切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

想念寺~毘沙門堂・・・阿弥陀と毘沙門天  京都府相楽郡精華町   2024.6.4 訪問

2024-06-30 23:13:33 | 撮影
想念寺



 近鉄京都線の狛田駅から南へ歩いて10分くらいのところにある。周辺は住宅と農地が広がっている。駅名の「狛田」あるいは想念寺の住所である「下狛」から推測されるように、「狛」というのは、かつての朝鮮半島にあった高句麗をさしている。昔から朝鮮の人たちがこの地にはるばるやってきて定住し、彼らの持っている様々な技術を生かしてこの地になじみ、当時の地名などがそのまま使われて、今に至っているということになる。山城地方から現在の京都市内においては、こうした渡来人の定住が各自に見られ、その影響は極めて大きかった。

 

 想念寺は 浄土宗のお寺であり、室町時代初期の創建となる。応永 33年、1426年のことだ。創建は総念による。本尊は阿弥陀如来で室町時代の作と考えられている。寺は江戸時代に消失しているが再興されて現在に至る。本尊の他に木造薬師如来坐像があり、現在のところ京都府の暫定登録文化財となっている。これは藤原時代の作とされている。

 閉門されていて境内に入ることはできなかったが、外からも十分よく見えており撮影においては特に支障はなかった。門前の横に地蔵堂らしき建物があり、その中には非常に立派な 厨子が置かれていた。おそらくその中には地蔵が安置されているものと思われる。また本堂などの建物は比較的新しいように思われ、おそらく江戸時代に再建されたものだと思う。様々な石版も立てられていたが、そこそこの年数が経っているような感じがした。

 

 お寺自体に長い歴史と由緒があり、また浄土宗のお寺として地域の人々の心の拠り所としての役割を果たしていると言える。


毘沙門堂(菱田)



『京都 山城 毘沙門天 由来
  京都 山城 毘沙門天は、別名多聞天とも称され、四天皇、七福神のお一人としてもご信仰されています。
 木津川支流煤谷川沿いに春日神社へと参詣する道で、地域を支える交通路の一つでもある この地に京都 山城 毘沙門天はお祀りされています。この毘沙門天は兜跋毘沙門天のお姿をされています。仏典にはこのこの尊を信心すれば天災厄疫・外敵が除かれ、特に兜跋毘沙門天は、王城、地域の守護に効験があるとされています。我が国では仏教伝来間もない頃、聖徳太子が大阪四天王寺、奈良信貴山朝護孫子寺等を建立し、毘沙門天をお祀りされ、国の安穏を祈られました。また平安京では羅城門に毘沙門天がお祀りされ人々の平安が願われました。このことよりこの地域の平安と幸福を願って、ここに毘沙門天が祀られたと思われます。
 現在の祠はこの地に露仏として祀られていた本尊を、地域の雄志が信仰と歴史文化の伝承を願い私材を投じて建立したものです。
 当京都 山城 毘沙門天では毎月一度法要を営み、地域安全、交通安全、諸人快楽、福徳円満、諸願成就を祈っております。』
  (立札より)

 

 近鉄京都線狛田駅より真東に約500m。小川沿いのところにある。非常に小さな祠なので ほとんど目立たない。そばに立て札がありその横に祭事の際の道具などが収められた小屋が建っている。

 こちらの毘沙門天は兜跋毘沙門天というもので、「兜跋」というのは現在の中華人民共和国 新疆ウイグル自治区 トルファン市の1地区だと いう説が有力だ。つまり地名を表している。ただし諸説あり、毘沙門天が日本に入ってきた段階で、国内で創作されたものだという説もある。

 

 毘沙門天そのものはインド発祥であり、中国、朝鮮を通して日本へ入ってきた。日本においては仏教のいわば 守り神のような立場にあり、四天王の中の一尊とされる。本来は武神としての位置付けがあったものの、様々な信仰の対象として広がり、現在では現世利益を中心としたご利益があるとされ、五穀豊穣や家内安全、あるいは商売繁盛、立身出世などのご利益を求め参拝だけではなく、毎年のように地域で祭事が取り行われるという。



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西方寺・三宝寺・・・密集地の大きな寺  京都市伏見区  2024.6.3 訪問

2024-06-28 22:49:43 | 撮影
西方寺

   

 京阪電車伏見桃山駅から、大手筋商店街を西の方へ歩いてアーケード街が終わる。さらにその先は進み北の方へ入ると西方寺がある。そのほぼ向かい側が三宝寺となる。

 開門されていてこの日は誰でも自由に入れる状態であった。思いのほかかなり立派なお寺であり、境内にはシンボルとなるような巨木が大きくそびえ、全体的に緑も豊かだ。本堂などの建物もおそらく再建はされているであろうが、かなり大きくこの地にこれほどのお寺があるとは思いもしなかった。

 駒札も何もなくこの場で情報は全くわからず、真宗大谷派のお寺ということだけの情報であった。その後色々と調べてかなり由緒のあるお寺であるということがわかった。

   

 西方寺はもともとは鎌倉時代後期に創建された天台宗のお寺で、名前も久米寺といった。金札宮の境内にあり、元亨二年(1322)存覚による開基となる。後年、後光厳天皇から現在の名前をいただき、西方寺となった。南北朝の頃には後柏原天皇の勅願所であり、さらに 豊臣秀吉による伏見城建設でさらに移転。そして江戸時代現在地に移った。

 これほどの由緒のあるお寺であれば、駒札があってもいいようなものだと思う。外見からはそこまでのものとは思えなかった。やはり京都のお寺というのは応仁の乱や天明の大火などで様々な災禍に遭い、再建されたり移転したりしたものが多く、 一部を除いては本堂などの建物などは比較的新しいように見える。やはり多くが 江戸時代に再建されて、今の状況になっているということだ。

  


三宝寺

 

 京阪電車伏見桃山駅から、大手筋商店街を西の方へ歩いてアーケード街が終わる。さらにその先を進み北の道を入ると三宝寺がある。

 浄土宗のお寺で創建等の詳細は不明。平門の状態であり門の柵越しに見るだけしかできなかった。中央に本堂へ至る石畳の道があり、その両サイドは豊かな緑に覆われている。横方向へ目を向けても大きな木の葉しか見えない。本堂も一部が見えるだけということで、これ以上は どうしようもなかった。

 

 境内には 一部、紫陽花の花が咲いていて緑一色ではなく、よく手入れがされているのがわかる。ズームを利用するとその中に銅像が見えた。浄土宗のお寺ということで、法然もしくは親鸞聖人だろうか。横の姿しか見えなかったので判別はつかなかった。おそらく前者だと思われる。

  
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金攫八幡宮(小北山八幡宮) 正一位稲荷社・西教寺  京都市北区 2024.6.1 訪問

2024-06-26 22:51:13 | 撮影
金攫八幡宮

 


『当、八幡宮は小北山八幡宮とも呼ばれ、今か337年前貞亨二年卯正月(一六八五年)山城国石清水八幡宮より御分霊、この地山城國葛野郡衣笠村字小北山の産土神として大神を崇敬信仰する人々が加護を受け今日に至っています。
 祭神は応神天皇で仲哀天皇の皇子、御母は神功皇后であります。
御在世の御名を大鞆別尊と申し一に譽田別尊とも胎中天皇とも称せられます。
天皇の御神徳は我国文教の祖、殖産興業の守護神として崇められ殊に御長寿なるを以って延寿の大神として厚く崇敬されています。
 奉遷より社頭の附近は田圃の向に僅少の人家が散在する状態でありましたが今日では住所も京都市北已平野桜木町となり京都の西北の一角で人々 に親しまれる八幡宮として存在しています。
 また、境内東側の大きな木は「黃金モチ」の木です。
秋から冬には赤い実を湛えお参りの皆様をお迎えしています。
 本殿は昭和四十二年秋に改修され、それまでの檜皮葺屋根から鋼葺屋根に改め現在に至っています。

 令和四年十月
     八幡宮』   (掲示板より)

 

 西大路通りを北へ走ると平野神社がある。さらにその北方の西大路通り沿いの西側に、この八幡宮がある。付近は北野天満宮や金閣寺などにも近い。
 江戸時代の初めに、石清水八幡宮から祭神をこの地に勧請し たのが始まりとされる。 祭神は応神天皇となる。今では地域の信仰を集める神社として親しまれているようだ。

 

 また隣にある稲荷社は正一位 とあるように、伏見稲荷大社の祭神をこの地に勧請し、同じ敷地に建てられている。
 江戸時代の初め頃はこの辺りは人口が少なく、田んぼが広がるような土地で人々は農耕の広がりと豊作などを念じて、この地に神社を創建したようだ。やはり石清水八幡宮から祭神を勧請したということで、当時の人々にとってもかなり貴重で頼りがいのある神社であったと考えられる。さらに伏見稲荷大社より稲荷社を同じ土地に迎えて、豊作祈願や商売繁盛 などを祈願したものと言える。

 神社名は、金攫八幡宮と言うが、これは「一攫千金」とも解され、縁起のいい名前として 人々の大いなる信仰を集めた。

 


西教寺



 金攫八幡宮に隣接している。このお寺の情報は全く見つけられなかった。従って創建や由緒等についても全く不明。

 建物そのものは寺には見えにくい。 少し独特な雰囲気の建物が街路沿いに建っているという印象であり、従って山門や境内といったものも見かけられない。建物の南の壁に即して、石造物・石地蔵などが並べられていて、少し色が塗られ前掛けのようなものがかけられている。これがお寺らしい目印となる。

 


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西念寺・長福寺・・・詳細不明   京都府京田辺市    2024.5.30 訪問

2024-06-24 22:46:31 | 撮影
西念寺(草内)

  

 京田辺市内には西念寺という名のお寺が 数カ所ある。こちらは正式名称が「大照山西念寺」 という。草内地域にあり、周辺は幹線道路の南側に住宅街と農地が広がる地域となる。お寺そのものは、道路から少し西側へ入ったところにあってやや 分かりにくい。

 浄土宗のお寺で本尊は阿弥陀如来となる。寺の前に到着すると、第一印象は全体的にやや無造作な雰囲気が感じられる。門は開けっぱなしで寺の名前も何もなく、境内らしき敷地は少しの樹木と、あとは小さな祠の中に石地蔵が並べられていて、かろうじてここがお寺であるということがわかる。もちろん廃寺というわけではないが、何かそういう風な雰囲気を覚えてしまいそうだ。住職さんがいるような気配もなく普段からこういう状態なんだろうか。寺の前や隣は民家が連なっているので、全く孤立無援というわけではない。普段は無住のお寺なのかもしれない。

    


長福寺

   

 上記の西念寺から西の方へ歩いたところにある。浄土宗西山禅林寺派のお寺で、本尊は阿弥陀如来となる。

 開門されていて境内に入り撮影を始める。敷地全体はやや細長く、境内は緑が非常に豊か。大きな木 もあり、よく整備されておりお寺独特の境内の雰囲気がよく伝わってくる。本堂の建物も中央にあって屋根が高く しなっていて、存在感がある。立派な鐘楼もありお寺全体の存在感がよく伝わってくる。

 

 由緒等は調べたものの全くわからなかった。浄土宗系のお寺は戦国時代末期に創建されたものが比較的多いようなので、こちらもそのあたりかもしれない。

   

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法然院・・・専修念仏      京都市左京区    2024.5.29 訪問

2024-06-23 22:18:43 | 撮影
 

『法然院

 善気山万無教寺と号し、浄土宗系単立寺院である。
 この地はもと法然上人が弟子の住蓮、安楽と六時礼讃を勤めた旧跡で、寛永年間(一六二四〜一六四四)ほとんど廃絶していたのを延宝八年(一六八〇)知恩院第三十八世万無心阿上人と弟子忍激が中興したものである。
 本堂には恵心僧都作阿弥陀如来坐像と法然上人自作木像を安置し、直壇には毎晨朝に二十五の生花を散華する。
 方丈は、桃山御殿の遺物を移建したものといわれ、襖絵十四面の「桐に竹図」「若松図」「槇に海棠図」及び屏風の「雪松図」はいずれも重要文化財に指定されている。
   京都市』  (駒札より)

   

 大文字山の麓にあり、安楽寺の北側に位置する。元々は法然の弟子であった安楽上人と住蓮証人の活動の場でもあったと考えられ、お寺というよりは草庵のようなものだったと考えられている。そういった意味では法然院の元のお寺の創建や詳細についてはよくわかっていない。ずっと後年になってから法然の居住地が分かり、そこに建物を建て法然院としたのが 江戸時代の初期のことだ。

  法然はもちろん平安末期から鎌倉時代初期の僧であり、極めて若い頃から仏道に入り 様々な修行を経て、比叡山や清涼寺などでさらに修行を積んだ。そんな中、中国における浄土宗の祖という呼ばれる善導の「称名念仏」を知り、自ら勉強を重ねて改めて、「専修念仏」を唱えるようになる。弟子たちも含めてこれが布教されると、文字なども読むことのできない庶民にも農民にも受け入れやすく、大いに広まり信者を増やしていく。安楽上人と住蓮上人は後鳥羽上皇の怒りを買って処刑されることになるものの、法然の教えはさらに若い 弟子たちに引き継がれ、全国に広まっていく。

    

 その頃にはこの地に拠点としてのお寺を創建しているようだが、後に荒廃し江戸時代になってようやく、法然院としての寺院が形作られ、法然の専修念仏の教えの中心地として多くの人々に支えられるようになる。宗派は浄土宗であるが、戦後になって浄土宗系ではあるものの、単立寺院として独立した立場で多くの人々の熱い信仰を得ている。

   
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