『妙覚寺は北竜華具足山と号し、京都日蓮宗名刹三具足山及び京都十六本山の一つである。
南北朝時代の1378年、竜華院日実(にちじつ)上人により、信徒で豪商の小野妙覚の四条大宮の邸に創建され、その後、二条衣棚に移ったが、豊臣秀吉による大規模な都市改造の際に、この地に移築された。
一時は、本能寺とともに、織田信長の上洛時の宿所とされ、千利休による茶会も催された。
この大門は、寺伝によると、秀吉が天正18年(1590)に建設した聚楽第の裏門を、寛文3年(1663)に移建したものといわれており、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の方丈・唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である。城門特有の両潜戸を持ち、梁の上には伏兵を配置できる空間が設けられている、建築史上興味深い建物である。』
京都市 (駒札より)
『妙覚寺は上京区の本法寺や妙顕寺などの多くの寺院が建ち並ぶ寺之内の一画に所在する日蓮宗寺院で、北龍華具足山と号し、洛中十六箇本山のひとつに数えられる。
当寺の開山は妙顕寺朗源の弟子日實で、小野妙覚の外護を得て永和四年( 一三七八)日像を開祖として開創した。はじめ小野妙覚の四条大宮の居邸で草創され、不受不施の中心的寺院として発展し、のちに二条衣棚に移された。天文法華の乱で泉州に逃れたが、天文十一年(一五四二)に許され、同十七年に旧地に戻った。現在地に移るのは天正十九年(一五九一)の豊臣秀吉の市街区改造の時である。天明八年(一七八八)に大火に遭い、現在の伽藍はその後整備されたものである。
火災以前の本堂の位置に祖師堂が、その東側に仮本堂が、客殿や方丈は境内西側の一画に整備された。その後本格的な本堂は建てられず明治に入って仮本堂が破却され、本尊が客殿に移されたため、客殿が本堂と称されるようになった。
境内は大門が南面して上御霊前通に開き、そこから北にのびる参道の先に祖師堂が南面し、祖師堂の西方に本堂と庫裏が東面して建つ。』
(京都府教育委員会 京都の文化財 第十四集より)
妙覚寺へは久しぶりに訪れた。紅葉時期の訪問は初めてだ。
地下鉄南北線鞍馬口駅の西側数百メートルの所に位置する。周辺には妙建寺や本法寺など紅葉が名所の寺院も集まっている。名前から分かる通り日蓮宗の寺院だ。かつては本山として全国に数多くの末寺を有していたが、現在では解消され本山・末寺の関係はなくなっている。
創建は南北朝時代であるが、当時の信徒である商人の名前からつけられたと言うことのようだ。広い敷地と壮大な建物を有しており、大寺院として多数の信仰を集めたが、天明の大火により焼失。現在の伽藍はそれ以降の再建によるものだ。
大きな寺院としての本堂や祖師堂などの建物の他、枯山水の日本庭園を有しており、再建後も有力寺院としての風格を保っている。日蓮宗においては本尊仏は持たず、曼荼羅がその代わりとなっている。現在では再建された多くの建物が、京都市の指定文化財になっており、ただ単に庭園のみならず境内も含めて見どころの多いお寺となっている。特に紅葉は有名であり、名所の一つに数えられている。
決して観光寺院というわけではないが、場所柄この周辺の名のある寺院を訪れる観光客はどちらかといえば少ない方だ。やはり東山や嵐山の方に集中してしまい、市街地中央部のこの辺りには、個人や小グループの人たちが訪れるのみといったところだろう。訪れた日はやはり個々人、2~3人のグループが比較的多くやってきていた。やはり紅葉の見事さということもあって、本堂に入り庭園を目的にやってくる人も多かったようだ。またマイクロバスで訪れた十数名のグループもあった。駐車場は広く大型観光バスでも訪れることが可能だ。
境内の紅葉はさほど多くはないが、見事な寺院建築とともに色を添え、拝見する上でも撮影する上でもかなり絵になるものだと言える。この日はもちろん庭園に入った。さすがにそこそこ人が来ている。畳の部屋に座って、あるいは縁側に座ってゆっくりと紅葉庭園を眺めている人々、あるいは場所をあちこち変えながら、構図を決めて撮影に夢中な人、また老夫婦や2~3人のグループなどは、庭園や紅葉の感想を話し合ったりして落ち着いて過ごしている様相だった。
私は一人で来ているので、無言のまま庭園を端から端までゆっくり眺めながら、しばらくしてから次々に撮影をしていく。ワイド側で庭園の全体像を撮影。続いて庭のあちこちを切り取って、いい構図になりそうなところをアップで撮影、などなど、いつものようにかなりの枚数を費やした。やはり目の前の実際の庭園というものを見るにつけ、かつて庭師が景色を計算してさまざまな配置を考え造り上げ、ひとつの芸術作品としての庭というものが、日本独自のこのような枯山水庭園というものを定着させた。このようなところに日本文化の独自性というものを改めて感じさせられた。