切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

高市大明神~本覚寺 京都市下京区

2021-04-29 22:34:26 | 社会
高市大明神

 

 高市大明神は東本願寺から北東の方向にある。周囲は民家や中小企業の建物が並んでおり、それらの間に挟まれた極めて小さな神社だ。「高市」は「たけち」と呼ぶ。
 ここについてはネット上も含めてかなり時間をかけて、あれこれ調べてみたが、有力な情報は全くと言っていいほどなかった。今でも大明神を名乗っているということで、おそらく平安時代に神仏習合が進み当時は仏様の化身が明神であると考えられていたようだ。そう いった意味では、日本古来の神の祠に祀られていた祭神が仏教の興隆によって、一部合体したようなものが現れ、それを明神と呼んだのではないかと考えられる。
 この土地は、その平安時代に藤原貴族たちが遊び呆けていた河原院跡地であり、後に政治が停滞する中で徐々に地侍たちが現れ、武士の誕生とともに貴族の時代は終わりを遂げる。そんな中、この土地に明神さんが残ったのだろう。高市明神だけではなくて、梅春大明神、荒熊大明神と祭神が3者祀られている。あとの二つの明神はここだけではなく、九州も含めあちこちに見られるようだ。このあたりもう少し深く調べれば何か分かることがあるかもしれないが、この辺りまでとした。
    


本覚寺



『本覚寺
 佛性山と号する浄土宗の寺で、團譽上人(玉翁和尚)を開祖とする。
 寺伝によれば、源実朝の後室・坊門信子が貞応元年(一二二二)に、西八条の遍照心院(大通院)内に創建し、自らの法名「本覚」から本覚寺と名付けたのが起こりという。その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱による荒廃の後、 細川政元により高辻烏丸に再建され、末寺十四を有する本山となった。その後、後柏原天皇の勅願寺となったが、天正十九年(一五九一)に豊臣秀吉の命によって現在地に移された。
 ここは嵯峨天皇の皇子・源融(光源氏のモデ ル)の河原院塩竃の第のあった所で、融は鴨川の水を引き入れて池を造り、塩竃の浦 (宮城県) の景観を移し、毎月難波の海(大阪湾)から海水を運ばせては塩焼きをさせて、その風情を楽しんだといわれている。当地の住所、本塩竃町 にその名残が見られる。
 墓地には、江戸中期に八文字屋本と呼ばれるベストセラーを相次ぎ刊行した出版社の全盛期を築いた八文字屋自笑の墓がある。  京都市』
  (駒札より)

 

 五条通りと鴨川が交差する五条大橋。その西側数百メートルのところにある。お寺の由緒については上記の駒札の通りだ。
 鎌倉時代に入り3代将軍源実朝の後室による創建だとされる。元々は別の場所にあったが、ずっと後になって今の地にうつされた。この場所は貴族たちの別荘のような庭園付きの六条河原院のあった場所であり、「塩竃の浦」(現宮城県)を再現するような庭園を作った。今でもここの地名に本塩竃と残っている。
 お寺の境内は緑が豊かでよく整備されており、通路を進むと整然とした本堂が現れる。決して大きなお寺ではないものの、都会の喧騒を忘れさせてくれるような落ち着いた静けさがあり、非常に好感が持てる。この一帯は多くのお寺が集まっており、戦国時代から江戸時代にかけて京都の町の整備において、お寺などが集められた場所がいくつもあった。ここもそのうちの一つだろう。平安の都の中にある門前町のようなものだ。非公開の寺院もあるが、便利な場所でもありゆっくり歩いて回るのもいいだろうと思われる。
 ところで「本塩竃」といえば今の宮城県だ。そこの風景を庭園に再現するというのはどういうことなんだろうか。
 本覚寺創建の前に、源氏が勢力を増し平安京の朝廷に代わる、新たな武士政権を樹立しようと、各地で戦いが続けられていた。そのような中、奥州地方では奥州藤原氏が強い勢力を保ち、長い間地域を支配していた。そこで源氏による奥州征伐が実施されることになる。源頼朝を中心に欧州各地で激しい戦いが行われた。結果、奥州藤原氏は滅亡する。こうして源氏による勢力範囲が広まっていく。おそらくこの時に塩竃の海を目にした源氏勢力の人々がその美しさにとらわれ、鎌倉幕府の成立後、京の六条河原院にその美しい海と島の様子を再現したんではないだろうか。
 ちなみに本覚寺の住所は本塩竃町となる。しかし五条通りを挟んだ北側は、本覚寺前町となる。こういう地名を見るのも結構面白いものだ。

  
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玉森稲荷大明神 京都市中京区

2021-04-27 23:28:11 | 撮影
玉森稲荷大明神

 

 西大路御池の交差点から少し東の方へ入ったところにある。住宅街や中小企業の間に挟まれるように玉森稲荷大明神はある。小さな祠全体が屋根付きガレージのような場所に設置されており、京都によくある狭小な間口の神社ではなく、結構を幅の広い間口を持つ。
 創建の詳しいことはよく分かっていないが、平安時代の菅原道真が左遷され彼の地で亡くなる。同行者が京都へ戻り道真を祀る七箇所の御供所を置いた。一から七保之社があって、 そのうち五之保社であり、満願寺があった。後に満願寺は岡崎の方へ移り、ここには玉森稲荷大明神として単独で残ることになり今に至る。そういった意味では平安時代後期の創建ではないかと考えるのが順当なところだろうと思う。


  
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鵺大明神・玉姫大明神・朝日大明神 京都市上京区・・・鵺伝説

2021-04-26 23:14:10 | 撮影
鵺大明神・玉姫大明神・朝日大明神

 

『鵺(ぬえ) 池伝説 (説明)

ニ条公園の北側には鵺池という小さな池がありました。 傍らには不鮮明ですが鵺池碑と書かれた石碑があり、さらにその北側には鵺大明神の祠があり、 そこには新しく復元された碑が建っています。
 平安時代、 二条公園を含む付近一帯は、天皇の住まいである内裏や、 現在の国会議事堂に当たる大極殿を正殿とする朝堂院、 そして今の内閣に相当する太政官など、 国家政治の中心となる官庁街でした。
 『平家物語』 巻 4 によると、 院政期とも呼ばれる平安時代後期、 深夜、 天皇の住まいである内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられた。 そこで弓の名手である源頼政が射落とした怪鳥は、 頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿の鵺( とも書く)であったといい、そのときに血の着いた鏃を洗ったのが、この二条公園の池だと伝えられています。
 この度の再整備において池・流れ施設を整備し、 鵺池碑を移設しました。』
 ( 説明書より)

   

 鵺大明神は二条城の北側の結構広い二条公園の北端にある。ここには玉姫大明神・朝日大明神の祠もあり、三社が並んでいる。しかし扱いとしてはひとつの明神さんということで長年来たようだ。先日このブログで掲載した「神明神社」のところで、「鵺伝説」の紹介をした。その鵺が射落とされて落下したところが、この場所だと言う。他の説もあるがとりあえず、ここが伝承としては有力だと言われている。
 下に神明神社の由緒書きの駒札の内容を再掲載しておく。

『神明神社
 当地は平安時代末期、近衛天皇(在位一一四一~一一五五)がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通(近衛天皇妃の養父)の屋敷跡で、「四条内裏」または「四条東洞院内裡」と言われた。この邸内にあった鎮守の社が神明神社で、天照大神を祭神とし、創建年代は明らかでないが、平安時代から今日まで人々の崇拝の社となっている。
 社伝によると、近衛天皇の時代、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜、空に現れ都を騒がせた。弓の名手であったという源頼政は退治の命を受け、神明神社に祈願をこめた後、見事に鵺を退治した。この時使われた弓矢の「やじり」二本が当社の宝物として伝わっており、今でも祭礼の時に飾られる。当社が厄除け・火除けの神と言われるゆえんである。
 その後、天台宗の護国山立願寺円光院という寺によって管理されていたが、明治初期の神仏分離令によって神社だけが残され、それ以来、神明町が管理を行っている。榎の大木があったので「榎神明」とも言われた。
 また、当社には豊園<ほうえん>小学校内(現在の洛央小学校)に祀られている文子天満宮(菅原道真を祀る)の祭神が戦後合祀されている。
 祭礼は九月の第二土曜日とそれに続く日曜日である。
    京都市』  (駒札より)

   

 と言う空飛ぶ怪物が時の天皇を苦しめた、と言う話の根拠がどこから出たのかはわからないが、おそらく当時の世相の中で、夜中に悲しい声で鳴く鳥の声が、天皇には伝説の怪物である鵺ではないかという話が広がったのが、もともとの話だ。多くの学者がその鳴き声を、様々な古文献から類推しているが、おそらく「つぐみ」ではないかというのが最も有力な説だそうだ。夜中に鳴くその鳴き声は、非常に悲しげなもので、平安時代当時は夜中といえば物音ひとつしない静寂に包まれた中に、そのような鳥の声が聞こえてくると更に気持ちも落ち込むというものだ。そこからこのような伝承が生まれたのではないかと考えられている。この話は平安京にかなり広がり、後に平家物語を始めいくつかの物語等の中にも登場するという。
 二条公園そのものはかなり広い公園で、ある意味この鵺伝説がアピールポイントにしているようで、その伝説に従って射落とされた場所に「鵺池」が整備され、その前に説明書きが置かれている。すぐ横に三社の祠が並ぶ。公園全体は非常に綺麗に整備されており、天気の良い日には近所のお親子連れなどで賑わうようだ。でもこのように整備されていても、大半の人は鵺の伝説というものについては、私と同様ほとんど知らないだろう。撮影している間に一組のカップルが鵺池説明書きを読んでいる姿が目に入った。
 京都というところには、数々のパワースポットといわれる場所もあり、また伝説や伝承あるいは謎に満ちた部分も多いと言われる。このような話が発掘され、こうして少しでも市民や訪れた人々に知ってもらうというのも、積極的ないい取り組みだと思った。

   
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2021年 三室戸寺のツツジ 京都府宇治市・・・壮観!

2021-04-25 22:39:51 | 撮影


『三室戸寺略縁起

当山は西国観音霊場一〇番の札所で、本山修験宗の別格本山です。約一二〇〇年前(宝亀元年)、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩渕より出現された千手観世音菩薩を御本尊として創建されました。
開創以来、天皇貴族の崇敬を集め、堂塔伽藍が整い、霊像の霊験を求める庶民の参詣で賑わうこととなりました。宝蔵庫には平安の昔を偲ぶ五体の重要文化 財の仏像が安置されております。現在の本堂は約一 八〇年前(文化二年)に建立された重層入母屋造りの重厚な建築で、その背後には室町時代の十八神社社殿、東には鐘楼・三重塔があります。』
  (パンフレットより)

 

 久しぶりに三室戸寺へ行く。2~3日前地元の京都新聞に、三室戸寺のツツジが満開で大勢の人が訪れている様子が写真とともに掲載されていた。今日は絶好の青空でしかも日曜日。これは撮影のチャンスと思って訪れた次第。予想はしていたが、同じように新聞記事などを見て来る人多いんだろうなと思っていたが、まさしくその通り。駐車場は満車で出ていく車を待って入る。
 入り口で拝観料を払い参道を歩いて行く。三室戸寺には何度も来ているので境内の様子はほぼ完全に頭に入っている。前回紹介したのは3年前の紫陽花だったと思う。その時には駐車場に入るために車の長い長い列があって、かなりな時間待ってようやく駐車場に入ったが、その後境内は大変な人でごった返していた。今はコロナ禍の元、そこそこの人は来ているものの境内の広さから言って、人口密度はかなり低い。それでもファミリーやカップルがあちこちに楽しげな様子を見せてくれたし、ハイアマチュア・カメラマンは大きな一眼カメラを2台から3台もぶら下げて、熱心に撮影に挑んでいた。私は撮影に行く時には一眼カメラ1台とコンデジ1台だけ。コンデジの方は基本的には毎日持っているが、いわばその日一日の日記のような感じで行動記録として、ポイント毎に撮影するだけだ。
 ツツジは主に広大な庭園の方にあるが、とりあえずはいつものように少し長めの急階段を上がり、重厚な様相の本堂の前に出る。三室戸寺の本堂は京都府の指定文化財になっており、圧倒的な迫力で迎えてくれる。同じく指定文化財の鐘楼、その奥に位置する三重塔とともに、背景の緑の山々、その上の青い空が素晴らしいコントラストを醸し出す。上から下の方の庭園の方を見ると、ツツジがびっしりと庭園全体に広がっているのが分かる。と言っても遠くから見ると、赤や白や桃色などなどが塗りたくられた感じに見える。

     

 いつものようにお守りを購入して下へ降りて庭園に入る。ツツジだけで2万株と言うから大変なものだ。内部に入ると前後両サイド共にツツジに囲まれて、なんとも見事としか言いようがない。白と桃色が全体としては多く、真っ赤なツツジは少なめだ。だからこそ極めてよく目立つ。他のお客さんもその目立つ真っ赤なツツジを間近で撮ったり、あるいはその横に立って写してもらったりなどなどしている。庭園の中でツツジを撮影していると、ツツジだけの画像になってしまう。できれば上の方に見える本堂や三重塔を入れたいところだが、それが見える場所というのがなかなかなくて、苦労する。庭園のかなり上の方まで登っていくと、ようやく遠くに三重塔などが見える。それらをバックに撮影するがやはり遠すぎて、ズームアップしてもなかなか三重塔などが目立たない。逆に言えばそれだけ三室戸寺の境内は、そして庭園は広いということだ。しかし様々なツツジの写真を撮ることができて、かなり満足することができた。

     

 駐車場に戻って各車のナンバー見ていると、大阪や神戸など近隣府県の車が非常に多いのがわかる。帰ろうとした時に黄色のフェラーリが入ってきた。いわばスーパーカーみたいなものだ。三重ナンバー。中には男女4人が乗っていた。1000万円を優に超えるような車だ。よくもまあここまで来るなと感心する。尤も私自身はフェラーリどころか、外車自体に興味も何もない。
 さてツツジが終わったら次は紫陽花の季節となる。その後はハスの花が咲く。これが夏だ。その次は紅葉と続き、三室戸寺は一年を通して花の寺として、その名に恥じないほどのものを見せてくれる。やはり少し前の新聞記事で、境内に新たに藤棚が設けられ、来年から見られると言う。なんとも見事な素晴らしいお寺。でも皆さんほぼ100%の人が花を見るためにやってきており、境内にある十八神社の存在すら知らないだろうし、宝物庫にある五躰の重要文化財の仏像のことも知らないのかもしれない。仏像については何年か前に社務所でお願いをして、見せてもらった。内部にある仏像のなんと見事なこと。セキュリティの関係で、簡単には人々の目に見えるところに置くわけにはいかない事情はあるだろう。ただこの辺りはなんとか工夫して見られるようにしてほしいと思う。
 このようなお寺が我が家から車で10分もあれば行けるところにある、というのは本当に恵まれていると思う。

       
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笠上神社~石舟神社・極楽寺 京都府京田辺市

2021-04-23 22:48:42 | 撮影


笠上神社



『瘡神社
  京田辺市高船里七八番地
 別名を笠上神社ともよばれ、瘡を患う人たちの平癒祈願の信仰がある。
 現在の本殿は、昭和初期に篤志家によって再建されたもので、豊受比売命を祭神とする。 境内には不動明王像も祭られている。
 この高台は、市内の最高所であり、南山城南部・奈良方面が一望できる景勝地である。  ここから西方へ行くと生駒市くろんど池、尾根づたいに北方ヘニキロメートルほどで、天王の朱智神社に至る。
 例祭 四月十日
   京田辺市教育委員会
   京田辺市文化財保護委員会』
   (駒札より)

  

 笠上神社は京田辺市の低い山並みの山中にある。この辺りは京田辺市でも最高位となると言う。神社までは山道を抜ける府道を走り、途中から細い道へ入ってしばらく上っていくと道路脇に神社の看板が出ている。そこに車を置いて後は階段を徒歩で登っていく。神社そのものは奈良県生駒市との県境のギリギリのところにある。
 上記のような駒札があり、基本的なことは分かるようになっている。別名「瘡(そう)神社」ともよばれ、「瘡」にかかった人の病気平癒にご利益があるとされる。瘡とは一般的には切り傷や怪我を表すが、かつては梅毒が一般庶民の間にも広がっており、この病気で困っている人たちを救うべく、このような信仰の場が建てられたんだろう、瘡というのは「かさ」とも 発音され、これが笠上神社の呼び名に変化したようだ。
 階段を上っていくと赤い鳥居が何基か続き、ほどなく境内に出るが、神社よりも先に展望台のような場所があって、そこに見事な八重桜が咲き誇っていたのがが目に入り、思わずそちらにつられて桜の写真を撮りまくった。簡単なベンチも用意されており、ここからの南山城地方一帯の眺めがなかなかのものだ。
 神社の方に行くと、なぜか狐の像がある。稲荷社なのか?そして中央に何と不動明王らしき像が構えているはずなのだが、どういうわけか見当たらなかった。不動明王は真言密教の仏であり、大日如来の化身とされる。果たしてこの神社との関わりはどのようになっているのか。第一ここの神社の創建が全くわからず、かなり昔からあったものなのか、あるいは比較的新しいものなのか。何かきちっとした神社の形式にはなっていない。おそらく創建されたのが比較的新しいものだとしても、当時は今のような便利な道はなかっただろうし、ほとんど人が訪れるようなこともなかったのではないかと思われる。少し下に小さな集落があって、農林業などが行われていたようだ。瘡を直したいと思う人々にとっては、他の人に見られずに参拝できるというのがよかったのかもしれない。
   
 

石舟神社・極楽寺

『石船神社
    京田辺市高船里一一一番地

 覆い屋中央にある流造、板葺の本殿に饒速日命、向かって左の末社に事代主命を右の末社に大国主命をそれぞれまつっている。
 古くは八王神社と称されたが、明治十四年(一八八一)に石船神社に改称された。
 明治時代の『神社明細帳』によれば、「古老の口伝によると饒速日命が天磐船に乗りこの地の櫂峰 に降臨し、それから河内の酵峰に至り、大和の鳥見白庭山に遷ったという。 石船と称する石は社の北の山腹にあり、今は船石という、また舟繁松というのも大将軍という山上にあったが、今は枯れたが、古株が残る。」とある。河内に天降り、神武天皇と戦っ た長髄彦の妹を妃としたという饒速日命の神話をそのまま当社に結びつけたもので、ここが河内や大和との国境近くで巨石もあることから生じた話しであろう。
 現在も北側にある極楽寺との間の山腹に見える巨石を石と伝えている。
  京田辺市教育委員会
  京田辺市文化財保護審議会』
   (駒札より)

  

 石船神社は笠上神社から少し下がったところにある。すぐ隣に極楽寺があり、一体となっているような感じだ。この地域は少し下に集落が広がっており、そこそこの人口もある。
 石船神社のいわれは駒札の通り。天磐船がこの地に降臨したとの伝承から、石船の名がついているんだろう。またこのあたりの住所は高船里と言う。おそらく伝承はかなり昔からのものであろうと思われるし、だからこそ地名にも使われているのだろう。
 神社そのものについては創建は不明だが、これらの伝承に基づいて建てられていることは容易に想像がつく。この場所に建てられたのも、大きな岩がむき出しになっており、その形状が木船のように見えたことから、伝承内容にも合うということで好都合な場所だったのかもしれない。
 神社は山道から少し入ったところにある。塀など何もなく、ちょっとした高台に境内が広がり、全体的に苔や雑草で覆われている。拝殿があり本殿が構える。本殿の建物はさほど古さは感じられなかった。再建されたものなんだろう。神社としては一般的な形式であり、普通のもののように感じられた。すぐ隣の下には極楽寺が建っている。
  


『極楽寺
  京田辺市高船里一一七番地

乗阿大空上人開山とし、天正年間(一五七三~一五九一)の創建と伝えられる。
現在は西山浄土宗に属し、阿弥陀如来像を本尊としている。
〇五重石塔(二基)
一基にもと七重塔で、軸部に四方仏を刻む。他の一基の軸部には四方に梵字を刻む。重厚味のある鎌倉時代後期の層塔である。
〇石造卒塔婆
花崗岩製で高さ約一、七五メートル。頭部は尖頭形に作られ、上部に阿弥陀如来の梵字を刻む。 鎌倉時代のものである。

   京田辺市教育委員会
   京田辺文化財保護委員会』
  (駒札より)

 

 石船神社の隣。境内がそのまま続いてる感じだ。極楽寺は一見したところ無住のように見える。おそらく普段は別のお寺の住職さんが兼任されているんではないかと思われる。本堂などの建物や境内全体もきちっと整備されているわけではないようだ。いわば江戸時代の風景が目の前に見えるような雰囲気。
 駒札で紹介されている通り、江戸時代を目前とした戦国時代の創建だ。本堂は閉まっていて本尊を見ることはできなかった。しかし境内には様々な石造物が並んでいる。五重石塔は見た目にもかなり古いものとわかる。駒札によれば鎌倉時代後期のものだと言う。また石造卒塔婆も鎌倉時代の物だと言う。その他小さな石仏なども色々と見られたが、かなり風化も進んでおり、そこそこ古いものだという感じがする。
 鎌倉時代に作られたものが境内にあるということは、この極楽寺が創建される以前に別のお寺があったのではないか、ということを思わせる。このようなものを わざわざどこかの別のお寺から運んできたということは、そうそう考えられない。極楽寺の下の方にも少し距離があるが、現役のお寺がある。そのお寺の創建は分からないが、そういったところからあえて運ぶような意味は考えにくい。やはり極楽寺の創建が駒札の通りだとすると、それ以前に別のお寺があったと考えるのが自然だろう。この近辺に材料となる花崗岩などが、切り出されるような場所があったかどうかは分からない。でも昔の人たちは、いざとなれば人力と馬の力を借りてソリに乗せ、運び挙げたということもあり得るだろう。
 独特の雰囲気に溢れたお寺であり、石船神社とともに数百年前の雰囲気を感じるのもいいと思われる。

   
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