高市大明神
高市大明神は東本願寺から北東の方向にある。周囲は民家や中小企業の建物が並んでおり、それらの間に挟まれた極めて小さな神社だ。「高市」は「たけち」と呼ぶ。
ここについてはネット上も含めてかなり時間をかけて、あれこれ調べてみたが、有力な情報は全くと言っていいほどなかった。今でも大明神を名乗っているということで、おそらく平安時代に神仏習合が進み当時は仏様の化身が明神であると考えられていたようだ。そう いった意味では、日本古来の神の祠に祀られていた祭神が仏教の興隆によって、一部合体したようなものが現れ、それを明神と呼んだのではないかと考えられる。
この土地は、その平安時代に藤原貴族たちが遊び呆けていた河原院跡地であり、後に政治が停滞する中で徐々に地侍たちが現れ、武士の誕生とともに貴族の時代は終わりを遂げる。そんな中、この土地に明神さんが残ったのだろう。高市明神だけではなくて、梅春大明神、荒熊大明神と祭神が3者祀られている。あとの二つの明神はここだけではなく、九州も含めあちこちに見られるようだ。このあたりもう少し深く調べれば何か分かることがあるかもしれないが、この辺りまでとした。
本覚寺
『本覚寺
佛性山と号する浄土宗の寺で、團譽上人(玉翁和尚)を開祖とする。
寺伝によれば、源実朝の後室・坊門信子が貞応元年(一二二二)に、西八条の遍照心院(大通院)内に創建し、自らの法名「本覚」から本覚寺と名付けたのが起こりという。その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱による荒廃の後、 細川政元により高辻烏丸に再建され、末寺十四を有する本山となった。その後、後柏原天皇の勅願寺となったが、天正十九年(一五九一)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。
ここは嵯峨天皇の皇子・源融(光源氏のモデ ル)の河原院塩竃の第のあった所で、融は鴨川の水を引き入れて池を造り、塩竃の浦 (宮城県) の景観を移し、毎月難波の海(大阪湾)から海水を運ばせては塩焼きをさせて、その風情を楽しんだといわれている。当地の住所、本塩竃町 にその名残が見られる。
墓地には、江戸中期に八文字屋本と呼ばれるベストセラーを相次ぎ刊行した出版社の全盛期を築いた八文字屋自笑の墓がある。 京都市』
(駒札より)
五条通りと鴨川が交差する五条大橋。その西側数百メートルのところにある。お寺の由緒については上記の駒札の通りだ。
鎌倉時代に入り3代将軍源実朝の後室による創建だとされる。元々は別の場所にあったが、ずっと後になって今の地にうつされた。この場所は貴族たちの別荘のような庭園付きの六条河原院のあった場所であり、「塩竃の浦」(現宮城県)を再現するような庭園を作った。今でもここの地名に本塩竃と残っている。
お寺の境内は緑が豊かでよく整備されており、通路を進むと整然とした本堂が現れる。決して大きなお寺ではないものの、都会の喧騒を忘れさせてくれるような落ち着いた静けさがあり、非常に好感が持てる。この一帯は多くのお寺が集まっており、戦国時代から江戸時代にかけて京都の町の整備において、お寺などが集められた場所がいくつもあった。ここもそのうちの一つだろう。平安の都の中にある門前町のようなものだ。非公開の寺院もあるが、便利な場所でもありゆっくり歩いて回るのもいいだろうと思われる。
ところで「本塩竃」といえば今の宮城県だ。そこの風景を庭園に再現するというのはどういうことなんだろうか。
本覚寺創建の前に、源氏が勢力を増し平安京の朝廷に代わる、新たな武士政権を樹立しようと、各地で戦いが続けられていた。そのような中、奥州地方では奥州藤原氏が強い勢力を保ち、長い間地域を支配していた。そこで源氏による奥州征伐が実施されることになる。源頼朝を中心に欧州各地で激しい戦いが行われた。結果、奥州藤原氏は滅亡する。こうして源氏による勢力範囲が広まっていく。おそらくこの時に塩竃の海を目にした源氏勢力の人々がその美しさにとらわれ、鎌倉幕府の成立後、京の六条河原院にその美しい海と島の様子を再現したんではないだろうか。
ちなみに本覚寺の住所は本塩竃町となる。しかし五条通りを挟んだ北側は、本覚寺前町となる。こういう地名を見るのも結構面白いものだ。
高市大明神は東本願寺から北東の方向にある。周囲は民家や中小企業の建物が並んでおり、それらの間に挟まれた極めて小さな神社だ。「高市」は「たけち」と呼ぶ。
ここについてはネット上も含めてかなり時間をかけて、あれこれ調べてみたが、有力な情報は全くと言っていいほどなかった。今でも大明神を名乗っているということで、おそらく平安時代に神仏習合が進み当時は仏様の化身が明神であると考えられていたようだ。そう いった意味では、日本古来の神の祠に祀られていた祭神が仏教の興隆によって、一部合体したようなものが現れ、それを明神と呼んだのではないかと考えられる。
この土地は、その平安時代に藤原貴族たちが遊び呆けていた河原院跡地であり、後に政治が停滞する中で徐々に地侍たちが現れ、武士の誕生とともに貴族の時代は終わりを遂げる。そんな中、この土地に明神さんが残ったのだろう。高市明神だけではなくて、梅春大明神、荒熊大明神と祭神が3者祀られている。あとの二つの明神はここだけではなく、九州も含めあちこちに見られるようだ。このあたりもう少し深く調べれば何か分かることがあるかもしれないが、この辺りまでとした。
本覚寺
『本覚寺
佛性山と号する浄土宗の寺で、團譽上人(玉翁和尚)を開祖とする。
寺伝によれば、源実朝の後室・坊門信子が貞応元年(一二二二)に、西八条の遍照心院(大通院)内に創建し、自らの法名「本覚」から本覚寺と名付けたのが起こりという。その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱による荒廃の後、 細川政元により高辻烏丸に再建され、末寺十四を有する本山となった。その後、後柏原天皇の勅願寺となったが、天正十九年(一五九一)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。
ここは嵯峨天皇の皇子・源融(光源氏のモデ ル)の河原院塩竃の第のあった所で、融は鴨川の水を引き入れて池を造り、塩竃の浦 (宮城県) の景観を移し、毎月難波の海(大阪湾)から海水を運ばせては塩焼きをさせて、その風情を楽しんだといわれている。当地の住所、本塩竃町 にその名残が見られる。
墓地には、江戸中期に八文字屋本と呼ばれるベストセラーを相次ぎ刊行した出版社の全盛期を築いた八文字屋自笑の墓がある。 京都市』
(駒札より)
五条通りと鴨川が交差する五条大橋。その西側数百メートルのところにある。お寺の由緒については上記の駒札の通りだ。
鎌倉時代に入り3代将軍源実朝の後室による創建だとされる。元々は別の場所にあったが、ずっと後になって今の地にうつされた。この場所は貴族たちの別荘のような庭園付きの六条河原院のあった場所であり、「塩竃の浦」(現宮城県)を再現するような庭園を作った。今でもここの地名に本塩竃と残っている。
お寺の境内は緑が豊かでよく整備されており、通路を進むと整然とした本堂が現れる。決して大きなお寺ではないものの、都会の喧騒を忘れさせてくれるような落ち着いた静けさがあり、非常に好感が持てる。この一帯は多くのお寺が集まっており、戦国時代から江戸時代にかけて京都の町の整備において、お寺などが集められた場所がいくつもあった。ここもそのうちの一つだろう。平安の都の中にある門前町のようなものだ。非公開の寺院もあるが、便利な場所でもありゆっくり歩いて回るのもいいだろうと思われる。
ところで「本塩竃」といえば今の宮城県だ。そこの風景を庭園に再現するというのはどういうことなんだろうか。
本覚寺創建の前に、源氏が勢力を増し平安京の朝廷に代わる、新たな武士政権を樹立しようと、各地で戦いが続けられていた。そのような中、奥州地方では奥州藤原氏が強い勢力を保ち、長い間地域を支配していた。そこで源氏による奥州征伐が実施されることになる。源頼朝を中心に欧州各地で激しい戦いが行われた。結果、奥州藤原氏は滅亡する。こうして源氏による勢力範囲が広まっていく。おそらくこの時に塩竃の海を目にした源氏勢力の人々がその美しさにとらわれ、鎌倉幕府の成立後、京の六条河原院にその美しい海と島の様子を再現したんではないだろうか。
ちなみに本覚寺の住所は本塩竃町となる。しかし五条通りを挟んだ北側は、本覚寺前町となる。こういう地名を見るのも結構面白いものだ。