今日11月25日、新聞の片隅に小さな記事が出ていた。それは戦後文壇の気鋭の小説家、三島由紀夫が自決してちょうど50年となる日だ。
三島由紀夫の名前を知らない人は、少なくとも大人であればいないのではないかと思う。実際に彼の作品を読んでなくても名前はおそらく知っているだろう。私自身はこの事件の前に「金閣寺」を読んでいた。もともと私の家は超貧乏で、教科書以外に小説はおろか本らしい本も全くないような家だった。したがって文学作品などと言うものは教科書でしか知る由がなかった。つまり中学生や高校生なら読んでいるであろう夏目漱石や宮沢賢治など、その名前しか知らない有様。しかし浪人中にアルバイトして貯めた金で小説を買えるだけ買って読みふけっていた。
その中に三島由紀夫の作品もあった。三島由紀夫がおそらく師と仰ぐノーベル文学賞受賞者の川端康成の小説も少しは読んでいた。しかし川端の作品には何かよくわからないが、自分の心境に合わず彼の作品のどこがいいのか全く理解できなかった。しかし三島の作品、金閣寺はこれも理由はよくわからないが、強烈な印象を受けた。実話を基にしたフィクションではあるとは言う物の、主人公の心の変遷や、金閣寺と言う具体物の象徴的な存在が彼に与えた影響などが自分の気持ちの中にすっと入ってきた。そういった意味では老人となった今でも川端作品は読む気にもなれない。しかし三島の作品については今のところ時間がなかなか取れずに実現はしていないが、再読したいと言う気持ちはある。
1970年と言う年は戦後四半世紀。日本が高度経済成長をある程度達成し、東京オリンピックの成功によって世界に名を広げさらに各産業部門でも大きな成長を遂げている最中だった。しかし同時に資本主義経済の日本国内においては、様々な社会的経済的な矛盾が噴出しており、世の中は必ずしも国民皆が上向いて頑張ろうといった状態ではなくなっていく過程にあった。当面の課題は沖縄返還問題であり東京新国際空港建設問題であったと思う。大学を中心に革マルや中核と言う新左翼系の学生運動が尖鋭化し、70年安保改定の問題も槍玉にあがっていた。
そんな中各種問題を吹き飛ばすかのように大々的に開催されたのが「1970年大阪国際万国博覧会」の開催だった。これからの未来社会は希望にあふれ、世界が平和になり便利になり明るさや躍動感が必要以上に強調された博覧会の様相を呈していた。国内における大宣伝もあり国民の博覧会に対する期待は大いに高まり、3月から9月までの半年間に予想を大きく上回る6千数百万人の入場者が訪れ、中でも前年にアメリカのアポロ計画で月面着陸において月の石が回収され、この博覧会でも展示されたと言う、当時の人々にとってみれば信じられないほどの科学の発展と言うものが、強烈な形でそれぞれの心の中に浸透していくことになる。
9月に終わった万国博覧会。一転日本は静かになった。このような状況の中で数年前から三島由紀夫は私設の「軍隊的」組織である「盾の会」を起ち上げ、若者たちを集めて山中において武闘訓練などを行い、様々な討論を通して戦後日本の置かれた状況に憂いを持ち、一同が共感しながら日本クーデター計画を進めていた。当時三島由紀夫が自ら制作した短編映画「憂国」を見たことを覚えている。三島由紀夫は比較的小柄で威厳があるように見えない。そのために彼は徹底的に体を鍛え筋肉をつけ、いわば自分が憂国の武士であるかのような存在としてアピールをしていたのだ。当時は時々ニュースなどに盾の会の動向が放映されたりしていたのを覚えている。著名人である彼は当時既にノーベル文学賞の有力な候補者だった。したがって彼の存在や発言と言うのはかなり大きな影響力があったし、テレビやラジオ、あるいは雑誌などで様々な著名人と討論をしている。それらを読んだ事はないが、彼自身が軍隊式の訓練をしている様子からどのような思想的背景を持って行動していたのかは、見当が十分についたものだ。一般的には「右翼思想」と言われそうなものだがなぜか当時は「民族主義」と言う表現が使われていたような覚えがある。あくまでもうろ覚えだが。また彼は自身との間逆の考え方である東大全共闘の新左翼の連中と討論もしている。これはかなり話題になって、いわゆる新左翼のあり方や考え方といったものにも一定の影響を与えたようだ。前年度の東大入試は、新左翼による武力闘争の激しさのために中止になると言う前代未聞の事態が起こっていた。
そのような混乱した状況の中で三島由紀夫の動きも、ただ討論や考え方がどうのこうのではなく、具体的な行動によって自分たちのいわゆる「憂国」の思いを示さなければならないと言う動きにつながっていく。当時彼は自衛隊の幹部にも顔が効いて、今では考えられないが自衛隊からすれば一国民が申請して自衛隊本部の中に入り、自衛隊の高官と話をするなんて言うことを行っていた。自衛隊の高官、あるいは当時の防衛庁の幹部たちはかなり多くが先の大戦経験者だ。三島由紀夫の考え方と思いが重なったとしてもある意味当然だったのかもしれない。そのようなつながりを生かす形で綿密な行動計画を立てて、この11月25日に決起することになった。
彼は部下たちを率いて自衛隊市ヶ谷駐屯地の本部に許可を取って入っていく。その時に日本刀も持ち込んでいる。なぜそんなことが許されるのかと思うが、当時は三島由紀夫は自衛隊の幹部連中にとっても顔見知りであり、一種の同志的な存在であったんだろう。そして長官室に入り長官をその場で拉致する。三島由紀夫は庁舎のバルコニーに立って自衛隊員を集めるように指示をし、長官を拉致された自衛隊としては仕方なく一定数の自衛隊員をバルコニーの前に集めた。ここで三島由紀夫は約20分に及ぶ演説を始める。ところが演説が始まると、若い自衛隊員からは激しいヤジが飛ぶ。もちろん三島の行動に対する否定のヤジだ。年配の幹部たちは三島の言っていることをなんとか聞き取ろうとしていた。三島由紀夫は「自衛隊諸君、今こそ立ち上がる時だ、自衛隊を天皇陛下にお返しし、日本は帝国になるのだ」と言うような趣旨の発言をしていたようだ。
しかし若い自衛隊員たちの激しいヤジは収まらず三島は決起は失敗と悟って引き下がり、長官室の前の廊下に出て短刀を取り出す。既に辞世の句を残しており、第一の部下である森田秘勝(当時早大生)が日本刀で介錯をする。三島は自分の腹に短刀を突き刺し横に引く。小腸がはみ出たと言う。森田の介錯は失敗し、途中で交代して他の部下が最後に首を切り落とした。続いて森田必勝も同じく割腹し斬首。廊下は血の海になったと言う。
こうして2人が自決しクーデター計画は完全に失敗に終わる。生き残った部下たち数人は逮捕される。当然この事件は日本国内のみならず世界的な大きなニュースとなった。三島由紀夫の名はノーベル賞候補者としても知られていたし、決起行動そのものの異常さから日本独特の行動の仕方、考え方と言うものが様々な角度から考えられるようになった。
三島由紀夫にとってみればこれが「日本的美的精神のの体現」といったものになるんだろうか。川端康成は三島の死に対して「惜しい人を亡くした」と言ったらしい。彼自身が常に「美しい日本」と事あるごとに口にしていた。三島由紀夫はただ単にその思いを口にするだけではなく、「美しく死ぬ」を通して本人が記してきた作品の総仕上げにしたのかもしれない。
事件から50年。あれから半世紀とは・・・、日本と言う国も大きく変わった。三島の行動が賛同されるべきものでない事は当然だ。今の日本においてはこの事件をリアルなものとして捉えるのは難しいだろう。良きにつけ悪しきにつけ今や日本国民の大半は、新人類と言う言葉さえ死語になってしまい、今や同調圧力の中でただおとなしく上の言うことを聞いて従うだけの暮らしぶりになってしまっている。私自身としては反面教師というかなんと言っていいか、うまい表現が見つからないが、社会に対して個々人の権利が蹂躙され愚弄されるような社会と言うものを、どのように解釈しその内容をどう訴えていくのか、と言うことが必要なのだなと思うばかりだ。
かつての盾の会の生き残りメンバーたちは、毎年この日に慰霊祭をしていると言う。それは勝手にどうぞとしか言いようがない。私自身は当時は確かに相応の衝撃を受けたが、今となっては遥か彼方の一種のフィクションでしかないように思える。ただ有能な作家を失ったことだけは確かだろう。