相当な古いもので貴重なものということになる。このお寺の前身である 清水庵と呼ばれた時代に安置されたものかもしれない。勝福寺としての創建は室町時代となる。

  

 境内を撮影していると、寺の関係女性から「ここは観光寺院ではないので・・・」と撮影を拒否された。お寺とはそんなものなのだろうか。時々こういうお寺があるが、文化財的な価値も含めて国からはこのような宗教施設は特別扱いをされている。固定資産税も免除されているのだ。やはり人々の信仰や心休まる場としての存在意義があるはずだ。そういった意味で門から内部に入っていくこと自体を拒否されるというのは、お寺のあり方として疑問を覚える。ましてや当時貧しい人々にも分け隔てなく救いの手を差し伸べた親鸞聖人の関係が深いお寺であれば、なおのこと人々に門戸を広げているべきではないのか。はっきり言って 極めて残念な思いだ。


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《 政治家たちの劣化に歯止めがかからないこの日本の無様な現実 》  2023.5.30

2023-05-30 22:57:56 | 社会
 毎日毎日日本の国会議員や地方自治体議員の不祥事などが報道され、こんなにもくだらないことが繰り返される現実というのは、世界に対しても恥ずかしい限りの情けない政治家達としか感じようがない。

◆ 岸田首相の息子さんである 翔太郎氏の「閣僚 ごっこ写真の愚かさ」

 

 去年の年末に岸田翔太郎氏が親族か友達か、大勢を集めて首相官邸の私的使用の区域で忘年会を楽しんだ という。いくら親族か友人であろうが、私的な関係者を首相官邸に入れてもいいのだろうか。テレビニュースの解説を聞いていると、私的な部分ではいいらしいが本当にそれでいいのか。週刊文春がこの時のどんちゃん騒ぎの写真を多数入手して掲載し、先日書店に並べられた。当然のことながら世間ではかなりの批判を買い、また岸田首相の息子がこのようなことをしているということに対する与野党内からの批判の声も出ている。
 特に組閣において新しい大臣たちが階段上に並び写真を撮る、赤絨毯の場でその真似をして悦に入るような写真、あるいは1人の男がその赤絨毯の上に肘をついて横になり、ポーズを決めているような写真などというものを見ると、国民の税金で賄われている首相官邸といえども、第一にこの場所は公的な場所でもあり許されるはずのないようなことが、平然と行われている実態に呆れるばかりだ。首相の息子さんはこれでいいと思っているんだろうか。 まさしく感覚が麻痺してるとしか思えない。だいたいこんな写真を見ること自体、極めて不愉快極まりない。
 岸田首相は当初本人に対して厳重注意をしたと述べていた。これで済むこと自体がおかしいのではないか。前任の首相秘書官は LGBT 関係への否定的な発言で更迭された。しかし 自分の息子は厳重注意で終わり。こんなものはアメリカやヨーロッパでは通用しない。即辞任というのが当たり前だ。立場によっては辞職が当たり前だ。なんと日本の政治のゆるいことか。岸田政権の支持率が、先日の G7の成功?によって上昇したことを背景にいい気になっているんだろう。ところが今回のこの件で一部世論調査では支持率の下降現象が見られたということも含め、与党内からもこれでは済ませられないとの声が出ているようだ。というわけでやっとこさ事実上の更迭扱いとした。当たり前だ。遅すぎる。だいたい身内の者を秘書官にすること自体が政治の私物化にもつながりかねない行為だ。ただでさえ各地方から選出される国会議員の「世襲問題」が批判されているというのに、一向に収まる気配がない。まあこういったものを投票で選ぶ国民も国民だ。中には 「たかがこれくらいのことで」という人もいるだろうが、これくらいのことの積み重ねがとんでもない政治の劣化を一気に進めるものだ。小さなことでも国民の代表として選ばれたからには、それだけの緊張感を持って仕事に当たらなければならないのだ。要は緊張感もなくゆるゆるの気持ちで臨んでいるからこそ、こんなことが当たり前のように起こるんだろう。

◆ 河野太郎 デジタル大臣は本当に任務を遂行する能力があるのか?

 

 マイナンバーカード。今現在国民の取得率は約70%だという。これを早期に100%にするためにあれやこれやの脅しをかけて、あるいは餌をぶら下げて実現しようとしている。中でも国民にとって健康保険証が来年秋には廃止となることがすでに決定されており、嫌でもマイナンバーカードを取得して、その代わりとするか、あるいは毎月毎月健康保険書類の申請をして面倒な手続きのもとに、病院通いをするのかを選ばなければならない。当然のことながら特に高齢者にとってみれば、病院通いをしている人が多くこの私自身も高齢者であり、 あちこちガタガタでいくつもの病院を掛け持ちで受診するような状態に追い詰められている。 嫌が応にも健康保険証は新しい月になると、その都度提示して受診しなければならない。すでにそのような形でマイナンバーカードを、健康保険証の代わりとして使用を始めてる人たちもずいぶんいる。ところがそのマイナンバーカードの利用にあたって、ミスやエラーが全国で続出している。保険証として認識されずに 10割負担をしなければならないとか、住民票取得のためにカードを使うと他人の住民票が出てくるなど、あれこれの問題が多発している。これに対して河野大臣は何か人ごとのように切迫感などないコメントを口走っている。本当にこの人、やる気あるのか。危機感を持っているのか。
 専門家の人々はあまりにも拙速に進めようとしすぎているために、ヒューマンエラーを含めた様々な問題が避けられない状況になっているという。いずれは個人情報と紐付けられ 、さらに銀行口座にはもう既に紐付けられている。こんな調子で自分の口座からいつのまにか預金がなくなっていた、見ず知らずの他人が知らずに引き出してしまった、なんてことになりかねない。こんなものをどうやって信用しろというのか。私は何箇所もの病院に受診しなければならないために、仕方なくマイナンバーカードを申請し取得した。今のところ病院を含め役場での窓口などで使うつもりは一切ない。しかし私自身が使わなくても他の人が ご自身のカードを使うことによって、私の情報がそちらへ筒抜けになる可能性があるということだ。預金口座もいつの間にか、ゼロになったりしていて。責任取ってくれるのか。
 河野大臣は謝罪も何もせず責任も取ろうとはしない。こんな有様でこのままデジタル大臣でいいんだろうか。官僚や デジタル化のために仕事をしている中には、この方面の専門家は多分いるだろうとは思うが、国会議員の中に専門家がいるとは思えない。こういった問題に当たっては民間人から大臣を入れるくらいの方法をとってもいいのではないか。とにかくマイナンバーカードというのは昔、「 国民総背番号制」を打ち出して国民から大きな批判を浴び、 引っ込めたものを英語でマイナンバーカードという言葉で出してきたものだ。国民もまんまとやられたというところだろう。日本のIT化は世界先進国の中でも最低クラスのところにあると言われている。そして いざIT化を進めようとするとこんな有様。
 十分な準備と対応策をやらないままに始めるからこんなことになるのだ。政府としては マイナンバーカードというのはあくまでもIT化というよりは、全国民をどのようにして管理支配していくのか、その簡単な方法としてこのようなカードを作って個人情報管理を進めていくというのが最大の狙いだ。これから先、我々の情報は赤ちゃんから高齢者が死ぬ時まで 政府に管理されていくのだ。おそらくそのうちスマホの位置情報を利用してその情報に個人情報も紐付けられて把握されるような方向に進むだろう。恐ろしいことだ。

◆ 議員たち個人個人の人間性の劣化が止まらない



  先日このブログでも日本維新の会の梅村みずほ議員が、名古屋入管の問題について、つまり収容されていた ウィシュマさんの死亡事件に対して、ウイシュマさん側、 あるいはその支持者の方が悪いと言った意味のことを発言し大きな問題になった。日本維新の会は法務委員会から更迭して議員活動の6ヶ月間の停止を処分として発表した。人権感覚のない人間が国会議員として当選しているということ自体が大きな問題だし、人が亡くなっているということを差し置いて入管のしたことを正当化するような発言ができるという、こういう議員がいることの恐ろしさを改めて感じた。日本維新の会は急激に当選者が増えたということもあり立候補段階でのいわゆる身体検査が不十分なんだろう。過去にセクハラで問題を起こした人物が立候補し当選し、問題が発覚して辞職などという例もあるし、党からの処分も立て続けに特に地方議員などでも起こっている。
 もちろん日本維新の会だけではない。与党においても先の岸田翔太郎氏の閣僚ごっこ問題だけではなく、例えば 数年前に LGBT 問題に関して「彼ら彼女たちは何も生み出さない」 などと月刊誌に発表して大きな問題になった、杉田水脈議員が今度は、ジェンダー平等や従軍慰安婦等の問題について研究している女性学者たちに対して、またもや「反日研究だ」等の発言をした問題で訴訟を起こされ、控訴審で有罪判決が出て賠償金の支払いが命じられている有様だ。
 こういうものをあげていけばきりがない。国会議員は今現在、給料である歳費が少しカットされて支給されているが、財政的な問題から行けばそして彼らの実際の働き具合から行けば、歳費は50%カットが当たり前だと思う。まだまだ手ぬるい。また先日の地方議会の選挙においても、ある都道府県の当選者が月額約100万円を支給されるということを知って驚いている様子がテレビで放映された。大きな自治体の歳費ともなると、まさしく月給100万円。他にも様々な名目のお金が支給されるはずだ。そこの自治体の住民たちは本当に納得できるんだろうか。議員たちは休日を除いて年間通して毎日働いているわけではない。一般の民間会社や公務員などと比べると実動日数ははるかに少ない。しかし議員たちは言うだろう。 議会のない日は様々な調査活動や住民との交流活動に当てている。忙しい。本当にそうなのか。税金から巨額のお金をもらっておいて偉そうに「 先生」と呼ばれて、得意気になっている。何かもう嫌になってしまうね、ほんと。

 まだまだ上げればきりがないし、ここら辺にしておくけれども一老人としてはこういう愚痴も言いたくなってしまうような、劣化政治の日本の実態に愚痴も言いたくなるというものだ。もちろん、真面目に頑張って懸命に政治活動をしている国や地方の議員達が多数を占めているのは承知しているのだが。

   (画像はTVニュースより)
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松原稲荷神社(2023.5.15)・北野天満宮御旅社(御輿岡神社)(2023.5.24) 京都市中京区

2023-05-28 21:30:32 | 撮影
松原稲荷神社

 

 松原稲荷神社は、四条大宮の西側、壬生寺の西隣に位置している。周辺は住宅密集地で細い路地の両側に建物が並んでおりその一角にすっぽりと収まっている。小さな祠がありそれがこの神社だ。明治38年の創基との記述がありかなり 新しいものとなる。
 京都には細い路地沿いにこのような小さな神社が数多く見られる。中にはかなり長い歴史を持つ由緒ある神社もあるが、明治時代に創建されたような新しいものも多い。稲荷神社ということで当然、総本山は伏見稲荷大社となる。稲荷信仰の町内における象徴的な存在となっているはずだ。

 

 このような神社が多く見られるのは色々な理由が考えられるが、平安時代に都の姿が整えられると同時に、多くのお寺が創建された。そのでは神仏習合の考え方から神社も残され、また新たに創建され各地に神社が出来上がっていく。しかし後に武士の政権となり、争い事が絶えず起こり、あるいはまた戦火により炎上してなくなってしまうものも多数に登る。江戸時代に入ると一転、平安京は安定の時代を迎え、徳川政権の前の豊臣秀吉による京都改造計画の中でも戦災から大きく復興し、計画的なまちづくりが進められた。そんな中で神社については一村に一社との考え方から各地に設けられるようになる。これが幕末から明治にかけて新しい社会になると、神仏分離そして廃仏毀釈の動きの中で、国家神道による神社を利用した国民統治の支配の仕組みが前面に出される。その中でおそらく地方の村においては、 一村に一社の形式が成立していたように大都市においては、一町内会に一社との動きの中で、新たに町内会の祠が設けられることになったものではないかと考えられる。

 そういった意味では街角の小さな祠に注目すると、確かに明治時代に創建されたものは意外に多い。これも神道の力によって各町内会 ごとに、そして各自治体や全国の人々を精神的に支配できるように考えられ、町内会から消えてしまった神社を復活させる意味で、このような小さなものが多く創建されたのではないかと考えるのが合理的だと思える。
 したがって松原稲荷の場合には、いきなり信仰に基づく神が存在し、松原は町内会の地名 から来ているものとなる。そういった点からは歴史的な由緒というのは感じられない。今となっては国家神道は表面的には否定されており、基本的に神社本庁によって神社の格式が定められ、このような小さな神社にも本庁からの役割が与えられているものと考えられる。そういった意味で町内会においては、様々な行事を通して小規模ながらも賽銭が集まり、町内会の小さな祭りにも人々は比較的熱心だと言える。今の世において神道の教えがどんなものなのかということはあまり問題にならないだろうが、少なくとも神社本庁による全国の人々の精神的な拠り所の一つとして、神社の存在は重要なものだと位置付けられているのだろう。
 


北野天満宮御旅社(御輿岡神社)

 

『由緒
 太古この近辺は、神楽岡と称する大きな森林であり、大己貴命、少彦名命の二神は、鎮守の神として祭られてきた。天暦元年(九四七)北野に天満宮が創設されて、初めて御輿がこの場所に渡御したことにより御旅所として定められ、地名も御輿岡(みこしがおか)に改称された。さらに、菅神を合祀して北野天満宮の境内外末社となる。
 慶長十二年(一六〇七)天満宮本社造営の際、西の京氏子の人々がこれを祝って新鮮な農作物で御輿を作り、九月四日神前に奉納したのが今に受け継がれるずきまつりの発祥である。
 毎年ずいきまつり期間中の十月一日より三日まで当所には三基の鳳輦(ほうれん)とずいき御輿が駐輦し、八乙女田舞や献茶祭などの祭典・行事でにぎわう。』
   (駒札より)

    

 JR山陰線円町駅の北側にある。御旅社の広い敷地の中には神輿が納められた建物があり、さすがに北野天満宮の御旅社ということで、その規模もかなりなものだ。境内全体はかなり広く神輿のために、あるいは「ずいきまつり」のために様々な準備をする必要からこれだけの敷地があると思われる。由緒書きの通りかつてこの辺りには周辺に住む人々のための鎮守の神が祀られ、そこに大己貴命、少彦名命が祀られていた。後に北野天満宮が近くに創建され、この祠にも菅原道真を祀るようになり、北野天満宮の末社となる。こうして今現在は北野天満宮の御旅社の境内の中に神楽岡神社があるという形になっている。
 農作物の生産及び豊穣を祈る神であり、ずいきまつりもそれに準じている。なおこの祭りは京都市の無形民俗文化財に指定されている。

      

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極楽寺~法伝寺(荼枳尼天)・・・真如堂周辺  京都市左京区   2023.5.8 訪問

2023-05-25 22:36:22 | 撮影
極楽寺(時宗)

 

 左京区吉田山の真正極楽寺近くにある。真正極楽寺は一般に「真如堂」と呼ばれむしろ こちらの方がよく通ずる。その近くの極楽寺ということで、全く別のやや小さめのお寺となる。創建は平安時代の西暦990年。恵心僧都源信による開基。当時は天台宗の寺院だった。場所も一条堀川となる。その後衰退し、鎌倉時代に入ると新興の仏教各派が登場し、その中の一遍によって再興される。同時に時宗に改められる。

 しばらくは安泰だったものの室町や安土桃山時代を通して、移転等があり、足利義満の後ろ盾や、あるいは後年になって豊臣秀吉からの寄進等も受ける。江戸時代に入り、火災などの災禍を受けることになり最終的に、真如堂などとともに今現在の場所に移転する。

 

 本尊は毘沙門天。お寺の規模としてはやや小さめではあるが、その歴史はかなり長くしかもお寺の開基は歴史に名を残す恵心僧都源信だ。平安時代は藤原帰属が実権を握り、政治を取り仕切っていた。しかし藤原氏の上層部は優雅な生活にうつつを抜かしており、下級貴族 ばかりが様々な政治活動に忙しい思いをしていた状態であった。そんな中源信は堕落した上級貴族を批判の意味を込めつつ、仏教の基本的な教義の内容を示しつつ現世の生き方次第で極楽へ行くのか、それとも、地獄へ行くのか。そのような内容を書物「往生要集」に著し、貴族たちを震撼させるに至る。後に彼の世界観は多数の絵師によって描かれることになり、 中でも人間の死というものがいかに悲惨で無残であるかを示し、地獄への元となったこの世界観を表した絵図の中には国宝に指定されているものもある。また源信はこの極楽寺のみならず、あちこちで寺の創建に関わっており、いわゆる鎌倉仏教出現以前の仏教会における大いなる立役者の一人だと言える。

 また足利義満や豊臣秀吉らの関係もあって、非常に由緒のあるお寺として大いにその存在感を発揮している。ちなみに一遍上人というのは「踊り念仏」で有名だ。



法伝寺(荼枳尼天)

 

『由緒
 大文字山を東に、またひときわ高くそびゆる霊峯比叡を仰ぎ、現存する鈴声山真如堂山門直ぐ左手に鎮座されます吒枳尼天尊は、弘法大師の御真作になる御尊像であります。
 その由来を尋ねまするに、吾が国において稲荷大明神ととして信仰される尊天は、皇統四十三代、元明帝の和銅四年(西暦710年)初午の日、はじめて此の土に出現されました次第であります。
 其の後幾星霜を経て皇統第五十代桓武帝の在世、弘法大師出世のみぎり、稲を荷える老と化現し給はって天尊が所依の本誓願をお宣ペになりました。それは「吾が本地吒枳尼天尊の真形を模刻し、あまねく衆生を利益、安楽ならしめよ」と大師に告げ給つた次第であります。
 かくして大師は御自身一刀二礼の作法を以て枳尼天の御尊像を彫刻し給ったのであります。故に世人は日本最初の稲荷大明神と尊称し奉り、古来より多年にわたりあがめ祭られて現在に至って参りました。 
 (以下、略)』 (『京都・山城 寺院神社大事典』平凡社より)

  

 法伝寺は真如堂の山門の前にある。そこには鳥居が目立つように立っておりどう見ても神社があるとの印象だ。しかし実際には神社と共に放伝寺という寺院がある。法伝寺は真如堂の塔頭寺院であり、境内に神社が同居しているように神仏習合のお寺である。神社の祭神は吒枳尼天(だきにてん・仏教の稲荷神)で、仏教においては稲荷神と同じ扱いとなっているようだ。この吒枳尼天は平安時代にインドから中国を経て、空海により伝えられたものと言われる。創建は鎌倉時代初期となる。開基は順徳天皇。

  

 吒枳尼天というのは、インドのヒンズー教の神から来ているものだ。その絵姿はキツネに似た面があり、日本においては後にこれがキツネの稲荷と結びついて稲荷神と同一視されるようになる。神仏習合のお寺と神社の関係において、その神社が稲荷社である場合には、お寺に吒枳尼天の仏像が安置されているケースが多いと言われる。ヒンズー教および日本に空海によってもたらされた吒枳尼天は、かなりおぞましい存在であったとされるが、日本においては時代とともにその雰囲気もかなり穏やかになり、戦国時代においては武将たちがこぞって拝観したと言われるものになっていく。実物の吒枳尼天像はお寺によって秘仏になっているケースも多く、拝見するのもあまり機会がないかもしれないが、昔の絵図にはかなり多くの姿が描かれており、いずれもかなり穏やかな雰囲気の絵になっている。名前もヒンズー教のダーキニーから訛ったものとして「だきにてん」となったと言われる。

  
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《切れ爺いさんの食道癌闘病記》 No.39 寛解した!がしかし・・・   2023.5.22

2023-05-22 21:50:04 | 闘病記


 前回の CT スキャンから3ヶ月。先週 5月19日 金曜日に第一日赤へ行く。到着してすぐに 採血。続いて胃カメラのコーナーへ行く。数人待っていた。胃カメラはもう何回も行っているのですっかり慣れたものだ。特に不安はないがひょっとしたらひょっとする場合もあるので、今回もできるだけモニターをしっかり見ておこうと思う。しばらくして呼ばれた。いつものように洗浄の薬を飲み、喉元にゼリー状の弱い麻酔を塗る。

 胃カメラ用のブースに入りベッドに横たわる。今回はモニターが見事にこちらの方に向いているので、全部確実に見られそうだ。いよいよ胃カメラが始まると思った時に、見るといつもよりかなり太いものだった。それに気がついた医師がもう少し細いものと交換。ほっとする。あんなに太いものを入れられるといくら何でも慣れているとはいえ、ちょっときつそうだった。口にマウスピースをはめて喉から入っていく。綺麗なカラー画面のモニターが食道の中を進んでいく。やはり綺麗だと言える。特にこれと言って気になるものは見られない。操作する医師の方もモニターを見ながら解説してくれる。食道を通り過ぎ胃の中へ入る。ところが昨夜食べたものが一部、胃の中に残っていた。もちろん前日の夕食は軽めにしておいた。当日の朝は飲み食いは一切していない。こんなこと初めてだ。なんと胃壁の一部にわかめが張り付いていた。胃の下部の方には昨夜の味噌汁の一部が溜まっている。その部分は当然見ることができない。

 さらに胃カメラは十二指腸へ入り込んでいく。非常に綺麗な状態。ここから引き抜きにかかる。こうして無事に胃カメラが抜かれ、撮影は終了。部分的に見られないところがあったが、なぜ一晩経ってまだ胃の中に残っているのか、自分でもわからない。困ったもんだ。診察室の方へ移動しカードを診察ボックスへ入れて椅子に座って待つ。

 いつものことだが診察室のすぐ前に多くの座席があり、大勢の人が待っている。このコーナーは主として 癌に関わる病気の人たちの場所だ。従って中高年以上の人が多いが、中にはやや 若手の人も見られる。こうしてみるといかに癌の人が多いのかということがよくわかる。あるいはこれから入院して手術を受けるという人もいて、看護師さんがその説明をしているのが耳に入ってくる。5年半前の私の姿そのものだ。この日は待ち時間は比較的短くて済んだ。予定時間に呼ばれて診察室に入る。

 主治医は特に暗い表情でもなく、すぐに前回の CT スキャンの結果とこの日の 胃カメラの結果、そして採血の結果を見ながら「食道癌の方はもうこれでいいでしょう。」と言って いわば寛解ということになった。内心ほっとした。食道癌、ステージ2の5年後生存率が、当時の国立がんセンターの公表値で、45%だったということを考えれば、その45%の方に無事入ったというわけだ。幸いにも主治医は癌手術のスペシャリストで、ほとんどすべての手術を腹腔鏡手術で実施しているという。同時に府立医大の講師も務めており、そういった意味ではいい巡り合わせだったと思う。最近でも腹腔鏡手術については、群馬大学で一部の未熟な医師が立て続けに失敗を起こし、 5名以上の死者を出している。これはもう はっきり言って 事件だ。しかし手術中の死亡ということで何とでもなるという実態もあるらしい。手術中に手術失敗ということで死んでしまうというのは、いわば医療ミスということになり、場合によっては裁判沙汰だ。他の大学でも似たような事件は起こっている。そういった意味では 私の場合は、いい医師に巡り合えたということで幸運だったのだと思う。

 医師に聞いてみたところ、再発の心配はほぼないということ。但し癌という病の性質上、 癌細胞が血液に乗って体中のあちこちに移動する。そのことによる転移というのはありうることなのでそれは仕方のないことだと言われた。人によっては一つの癌が治ってもすぐ次の新たな癌。それが手術で治ってまた新たな癌、という人もいる。元歌手の堀川ちえみさんなどもその典型的な例だ。従って私にもその可能性は十分にあるので、今後さらに高齢化していく中で十分気をつけておかなければならない。


   (国立がんセンター資料より)

 一応癌の方は寛解とは言っても、胃潰瘍及び逆流性胃腸炎ということもあるので、しばらくはそのための服薬が続く。これがまた色々と分量が多くて正直、気が滅入る。私にはこれ以外の基礎疾患もあり、そちらの方の服薬も死ぬまで続けなければならない。まさしく擦り付けの日々だ。また年に一度、胃カメラとなる。早々と一年後に予約が入れられた。忘れてしまいそうだ。

 若い頃のあまりにもむちゃくちゃな仕事の実態。休める日もほとんどなく残業も月におそらく100時間はずっとこなしていただろう。今頃文科省は学校教員の残業をなくすよう改めて対策を立てるなどと言っているが、事実上不可能に近いだろう。私の場合などわずか月に4%の特別勤務手当で膨大な残業をしてきたのだ。要はろくに休めない状況の中で体を壊さない方が不思議だった。そういった意味ではある意味、職業病と言っても間違いないだろう。齢を取ってこんな事態になってしまって、今や元にもどることはできない。あちこちボロボロの状態で、このまま齢を取って死んでいくということになるだろう。結局は自分の中にもう少し、いい加減さというものがあって、それをもっともっと行使すれば良かったかと思う。必要だからと言って、かつては日曜日だけが休日だった頃、当たり前のように学校に行ってクラブ指導や教材研究や教材作りなどをしていた。土日が休みになってもほとんど変わらず。ある程度年齢が行くと、さすがに体がきつくなってきて部活指導をかなり減らした。それでも休日に練習試合や公式試合があれば行かざるを得ない。たとえ試合が半日であっても、結局は1日がかりになってしまう。

 今や全国で教員不足が深刻になっているという。当然だろう。マスメディアが教員の仕事の大変さを報道し始め、しかも残業代がないというのが当たり前で、特金手当でごまかされている。いわば教員一人一人の好意を利用して教育が成り立ってるような実態なのだ。当然 若いものは教員を志願しようとする気にはならないだろう。こうして今や教員採用試験の競走倍率は信じがたいほど下がってしまった。私の場合中学校だったが、今や3倍から4倍の競争率。私が採用された年は中学校社会科の分野で、競争率は何と336人受験して採用されたのがたったの2人。実に168倍の競争率だった。よくぞ採用まで行けたと思う。当時は全体的な競争率もかなり高かった。平均すれば10倍以上はあっただろう。

  でも定年まで働いてきてもう体が持たない、などと思ったことも何回かある。あとは周りのサポートもあって、そしてまた生徒たちの応援もあって、何とかやって来れたというのが正直なところだ。または現職中に突然死亡する先生もいたりして、それはそれで大きな衝撃だった。こんな多忙な中で死んでしまうというのも正直わからないではなかった。

 まあこんなことを今更言ったってしょうがないが、それにしても今現在の教員志望離れが非常に気になる。また現職教員が起こす様々な犯罪も間違いなく急増している。明らかに教員の質的な低下があるとしか思えない。神戸市で起こった小学校での、教員による教員へのいじめ問題などというびっくりするような事件さえ起こるんだから、もう何をどう言っていいのかわからないくらいだ。

 とりあえず転移だけ気をつけて、あとは無理をせず心を落ち着けて、ゆったりと過ごせるようにしていこうかと改めて思うところだ。

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