切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

妙覚寺・・・境内・庭園共に紅葉満開  京都市上京区   2022.11.18 訪問

2022-11-30 22:55:19 | 撮影
   

『妙覚寺は北竜華具足山と号し、京都日蓮宗名刹三具足山及び京都十六本山の一つである。
南北朝時代の1378年、竜華院日実(にちじつ)上人により、信徒で豪商の小野妙覚の四条大宮の邸に創建され、その後、二条衣棚に移ったが、豊臣秀吉による大規模な都市改造の際に、この地に移築された。
一時は、本能寺とともに、織田信長の上洛時の宿所とされ、千利休による茶会も催された。
この大門は、寺伝によると、秀吉が天正18年(1590)に建設した聚楽第の裏門を、寛文3年(1663)に移建したものといわれており、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の方丈・唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である。城門特有の両潜戸を持ち、梁の上には伏兵を配置できる空間が設けられている、建築史上興味深い建物である。』
  京都市    (駒札より)

  

 『妙覚寺は上京区の本法寺や妙顕寺などの多くの寺院が建ち並ぶ寺之内の一画に所在する日蓮宗寺院で、北龍華具足山と号し、洛中十六箇本山のひとつに数えられる。
 当寺の開山は妙顕寺朗源の弟子日實で、小野妙覚の外護を得て永和四年( 一三七八)日像を開祖として開創した。はじめ小野妙覚の四条大宮の居邸で草創され、不受不施の中心的寺院として発展し、のちに二条衣棚に移された。天文法華の乱で泉州に逃れたが、天文十一年(一五四二)に許され、同十七年に旧地に戻った。現在地に移るのは天正十九年(一五九一)の豊臣秀吉の市街区改造の時である。天明八年(一七八八)に大火に遭い、現在の伽藍はその後整備されたものである。
 火災以前の本堂の位置に祖師堂が、その東側に仮本堂が、客殿や方丈は境内西側の一画に整備された。その後本格的な本堂は建てられず明治に入って仮本堂が破却され、本尊が客殿に移されたため、客殿が本堂と称されるようになった。
 境内は大門が南面して上御霊前通に開き、そこから北にのびる参道の先に祖師堂が南面し、祖師堂の西方に本堂と庫裏が東面して建つ。』
  (京都府教育委員会 京都の文化財 第十四集より)

  

 妙覚寺へは久しぶりに訪れた。紅葉時期の訪問は初めてだ。
 地下鉄南北線鞍馬口駅の西側数百メートルの所に位置する。周辺には妙建寺や本法寺など紅葉が名所の寺院も集まっている。名前から分かる通り日蓮宗の寺院だ。かつては本山として全国に数多くの末寺を有していたが、現在では解消され本山・末寺の関係はなくなっている。

 創建は南北朝時代であるが、当時の信徒である商人の名前からつけられたと言うことのようだ。広い敷地と壮大な建物を有しており、大寺院として多数の信仰を集めたが、天明の大火により焼失。現在の伽藍はそれ以降の再建によるものだ。

  

 大きな寺院としての本堂や祖師堂などの建物の他、枯山水の日本庭園を有しており、再建後も有力寺院としての風格を保っている。日蓮宗においては本尊仏は持たず、曼荼羅がその代わりとなっている。現在では再建された多くの建物が、京都市の指定文化財になっており、ただ単に庭園のみならず境内も含めて見どころの多いお寺となっている。特に紅葉は有名であり、名所の一つに数えられている。

 決して観光寺院というわけではないが、場所柄この周辺の名のある寺院を訪れる観光客はどちらかといえば少ない方だ。やはり東山や嵐山の方に集中してしまい、市街地中央部のこの辺りには、個人や小グループの人たちが訪れるのみといったところだろう。訪れた日はやはり個々人、2~3人のグループが比較的多くやってきていた。やはり紅葉の見事さということもあって、本堂に入り庭園を目的にやってくる人も多かったようだ。またマイクロバスで訪れた十数名のグループもあった。駐車場は広く大型観光バスでも訪れることが可能だ。

 

 境内の紅葉はさほど多くはないが、見事な寺院建築とともに色を添え、拝見する上でも撮影する上でもかなり絵になるものだと言える。この日はもちろん庭園に入った。さすがにそこそこ人が来ている。畳の部屋に座って、あるいは縁側に座ってゆっくりと紅葉庭園を眺めている人々、あるいは場所をあちこち変えながら、構図を決めて撮影に夢中な人、また老夫婦や2~3人のグループなどは、庭園や紅葉の感想を話し合ったりして落ち着いて過ごしている様相だった。

   

 私は一人で来ているので、無言のまま庭園を端から端までゆっくり眺めながら、しばらくしてから次々に撮影をしていく。ワイド側で庭園の全体像を撮影。続いて庭のあちこちを切り取って、いい構図になりそうなところをアップで撮影、などなど、いつものようにかなりの枚数を費やした。やはり目の前の実際の庭園というものを見るにつけ、かつて庭師が景色を計算してさまざまな配置を考え造り上げ、ひとつの芸術作品としての庭というものが、日本独自のこのような枯山水庭園というものを定着させた。このようなところに日本文化の独自性というものを改めて感じさせられた。


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毘沙門堂 勝林寺・・・紅葉と風流な演出    京都市東山区    2022.11.15 訪問

2022-11-29 22:31:56 | 撮影
  

『勝林寺
 東福寺の塔頭で、天文十九年(一五五〇)に第二百五世住持・高岳令松によって創建された。仏法と北方を守護する毘沙門天を祀ることから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれている。
 もと、海蔵院という寺の鬼門に当たった事からその鎮守とされ、やがて東福寺一山の鎮守として祀られるに至った。
 本堂は大壇那であった近衛家の大玄関を移して建立され、境内には一切経を埋めた石塔が建てられている。
 毘沙門堂に安置する毘沙門天立像は、高さ百四十五・七センチメートルの等身大に近い一木造の像で、左手に宝塔、右手に三叉戟をもった憤怒相、作は平安時代十世紀後半頃に遡ると言われている。長く東福寺仏殿の天井裏にひそかに安置されていたが、江戸時代に開山・高岳令松の霊告により発見され、勝林寺の本尊として祀られたという。
 脇侍の吉祥天像、善膩師童子像はともに江戸時代の作で、衣の色彩も鮮やかに残っている。  京都市』
 (境内駒札より)

  

『勝林寺 沿革
臨済宗大本山東福寺は、嘉禎二年(1236)に関白九條道家の発願により、藤原氏の氏寺として栄えていた法性寺内に伽藍を建立したことに始まる。東福寺の寺名は、東大寺・興福寺の奈良の二大寺から一字ずつ取ったもので、二十年近くの年月をかけ京都最大の大伽藍を造営し、開山に聖一国師(円爾弁円)を迎えた。その後相次ぐ火災のため、初期の伽藍の大部分を焼失するも、そのたびに見事な復興を遂げ、京都五山列せられるに相応しい名刹となった。勝林寺は東福寺の塔頭寺院の一つで、天文十九年(1550)に東福寺第二百五世住持であった「高岳令松」禅師によって、勝林庵として創建された。本山東福寺の鬼門(北方)に位置し仏法と北方を守護するところから、「東福寺の毘沙門天」と呼ばれている。
本堂は大檀那であった近衛家の大玄関を移築したもので、境内には一切経を埋めた石塔が建つ。数々の絵画・仏像を有し、とりわけ毘沙門堂としての正統性を証明するべく、本尊の秘仏毘沙門天立像をはじめ、他に例を見ない珍しい毘沙門天曼荼羅や、迫力に満ちた虎の大襖絵などが伝わる。また春には、後桜町天皇が御参拝に来られた時に中興開山「独秀令岱」禅師が植樹された「皇桜」、秋には、その紅葉の美しさから「吉祥天」宿ると伝わる、「吉祥紅葉」はもとより庭園には、四季を通じて美しい花々が咲き参拝者の目を楽しませてくれる。』
   (パンフレットより)

 

 紅葉で有名な東福寺の塔頭寺院であり、臨済宗の禅寺でもある。京阪電鉄及びJR奈良線の東福寺駅から東福寺へ向かう途中に、勝林寺の立て看板が常に目につくように立てられており、東福寺への通路から少し離れているのでこのようにしているのだろう。

 かつて訪れた時には、ちょうど若者たちが大勢本堂にて禅体験の真っ最中であり、境内で撮影すると、カメラのシャッター音がやけに響いて気まずい思いをしたことがある。本来お寺そのものはふだん非公開であり、境内そのものは年中入れるが、堂内については予約が必要なお寺でもあった。今回はちょうど秋の紅葉シーズンの特別公開ということで、本堂内に入りこれもふだん非公開の御本尊「毘沙門天立像」を拝観することができた。

 毘沙門天というのは元々仏教発祥のインドにおいて創造されたものであり、それが中国を通して日本に伝えられたものだ。本来は北の守護神として扱われ、その意味では武神としての意味合いがある。北の守護神ということは他の方向の守護神もあり、合わせて四天王の一つとして扱われる。

 日本においては、インド仏教の厳格な定義からはかなり緩やかになり、主に戦いの神といった扱いよりは、勝負の神としての性格が強まり、ひいては五穀豊穣や安全祈願の神扱いといったふうに、一般の人々の信仰を集めやすいような性格となっていった。このような性格を持った毘沙門天の日本における出発点は、京都の鞍馬寺と言われている。

   

 この日はあくまでも紅葉撮影が目的であり、同時に本堂内の毘沙門天立像の拝観も兼ねた。決して広くはない境内ではあるが、勝林寺はなぜか毎年のように独自の演出をして人々を迎えている。カラフルな和傘に手水舎に多くの花を浮かべたり、結構賑やかで華やかな境内を造り上げている。そこに赤や橙の紅葉が日光に反射し、見応えのある風景が眼前に広がる。写真の撮りがいも十分にあると言える。

 本堂に入り、すぐ目の前に小型の毘沙門天像があり、これは本尊の毘沙門天立像の体内から発見されたものだ。そして奥の部屋には、本尊のかつて秘仏として全く公開されていなかった毘沙門天立像がある。伝えによるとこれは定朝作ではないかと言われており、確たる証拠はないものの、そのような話が伝わっていること自体に何らかの理由があるんだろうと思われる。両脇には毘沙門天の妻となる吉祥天尊像。そして両者の子供となる善賦師童士像が配置されている。何れも平安時代の作とされる。しかも保存状態も良く約1000年にわたって今に伝えられている事を考えると、本来ならば国の重要文化財や少なくとも京都市の指定文化財などになっていてもおかしくはないが、他の平安から鎌倉時代にかけての仏像などとともに、何れも何の指定も受けていない。解説の方に理由を訊くいてみたが、その辺りはよくわからないとのことだった。


   (パンフレットより) 
 
 
 今回は境内の撮影及び本堂内の拝観が同時にできて非常に満足だった。やはり特別公開ということで、かなり大勢の人々が訪れていた。必ずしも中高年の方が多いというわけではなく、若い人々も思いのほか多数拝観に訪れている。そういった点からは仏教にしろ神道にしろ、具体的なお寺や本尊、あるいは神社と言う具現化されたものに文化的な価値を認める風潮が、ずっと続いているというのは大切なことだと言える。無論それとともに人によっては明確な信仰心を持って臨まれている方々もおられ、訪れたお寺なり神社なりで必ず参拝している人をよく見かける。私自身は宗教的なものに対する信仰心は正直なところ、無いに等しいが、写真を撮影させていただくという思いで、とりあえず参拝はすることにしている。

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正法寺・・・見事な紅葉の名所    京都市西京区      2022.11.14 訪問

2022-11-27 23:03:35 | 撮影
   

『正法寺
 真言宗東寺派の寺で、奈良の唐招提寺を創建した鑑真和上の高弟で、天平勝宝六年(七五四)に鑑真和上とともに唐から来朝した智威大徳がこの地で修練を行ったことに始まる。古くは春日禅坊と呼ばれたが、延暦年間(七八二~八〇六)に、伝教大師(最澄)が智威の威光を世に示すため、大原寺という寺を創建した。応仁の戦火で焼失したが、江戸時代初期に、恵雲・徴円の両律師により再興され、「西山のお大師さま」として古くから親しまれてきた。
 元禄年間( 一六八八~一七〇三)には徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院の帰依を受け、代々徳川家の祈願所となった。
 寺宝として、本尊・聖観世音菩薩(弘仁畤代)、三面千手観世音菩薩(重要文化財)をはじめ、貞和二年(一三四六)の銘がある地蔵菩薩、鎌倉初期の両界曼荼羅などの仏画、徳川家関係古文書などを蔵する。
 境内には、全国各地から集められた名石があり、「石の寺」とも呼ばれている。特に、東山連峰を望む借景式山水庭園の「宝生苑」は、庭石が象、獅子、蛙、うさぎ、鳥、亀など動物の形に似ているため、「鳥獣の石庭」として親しまれている。
 京都市』 (境内駒札より)

   

 西京区大原野にある。この正法寺にはもう何度も訪れている。5年前初めて来た時には、本堂の建物に入って庭園を見学、撮影した。ちょうど京都東山の方向に遠い景色が借景として使われており、なるほどなと思ったものだ。それ以来毎年のように様々な季節に訪れている。

 春の桜や梅のシーズンなど、いわば花の寺を目指しているようなところもあるが、ここの紅葉は見事の一言に尽きる。寺の向かい側は大原野神社であり、こちらの紅葉も素晴らしい。どちらかといえば一般の観光客やハイカーたちは、大原野神社の方に足が向くようだ。正法寺は入り口から少し入っているので、車道からは少し分かりにくいことがあるのかもしれない。

  

 訪れた日はすでに紅葉満開といったところで、どれもこれも赤や橙色に染まって、目を引きつけるし、また自然とカメラを向けて次々にシャッターを切っていく。確かここの紅葉はこれで2回目となるが、たとえ同じ景色であっても、毎年毎年訪れる価値はある。その時々によって立ち位置も違うし、撮影の構図も違ってくる。こちらには割と女性が多かった。また以前には近くのデイサービスのお年寄りたちが、指導員の方々と一緒に訪れていた。少し人が少ないぶんゆったりできるんだろう。

 調子に乗って撮影していると、なんとカメラのバッテリーがなくなってしまった。電源切ってまたオンにして一枚撮る。それを繰り返して10枚くらいは何とか撮れた。特にお寺の山門を入った境内の撮影が中途半端に終わってしまった。確かにここのお寺は、山門の周り、外側が多くの紅葉に囲まれており、そちらに夢中になって多数撮ってしまったのだ。

  

 大原野神社は紅葉の名所として、ガイドブック等にもよく載っているが、向かい側の正法寺は記載されていることがほとんどないようだ。これだけの紅葉であれば当然、名所といっても過言ではない。大原野神社を訪れる際には是非とも、この正法寺も訪れるべきだと思う。

 
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聖徳院・・・境内には様々な花が    京都市西京区    2022.11.14 訪問

2022-11-26 23:10:58 | 撮影
   

 大原野灰方町にある。すぐ横を京都縦貫道の高架橋が走っている。うっかりすると細い道を入るので見逃してしまいやすい場所にある。事前に地図で確認してここにお寺があることを知っていた。

 細い道を入ると小さな駐車場があり、門前は少し高くなっていて石垣も立派なものだ。割と最近整備されたような雰囲気を感じる。石段を上り境内に入ると、本堂等も新しいように思われた。境内は多くの種類の花で様々な色に満たされており、なかなか見ていてもほっこりするような感じだ。自生しているものではなく、お寺の住職さんあたりが庭に花を植えて育てていったと思われる。

 西山浄土宗、本尊は阿弥陀如来。お寺の情報は色々調べたが何もなかった。山門の前にお寺の名前が彫られた石柱が立っており、その裏側にこの石柱を立てた住職の名前が刻まれていた。それによると「第29代」とある。これから逆算するとおそらく、江戸の初期、あるいはもう少し遡って戦国時代か、その前の室町時代あたりではないかという感じがしないでもない。あくまでも推測だ。この大原野一帯はかなり古くから開けており、名のあるお寺などもかなり古い歴史を持つものが多い。このお寺そのものが全体が新しく見えても、古くなったものを建て替えたということであって、かなり古い由緒を持っている可能性も十分にある。

  

 お寺がある「灰方」という地名は全国的にも極めて珍しく、ここ以外には他府県にほんのわずか数カ所しかない。発祥の地はこの場所だと考えられている。それは人の苗字についても同じだ。これも極めて珍しい苗字であり、各地にわずかに存在するようだが、京都のこの地域に集中している。

 今から十数年前に、京都市の埋蔵文化財研究所がこの辺り一帯を大規模に調査している。この地方は縄文時代から人が住み着き生活をしており、弥生時代から古墳時代、奈良時代あたりにかけての遺跡が数多く見つかっている。古墳も多いが同時に「窯跡」も数多く見つかっている。窯で焼かれた土器が数多く生産され、その焼かれた木材から出た灰が特定の方向に流れていったところから、「灰方」という地名、そしてそのような仕事に携わっていた人たちが同様に、 「灰方」を名乗ったのではないかというのが有力な説のようだ。
 他にも諸説あるようだが、この辺りが合理的な説として当てはまるのではないかと思われる。ということであれば、千何百年にもわたって延々と続いた名前が、今も残っているという意味では、やはり歴史の深さというものを大いに感じさせられた。

  

 おそらくこのお寺もこの地に建立され、多くの人々の信仰を集めたのだろう。こちらは大原野の丘陵地帯にあちこちから煙が上がり、土器が生産され、また同時に畑作も盛んになっていたのだと思われる。おそらく朝廷や後の幕府にとっても大事な土地であったに違いないと思う。

 
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三十三間堂・・・膨大な国宝と紅葉   京都市東山区     2022.11.12 訪問

2022-11-24 23:16:35 | 撮影
  

『蓮華王院 三十三間堂
現在は天台宗妙法院の管理になるお堂で、正式には蓮華王院と言い、長寛二年(一一六四)鳥部山麓(現・阿弥陀ヶ峯)にあった後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。一度、焼失したが、直に復興に着手し文永三年(一二六六)に再建。その後、四度の大修理を経て七百五十年以上の間護持されている。
長大なお堂は「和様入母屋本瓦葺」で、南北に百十八メートルあり、お堂内陣の柱間が三十三あることから「三十三間堂」と呼ばれ、堂内には丈六の千手観音坐像(国宝)を中央に千一体もの観音像(国宝)と共に風神・雷神、観音二十八部衆という三十体の仏像(国宝)が祀られている。境内の太閤塀と南大門は、豊臣秀吉ゆかりの建造物(重文)で、毎年正月に行なわれる「通し矢」にちなむ弓道大会は、京都の冬の風物詩になっている。
  京都市』  (駒札より)

 

 三十三間堂は東大路七条を少し西へ行ったところにある。ちょうど京都国立博物館の向かい側となる。正式な名称は蓮華王院。

 すでに何度か訪れているが、紅葉撮影は初めてだ。本堂である三十三間堂は長大な建物であり、このお堂自体が「国宝」に指定されている。堂内に安置される膨大な数の仏像は、もともと観音二十八部衆が国宝で、その背後にずらりと並ぶ千一体の観音像は一体ずつ国の重要文化財に指定されていた。しかし2年前に文化庁からの答申により、これらもすべて国宝に指定されることになった。こうして建物とその内部に安置されている多数の仏像はすべてが国宝、と言うおよそ考えられないほどの国宝の宝庫となったわけだ。

   
  (以上の4枚の画像は、パンフレットより)

 長大な本堂を真横から一枚の写真に収めることは、極端なワイドレンズを使わない限り無理だ。従って一般撮影は本堂の端まで行って、少し離れた斜め方向から見たり撮影したりするという形になる。これはこれでなかなか壮観な光景となる。

   

 いつものように拝観料を支払って本堂内に入る。順路に従ってゆっくり千体以上の仏像を見ていくが、何度見ても飽きることはない。一体一体の観音像もよく見れば、ごくわずかに顔の表情が違っていたりして興味深いものがある。しかしよく観察すればそのぶんだけ時間がかかるので、その日訪れた目的に従ってどこまで時間をかけて見るのかを決めている。

  

 今回は本堂前の庭園の紅葉の撮影が目的だ。少し早めに本堂を出て庭園に出る。本堂内も人が随分多かったが、庭園の方もそこそこ人が出ていて、あちこちで写真を撮る人がいた。単に紅葉だけではなく春の桜などを含め、様々なシーズンに綺麗な花を咲かせる。庭園はこれはこれでなかなか満足のいく眺めとなる。

 紅葉そのものは決して多くはないが、所々にもみじの木があり赤色に染まっていた。庭園の紅葉を撮影すると、今度は本堂の西側に回る。実はここが有名な「通し矢」の舞台となっている。新春には若者たちが弓道の衣装を身にまとい、次々に矢を放つ。テレビの全国ネットのニュースでもおなじみの風景となっている。その塀沿いに紅葉が見られた。
 ちなみに私は高校時代、一応弓道部員だったことがある。インターハイの府予選に出たこともある・・・

     

 三十三間堂はかなり長い歴史をほぼ無事に近い形で過ごしており、何百年と言う歴史をくぐってきた。建物や観音像などを直接間近で拝見することができる貴重な場だ。周囲にも様々な歴史的な価値のあるお寺や神社等があるので、一緒に回れば言うことなしだろう。
 この周辺ではやはり三十三間堂が圧倒的に名前が知られており、個々人だけではなく大人の団体ツアー客や修学旅行のバスが、何台も駐車場に入ってきて、集団で拝観しているケースがかなり多い。できればそのような時間帯を避けて、やや静かな雰囲気で拝観するのがいいだろう。

  
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