切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

増福寺 京都市山科区・・・水子地蔵

2021-10-31 22:08:39 | 撮影
増福時

 

 増福寺は稲荷山トンネルの東側出入口の北側にある。浄土宗のお寺で地域密着型の数多いお寺の中の一つだ。創建と由緒については一切わからない。
 山門から境内に入ると全体的に緑が豊かで、非常に落ち着いた雰囲気がある。本堂もごく一般的な造りであり、全体として一般的なお寺だという感じがする。境内には石地蔵が数多くはあり、なかにはかなり風化して古いのものもある。一方ではずらりと横に並んだ比較的新しい地蔵も見られた。その地蔵の中央に赤ん坊を抱いた少し大きめの石地蔵があった。いわゆる「水子地蔵」だ。
 水子地蔵は各地のお寺やあるいは道端の地蔵尊などに比較的よく見られる。それだけ一般的な地蔵であり、人々から親しまれているということだ。時々道端の地蔵尊に手を合わせている女性の姿を見かける。男性が手を合わせてる姿はほとんど見ない。やはり女性が多いのにはこの水子地蔵の性格があるんだろう。

 
 
 水子というのは様々な事情で生まれてこなかった、あるいは誕生後1年以内に不幸にして亡くなってしまった赤ん坊のことをさしている。そしてその霊を祀るためにあるのが水子地蔵だ。別名子安地蔵とも言う。
 水子地蔵にもいくつか種類があって、地蔵が合掌しているもの、杖を手にしているもの、そして赤ん坊を抱いてるものがある。この水子地蔵が妊婦さんの安産を守ってくれる地蔵尊ということになる。従ってこのような地蔵のあるお寺については、よく女性が手を合わせているケースを見ることがある。あるいは夫婦揃って妊娠祈願に訪れている場合もある。
 お寺だけでなく道端の地蔵尊にもこのようなものがあるということ自体、ずっと昔からの庶民の様々な苦しみや願いを、祀られた地蔵に気持ちを託して祈るということが、大きな気持ちの拠り所になっていたものだと考えられる。このようなところに昔からの庶民の生活の中で、苦しい中生きる拠り所ともなっていたんではないかと思う。

  
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信正山 本栖寺 京都市伏見区

2021-10-29 22:31:21 | 撮影


信正山 本栖寺

 

『信正山 本栖寺 の沿革
 当山は京都市堀川四条 日蓮宗大本山 本国寺○○須信正院( 慶長六年創建)同本須院( 慶長八年創建)院跡 合併 した寺である
 世界大戦の時 洛中に 起って 戦塵の余波は 寺院建造物の 強制疎開に及ぶ
 幾春秋をかけて ここ 伏見桃山に 移住新築する
 天地無窮の大自然を 千古の歴史 文化との 調和の中に 人間の尊厳○が確かめられ 宗教的境地に 陶冶される 絶好の地として 定む まさに法華経の 徳人々の 心に 安らぎて 求め 与える 本格の 栖である
 昭和58年4月 20日 立教開示の日』
  (境内の石文より) 
  *○は判別不能  *判別した文字に一部、誤りの可能性あり

 

 伏見区の墨染から六地蔵を結ぶ墨染街道沿いにある。とはいっても街道からは北のほうへある程度向かって行かなければならない。全体が丘陵地であり、お寺のある場所はその辺りの最も高いところとなる。たどり着くのははっきり言ってややこしいし難しい。
 お寺全体は山門からしてかなり新しく、比較的最近に改築されたものと思われる。境内に入ると非常によく整備されており、背後に広大な墓地があるために、墓参りの人たちのためにも非常に綺麗に整理されている。本堂も比較的近代的な雰囲気を持っており、これも割と新しいと思える。境内を入ったところに石に刻まれたこの寺の沿革が記されていた。
 ただ彫られた文字がかなり癖のある文字で非常に読みにくく、一文字ずつ判別して行ったが、その結果が上の文章だ。一部判別不可能なところもあるし、判別できても似た文字の間違いかもしれないところもある。しかしおおよその沿革については、なんとかくみ取れそうだ。
 元々は別々のお寺が江戸時代初期に創建され、後に合併されたものだと思われる。それらのお寺は今の堀川四条付近にあったものだろうということで、長い間その地にあったものが、先の戦争の結果、今の伏見区に移ったものだということのようだ。結果的には京都市の方は一部爆撃を受けただけで、京都市内の大半は無事ではあったものの、戦時疎開の意味を含めて桃山の地に移ってきたものと言える。
 読み取った文章には文法的におかしな点がいくつもあり、これは私のような素人がなかなか読み取れないので仕方がない。本来はまともなきちっとした文章であったろうと思われる。
 お寺の場所が高いところにあるので、ここから宇治市から京都市の六地蔵方面が一望できる。墓地としてもこのような場所にあると、亡くなられた方々も毎日下界の様子を楽しむことができるのではないだろうかと思えた。

  
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安禅寺 京都市南区

2021-10-28 21:22:58 | 撮影
安禅寺

 

 安禅寺はJR京都線桂川駅から東へ約1km ほどのところにある。近くを桂川が流れており、江戸時代には度々氾濫によってお寺が流されたと言う。その都度再建されて今に至っている。
 創建等の詳細についてはよく分かっていないが、お寺に伝わっている話としては室町時代に創建となっている。当初は現在の御所内部にあったそうだが、江戸時代に現在地に移された。西山浄土宗のお寺であり、かつては洛西三十三所観音霊場巡りの一箇所であったが、後に霊場巡りが中断となり、後に復活された時には観音霊場の番外札所となっている。
 お寺そのものは比較的で立派なものであり、境内も広くよく整備されている。本堂の造りも美しく典型的なお寺らしいお寺と言える。場所はやや不便だが、車で行くぶんには国道171号線の桂川手前の分岐点からすぐのところで、その意味では便利だ。観音堂には数十の観音像が置かれていると言う。おそらく特別公開の時にしか見られないものだと思われる。

      
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西念寺 京都市山科区

2021-10-27 23:04:44 | 撮影
西念寺

 

『紫雲山 西念寺
 近世初期の竹鼻村には、村の貧しい歴史と共に歩む「東堂」円信寺・「中堂」西念寺・「西堂」地蔵寺の 「竹鼻三ノ堂」と呼ばれる三つの小さな寺々があり、 当寺のみ明治初期の廃仏毀釈の嵐の波に揉まれながら村人の熱い支えにより唯一残った寺院である。山門前の道路以南を竹鼻堂ノ前町として今なお現町名が残る。
 「元禄改帳」に「浄土宗、一心院末寺同郷摂取院末寺 西念寺、恵南。屋敷地東西十間南北九間除地境内十六間横九間、本堂梁三間桁四間、藁葺、百余年前天正年中建立、開基知レ申サズ候。」とある。しかし昭和五年出版「山科町誌」に西念寺開基は、瑞 蓮社方譽紫光西雲大徳と記載されるのは、文政五年当時の住持であった鏡譽隆遠和尚の造になる位牌が堂内に現存することによる。その時代に浄土宗鎮西派、即ち知恩院を本山とする脈流の一端になったといわれる。
 現堂宇は、昭和十三年に整備された。「雍州府志」に本尊阿弥陀如来像は聖徳太子丸木の作と記され、延命地蔵菩薩像は村人から篤い信仰を浴びている。
  京都市』  (駒札より)

 

 山科区には西念寺というお寺が2箇所ある。一つは有名な勧修寺のすぐ横だ。そしていまひとつが今回紹介する浄土宗の地域に根ざした寺だ。地下鉄東西線山科駅から南へ少し下ったところにある。幹線道路に面している門は入ることができず、横の細い路地を入ると山門に至る。境内に入ると緑豊かに整備されており、本堂も非常に綺麗で居心地がいい。すぐ近くを多くの車が走るが、騒音はほぼ聞こえてこない。
 本堂のすぐ横に駒札が立っていた。上記のものだ。由緒や経緯については駒札の内容の通りだが、創建の時期は定かではない。近世初期という表現はおそらく、江戸時代の初期あたりだろうか。中に文政五年と出てくるが、これは江戸時代末期に近い頃となる。この辺り一帯は江戸時代においては、農耕作地が広がり貧しい農民たちが、あるいは商工業者も含めて年貢や税に苦しんでいたと考えられる。そんな中にあって彼らの心のよりどころとして竹鼻三ノ堂と呼ばれる小さなお寺が3箇所建立されたんだろう。
 現在ではこの西念寺が残るのみ。周囲は山科駅前の再開発によって大きな商業ビルが建っているが、当初入居していた百貨店は今は撤退している。山科駅は地下鉄、 JR、京阪電鉄と三つの駅があり乗降客数もかなり多いが、鉄道やバスが便利すぎてあまり立ち寄る人がいなかったんだろう。マンションの部分だけは周囲のマンションも合わせて好調なようだ。
 なお、最近本尊の阿弥陀如来坐像が京都市の指定登録文化財になった。以下に掲載しておく。

   

『木造阿弥陀如来坐像 1躯(指定)  京都市指定・登録文化財
〔西念寺〕
 浄土宗寺院,西念寺の本尊。寺の創建時期を遡る鎌倉時代の制作と考えられる。針葉樹材の一木割矧造,玉眼嵌入,漆箔仕上げ。像高60.2cmの比較的小さな像で,説法印を結び,左足を外に結跏趺坐する。上げ底式像底や,頬の引き締まった面相,動きのある衣文表現には,鎌倉時代前期の慶派彫刻の特色が見られ,とくに端正な顔立ちと均整のとれた体つきからは,運慶・快慶の次世代である湛慶及びその周辺仏師の制作であることが推定される。』
  (京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課より)



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善徳寺  京都市下京区・・・「赤壁さん」

2021-10-27 21:07:12 | 撮影
善徳寺



 善徳寺は五条壬生川の交差点を北へ入ったところにある。周辺は住宅街であるとともに多くのお寺が集まっており、おそらく江戸時代あたりに今で言う区画整理のようなものが行われた結果なんだろうと思う。
 この寺の特徴は、何と言っても外から見て一目でわかるほどの真っ赤な色の壁だ。お寺そのものの創建やその後の経緯については全くわからないが、江戸時代に紅屋を営む主人がこのお寺に山門を寄進したと言う。その時に本来漆喰の白い壁を赤く塗った。赤紅を使ったこの壁には、当然かなりな高額のものが使われ、お寺としてもありがたく寄進を受けたことだろう。このような色をした壁を持つお寺というのはほとんど見られず評判となり。「赤壁さん」と呼ばれ親しまれることになった。このことから女性にとってみれば頬に赤紅を塗って美しく見せることから、美人を祈願する信仰を集めて女性の参拝が多かったということだ。
 境内や本堂等などはごく一般的なお寺に見える。本堂は比較的新しく再建されたようで古さを感じさせないものだった。

 

 西山浄土宗のお寺で本尊は阿弥陀如来像。この本尊は恵心僧都源信の作ではないかと伝えられている。あくまで伝承であるので確実な証拠はないらしいが、これが事実ということが確認されれば、平安時代中期のものとなり、また作者自身が歴史に残る高名な僧であって、何らかの指定文化財になっても当然のことのように思われる。恵心僧都の足跡は京都の各地に残されており、様々な影響を与えている。

  
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