切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

更に、旧優生保護法の問題について

2018-01-30 23:12:21 | 社会

『旧優生保護法
このまま、公文書や関係資料の廃棄が続くなら、国の施策の誤りをただし、検証する作業すら 不可能になってしまうのではないか。 遺伝性の病気や遺伝性でない精神疾患、知的障害者などの卵管や精管をしばって生殖能力を 奪うこと(断種)を認めていた旧優生保護法に基づいて強制不妊手術を受けさせられた京滋の個 人は、最大で9人しか特定できない状態になっていることが、京都新聞の調査で分かった。 厚生労働省の統計によると、1949~75年に不妊手術されたのは、京都府と滋賀県で少なくと も377人いた。正確な数字は不明だが、被害が裏付けられるのは氷山の一角にすぎない。 旧優生保護法は「優生上の見地 から不良な子孫の出生防止」を目的に戦後、施行された。本人 に知らせないまま不妊手術を容認し、子どもを産み育てるという基本的人権を奪う点が問題視され た。 憲法が定める自己決定権を否定し、障害者差別を生むことから、障害者団体の批判が高まり、96 年に優生思想を表す部分や同意のない不妊手術の条文を削除して母体保護法に改定した。 国は「当時は適法だった」として、謝罪や補償に一切、応じていない。自ら都道府県や公文書館 に保管された資料を把握する予定はなく、今も当事者が名乗り出れば個別に話を聞くという消極的 な姿勢を崩していない。 日本弁護士連合会は昨年2月、国に謝罪や資料の保全を求める意見書を出している。宮城県の60 代女性が全国で初めて国に損害賠償 訴訟を起こす動きがあり、司法救済の前提となる手術に関す る記録の有無が焦点になっている。 京都新聞は、情報公開請求した滋賀県の優生保護審査会の68~76年度の優生手術適否決定書 や医師の申請書、健康診断書、京都府立京都学・歴彩館が保存する行政文書を分析した。 県の公文書で裏付けられた7人はいずれも女性で、病名は統合失調症や知的障害などとされ ていた。発病後の経過や症状、申請に至る経過は「個人情報の保護」のために黒塗りされてお り、詳細は分かっていない。 誤った法律をつくり、結果的に多くの障害者への差別と偏見を広げた責任から政府や自治体 は逃れられない。断種された人は高齢化している。司法救済の道を閉ざすことはあってはなら ない。国による詳しい実態調査も同時に急いでもらいたい。』 (京都新聞 2018年1月29日 社説より)

上の文章は一昨日、京都新聞の社説として掲載されたものをそのまま全文載せた。


前回、旧優生保護法の問題についてブログに記したが、その翌日ネットニュースでこの優生保護法に基づいて、女性に処置を施した医師が、86歳の高齢になってこのままでは闇に葬られてしまうだけだと言うことで、自分の名前と顔写真を出して告白をしている記事を読んだ。
やはりこういう人が出てきたのか、と遅まきながらも大事なことだとして感心した。そして昨日、宮城県の60代の女性が強制処置を施されたと言うことに対して、国家賠償請求訴訟を起こした。この件に関して政府の担当者は、まだ訴状が届いていないのでコメントできない、と言ういつもの紋切り型のくだらない返答をしていた。

これは誰がどう考えても、日本と言う国の政府が中心になって、政府の責任で1948年から1996年までの約50年間にわたって、何の罪もない障害者たちを強制的に断種手術をしたものだ。男性については生殖機能を取り除き、女性については卵巣摘出の手術が行われ、全国で2万数千人、そのうち拒否し抵抗した人が16,500人。もちろんこの人たちも大半が強制的に身体拘束されて、手術台へ送られていた。中には9歳などと言う小学校低学年中学年の女児もいたと言う。

強い立ち場と思い込んでいる男を中心とする、優生思想に基づいた勝手な思い込みと、健常者が優秀な人間であると言う根強い歪んだプライドに基づいて、こうゆう悪逆非道な非人間的行為がつい20年前まで行われていたと言うことだ。
似たようなケースとして前回、ハンセン氏病患者の件を紹介したが、それ以外にも障害者とは状況が異なるものの、熊本の水俣病の件なんかについても似たようなことが言える。
この事件では、窒素水俣工場の水銀中毒によって重度の障害を負わせられることになった人々が、地元の窒素株式会社、熊本県、政府からもほったらかしにされ、ついには裁判に訴えることになったところが、上記の奴等は一切責任を認めようとせず、裁判は厳しい状態になったものの、以前からこの件を追求していた熊本大学の研究者たちの努力によって、有機水銀中毒の影響が立証されたにもかかわらず、県や政府側は捏造したでたらめな偽物資料を裁判に提出して、まともな研究を否定しようとあがいていた。
最終的な結果は水俣病患者たちの勝利に終わるものの、今度はどの人までを水俣病患者と認めるかどうかでまた裁判になり、非常に困難な状況がこの後も続くことになってしまっている。

こういう面で国と言うのは、ほとんど主導的な役割を果たさない。できるだけ国には責任がなかった、と言うことばかりを主張しようとし、肝心の患者たちは二の次三の次の扱いだった。
ちょっと余計な話になるが、裁判が終わってからしばらくして、夏の休みを利用して同僚数人と一緒に車で九州に行き、水俣市の汚水排水貯蔵池を見てあまりもの凄い状態に驚くとともに、近くにある工場の事務所に車を乗り入れて話を聞こうと思ったが、敷地に入った途端10人以上の事務員か警備員なんかわからんけど、走って出てきて、これは話どころではないと、慌てて工場の敷地から出て行ったことを思い出す。奴らもかなり神経過敏になっていたんだろう。
こういう先例を考えると、これからの旧優生保護法に関する損害賠償請求訴訟についても、相当な困難が考えられる。国はもともと当時としては適法に行われたことで問題はなかったとの立場をとっている。
要するに過去の誤りに対して、何の責任も感じていないと言うことだし、間違いを認めず、従って被害者たちを救おうなどと言う気持ちなど、これっぽっちもないと言う、名前だけの先進国の実態がしっかり見てとれる。
何度も言うが優生思想と言うのはいろんな形で人々の心の奥底に染み付いており、何かちょっとしたきっかけで、その優生思想に基づく考えや行動が表に現れ、時としてそれが、激しい差別や冒涜、暴力そして、相模原のような大量殺人事件にもつながっていく。ある意味理性的が部分が弱い人間にとってみれば、同じような事件がどこかで誰かが起こしても不思議ではない。
こういう問題については国、政府、国会議員共、各地方自治体が、ただ単に軽々しい啓発ではなくて、本気になってこういった問題を世間に知らしめ、健常者、障害者の精神的な垣根を取り払っていく具体的な行動をしなければならないが、残念ながらそんな動きは極一部を除いてほとんど見られない。

自分もいろんな場所で障害者が近くにいるときに、その周囲の人々が露骨な嫌な表情をしている場面を何度も見ている。あるいは障害者の通所作業所から、指導員の方たちが、何人かの障害者を連れて社会勉強のためにスーパーを訪れたりしているが、やはり周りの人間たちは露骨に避けて通る。あるいは横目でチラチラと興味本位の表情で見ている。こういうものを見てると、戦後50年にもわたって優生保護法と言う名前を法律として制定し、具体的に強制手術と言う形で実施してきたことが、どれだけ日本全国民に対して、極めて大きな影響を与えたことか。
国側は当然優生保護法は当時は適法として、損害賠償請求を拒否するだろう。請求するならばその根拠となる証拠を出してこい、と言うだろう。ところが行政と言うのは、国でも地方自治体でも、自分たちに都合が悪いと思われるものは、さっさと廃棄処分するのが常だ。今現在国会などで審議されている森本問題。加計問題についても全く同じ。
国に期待できるものなど何もない。したがって実名を名乗り出て旧優生保護法の手術に携わった医師のように、個人的に資料を保有してる人もおそらくいるだろうし、そこから新たな資料が出てくることに期待したいと思う。

この問題を考えれば考えるほど、この日本という国の無様さに嫌気がさしてしまう。報道メディアももっともっと深く追求してほしいと思うが、多分一部の地方紙と毎日新聞あたりが追求していて、後はどうなのかは知らないが、多分政府御用達の読売新聞や産経新聞なんかは、今回の損害賠償請求訴訟を正面から非難するんだろう。こーゆーブログを書いてるのも正直、気が滅入ってしまう。しかし、裁判の原告本人と支援者たちには本当にがんばってほしいと思っている。
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京都府宇治市 正覚院(六地蔵)・・・指定文化財が目の前に

2018-01-29 22:20:55 | 撮影

『宇治市指定文化財
正党院の仏像


 十劫山(じゅっこうさん)正覚院長楽寺は、寺伝によればもと木幡山の麓に創建され、淨明寺と号し、応仁の乱において焼失、その後衰退した。文禄三年(一五九四)に木幡の豪族野田清玄が再建し、僧離垢誉を以て中興開基としている。
 正覚院には二躰の仏像が宇治市指定文化財に指定されている。

・木造 聖観音菩薩立像
一木造 彫眼 古色
平安時代
像高 一〇二.〇センチメートル
平成七年三月二十九日指定

 木造聖観音菩薩立像は、現状は、比較的例の少ない比叡山横川中堂像と同形式の聖観音像であるが、両手の肘より先が後補なので、当初からの形相かどうかはわからない。伏し目のやさしいお顔、撫で肩ですっきりした体軀、浅く数少ない衣文(えもん)など、藤原時代十二世紀の特色を示す作例として貴重である。なお、寄木造全盛時代の素木の一木造として、全面に鑿目がみられる点は、霊木化現仏風の特色と解することもできよう。

・木造 毘沙門天立像
寄木造 玉眼 彩色
鎌倉時代
像高 一二五.四センチメートル
平成八年三月二十六日指定

木造毘沙門天立像は平成一四年三月二十六日付けで京都府指定有形文化財に指定されました。
同日付けで宇治市指定文化財は解除になりました。

 木造毘沙門天立像は、鎌倉時代末期を代表する像で、足枘銘から作者は三條仏師の三條法印朝円とわかる。三條仏師とは、平安時代中頃に定朝の弟子長勢が京の三條にはじめた仏所の門流に属することを示し、京風の優美な作風に特色があった。兜を冠ったたくましい武将の相貌を示し、合戦絵巻にみえる若大将を思わせる。甲の装飾は、盛り上げ彩色とし、形や色使いに洗練された趣を示している。足下に踏まえる二頭の邪鬼を含めて全体に極めて保存がよく、表面の見事な彩色も当初の様相をよくのこしている。鎌倉時代末期の三條仏師の作風を物語るものとして貴重である。
 平成九年三月 宇治市教育委員会
 (門前説明書きより)
 
(左:木造聖観音菩薩立像 右:木造毘沙門天立像)


  
 正覚院についての説明は、お寺の門前にあった説明書きの内容を超えるものは特に見当たらなかった。元になった浄明寺というのは、平安時代後期に創建されたお寺で、説明書きにある通り応仁の乱で消失。ずっと後年になって再建されたのが、今の正覚院となる。
 宇治市の六地蔵。この地域は交通の要衝として栄えており、外環状線、六地蔵宇治線といった幹線道路の他に、JR奈良線、京阪電鉄宇治線、京都市営地下鉄が乗り入れており、この周辺でのマンション建設が盛んで、今現在も新たなマンションが建設中。京都では珍しいタワーマンションも駅に直結してそびえ建っている。
 車や人の行き交いも多く、巨大なショッピングモールや大型スーパーもある。なぜかイトーヨーカドーは1年ほど前に撤退してしまった。せっかく地の利がいいのに、商売の工夫が足りなかったんだと思う。時々行ってみたがいつも閑散としていた。値段も高めだったかもしれない。ショッピングモールや大型スーパーのイズミヤは客も多く賑わっている。
 それらの東側に住宅街が広がっており、その一角に正覚院はある。細い道に沿っているので見逃しやすい状況だが、小さな山門の横に、これも小さな祠があって、その中になんとこのお寺の宝物である2体の仏像が安置されていて、格子窓越しに普通に見ることができる。なんとも気前のいいお寺だ。普通なら境内の本堂の中にあるものが、簡単に見ることができる。説明書きにある通り、ともに宇治市の指定文化財だったが、そのうちの一体、木造毘沙門天立像は京都府の指定有形文化財に昇格した。将来的には国の重要文化財になる可能性がある。そうなると今のような場所に置いておくことはできず、本堂内に安置しセキュリティ対策も要求されることになるだろう。
 でもネットで色々見ていると、このお寺を訪れて写真を撮ってる人もたくさんいるが、なぜかこの2体の仏像の写真が見られない。逆に言うと、ほとんどの人が説明書きだけを見て、すぐ横にある本物に気が付いていないのではないかと思われる。まぁこういうお寺は極めて珍しく、少数派と言うべきだろう。
 写真も撮らせていただいて、特に毘沙門天立像については彩色も明らかで、保存状態がとても良い。見る価値十分にある。
 一方の聖観音菩薩立像は全体が黒色に変色していて、細部がよくわからない。しかしこういう形で見ることができたのは非常にいいことだと思う。
 お寺の前の道を少し進むと広い空き地があって、7階建ホテルの建設計画が進んでいた。周辺の各家には建設反対ののぼり旗が立っていて、確かにこんなところに7階建てができると、周辺の民家はたまったもんではないだろうし、あえてなぜこんなところにホテルを建てるのか、もうひとつ意味がわからない。
 電車の通過音は間近にするものの、本来の静かな住宅地であるべきような場所だ。まぁそういうこともあるが、この正覚院は思いの外、収穫があって良かった。

   
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再度、優生保護法の問題について

2018-01-27 00:00:48 | 社会

先日の地元の新聞に一面トップで、京都及び滋賀県での旧優生保護法による強制手術を受けさせられた人達の手術の記録が廃棄されていたと言うことが報道されていた。
宮城県ではまもなく1人の女性が、この優生保護法によって強制断種手術が行われたことに対して、国を相手に損害賠償請求裁判を起こす予定だと言う。1996年にこの法律は名前を変えて、母体保護法とか言う何かもう一つよくわからないようなネーミングで、今も継続している。今回はあくまでも京都の地元新聞が、地元の実態について独自調査を行った結果であって、おそらく全国的にも同様な状況なんだろうと思われる。

戦後まもなくから知的障害者や身体障害者、精神疾患を持っている人々を「不良」と定義づけて、その遺伝子を次に残させないように、法律で強制断種手術を国が続けてきたと言う実態があった。
当時の手術にあたっては、審査委員会が各地に設けられていて、保健所や医師、行政の担当者等が委員となって、この人の場合はどうか、と言う審議を行い、その結果手術がなされるべきだと判断されると、各委員が押印して結論を下す。本人の知らないところで、一方的にこのような決定が行われ、ある日突然、医院に連れていかれる。そして何の説明もなく一方的に強制手術が行われてきた。もし抵抗すると警察でもないのに、本人を拘束して連行する権限まで与えられていたと言う。
さらに新聞社の調査によって、ごくわずかに発掘された資料には、審議委員会の記録の一部があり、そこには一切審議が行われずに、議題だけが出されてそのまま全員が賛成し、押印していたという記録も出てきている。
こんな形で京都及び滋賀でも計約200人が強制断種手術を行われた。人間の尊厳を根底から否定する、不良と言う人格もないような位置づけを一方的になされて、その記録はさっさと処分されて残っていないと言うのが事実だ。


地元新聞ではさらに記録の発掘調査を継続するようだが、全国的にもこの極めて卑劣な、優生保護法による強制手術の実態を発掘し、調査し公開して国民に説明すべきだ。もちろんその責任のトップは、旧厚生省、今の厚労省に他ならない。
状況が少し異なるが、ハンセン氏病患者に対する強制措置入院も、同じような話となる。この病原菌が周囲に伝染して、ハンセン氏病が国に広がると言う、かつての医学的見地から、日本全国に数カ所の強制措置入院施設を作って、ハンセン氏病患者を年齢にかかわらず、強制的に隔離してきた。
この件については医学研究の進展とともに、強制隔離するようなものではないと言うことが明らかになってきて、最終的に国はそれを認めざるをえなくなった。もちろんハンセン氏病の人々も黙って隔離されたわけではなく、裁判に訴え苦しい戦いを続けてきて、ようやく自分たちの尊厳を取り戻してきたと言う流れがある。
こういうところでは国は責任を認めようとしない。その時代その時代にやってきた事は、全て適切であったと強弁して、非を認める事は全くない。今回の優生保護法による処置を受けた人々はもちろん、国からの謝罪どころか、説明も何も未だに一切ない。今回裁判を起こさざるを得なくなったのも、このような国家による人権侵害の実態を、明らかにせざるを得ないことから、行われると言うことになる。
しかしいざ裁判になっても、既に手術記録はとっくに廃棄されていて証拠がないと言うことになる。であれば当時実際に審議委員会で決定を下した人物や、手術を行った医師たちの証言が大きなポイントになるが、年代的に言ってその大半の人たちは、今や生きてるものはごく少数だろう。生きていても高齢になった奴らが、贖罪意識を持って証言するなんて思えない。何しろ自分たちのやってきた事は法律に基づいて、正しいことをやったのだという誇り、気の毒な障害者を救ってやったんだ、なんて具合に考えてるんだろう。
これが日本と言う国の実態だったし、過去形ではなく、今現在でも基本的な状況は変わらないままであると思う。
相模原の障害者施設19人殺害事件から1年半たつ。いまだに被疑者は起訴されない。精神鑑定がなんたらかんたら言って、月日が過ぎるばっかりだ。精神鑑定で問題があれば、被疑者は無罪になるのか。

この事件に限らず相も変わらずネット上には、自分の名前を明かすことがなく、それをいいことに障害者に対するヘイトスピーチはあちこち溢れかえっている。相模原の事件でも、そんなとこに預けている親が悪いとか、面倒見ている指導員が安い給料でしんどい思いをしているんだとか、殺した側を擁護するようなコメントもたくさん見られる。

ネットニュースなんか見てると、中国を含む外国でのニュースで、日本に対しては旅行に行っても、みんな親切で街も綺麗で、日本国民の民度が高いなどと言う情報が流されていて、そんなニュースを流している日本の会社も、うれしそうに似たような内容をひっきりなしに流して、日本は優れた国なんだと言うことを宣伝しまくっている。
何もかもが真っ赤な嘘だ。日本人の表と裏の薄汚い二面性。若い者も含めて全国民的な総保守化、総右傾化が静かに静かに進んでいる。優生思想と言うのは、大半の人の心の奥底に潜んでいると思わざるを得ない。ある意味それが人間の心の奥底の真実だろうと思う。
歴史的にも常に人間は、階級を作り少数の上のものが、多数の下の者を見下して差別して、支配すると言う構図を続けてきた。今は人間として平等というのが法律上は保障されていることになっているが、実態としては優生思想を基盤にした差別、セクハラ、パワハラ、アカハラなどなどなど、個々人の気持ちの中の、自分が正しい、自分が優秀、少なくともあいつ等よりは上、などといった優生思想+選民思想に染まりきった人間がうようよしていると言うことだ。
今後ますますこの風潮は強まっていくだろう。数年前に一応国会では、「障害者差別禁止法」というのが制定されたが、この法律の名前すらほとんどの人が知らないだろうし、実態としてこの法律によって障害者が守られているかのかというと、決してそうではなく、あちこちの施設で指導員による虐待が次から次へと報道されている。もちろん全員と言うわけではないが、そういったケースが多いと言うのは紛れもない事実。

障害者が守るられているなんていうのは、ただ単なる上部の取り繕いでしかない。
自分にはこれといってできるようなことも取り立ててないが、このような問題に取り組んでいる地元の新聞の姿勢に声援を送りたいと思う。
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京都府八幡市 狩尾神社・・・到着までがなかなか困難

2018-01-26 21:42:20 | 撮影
(対岸の天王山方面。サントリー山崎蒸留所が見える。)
 京都府八幡市橋本という場所は、男山と木津川の間に挟まれた狭い土地で、そこも京阪電鉄本線が走っている。橋本駅というのがあって、ここから男山の方に向かうと、びっしりと戸建住宅が複雑に入り組んで建っている。
 もともと男山地域は1970年代に、全国的な大形団地、つまり大規模ニュータウン建設ブームに乗って、男山団地が造成された。大阪と京都の中間地点にあって、便利な場所ということもあり、当時の標準公団団地が建設され 、人口は約2万人とも言われた。その団地の周辺の丘陵地が民間開発され、急斜面もお構いなく次から次へと複雑な地形に合わせて、戸建住宅が 建設された。当時の建設基準法にそっていたことで、住宅街の道路は複雑に曲がりくねっており、しかも 幅が極めて狭い道路ばかりで、今現在の住宅街の道路の基準とは全く違う。このような道を歩いて上がっていくと、急斜面に結構体力を奪われるし、車でも離合困難なところも多く、ましてちょっと駐めておくような場所も見当たらない。目的地の狩尾神社はそんな住宅街のかなり上方にある。
 丘陵地の更に小山になったような斜面は、周囲をコンクリートで固められ、何か異様な感じがする。第一鳥居はそんな小山の下にあって、かろうじてその横に車を駐めることができた。両サイドがコンクリートに囲まれた、かなり急な石段を多分100段位上ることになる。はっきり言ってこの 階段そのものがかなり危険。中央の手すりを掴んで行かないと、もし足を滑らして転落すると一番下まで止まらない。まず命はないだろう。そんな急な階段を上りきったところに狩尾神社第二鳥居がある。
  
  おそらく付近の住民しか知らないだろうと思われるマイナーな神社だ。境内に入ってすぐ、国の重要文化財を示す立て札がある。すなわちこの神社の本殿が、桃山時代再建の重要文化財ということだ。 1601年というから400年も経っている。この男山というところは石清水八幡宮で全国的に知られている。本殿などが最近国宝に指定された。狩尾神社は明治10年に石清水八幡宮の境内外摂社に位置づけられている。境内には重要文化財の立て札以外に何の説明もない。本来なら由緒書きなどあるものだが、全く何もない。ネットで様々な情報を調べてみてもごくわずかな情報しかなかった。手持ちの材料もないので、ネット情報を元に簡単に紹介しておく。
  創建はよく分かっていない。元々は 地元の人々の信仰を集めた社だったと思われる。住所の橋本地区というのは、奈良時代には木津川、宇治川、桂川の三つの川の対岸にある大山崎を結ぶ橋があったことから、橋本と呼ばれていた。時代が進むにつれ河川輸送が盛んになり、この橋本が河川港として非常に栄え、橋本周辺には大きな遊郭ができて、江戸期には相当繁栄し、かなり有名となった。遊郭はその後も存続し、戦後になってから売春禁止法などの法律によって廃されたとのこと。
     
 狩尾の名前についてはよくわからない。読み方は「とがのお」と言う。境内は決して広くはなく、拝殿があり背後に本殿が構える。本殿そのものは一部修復中だったが、見た目には桃山の華麗さはあまり感じられない。本来はもう少し 鮮やかな彩色が施されていたと思われる。経年による全体的に色褪せた感じがする。本殿そのものは消失の記録などが残っており、かなり以前から存在していたようだが、明確な形で記録に残っているのは、上記の1601年の再建ということになる。
 この再建にあたっては、徳川家康の側室となった、「お亀さん」という人物が関わっている。以前のブログで紹介した同じ八幡市の正法寺の娘さんであったが、たまたま正法寺に立ち寄った家康に気に入られ、側室となって後に大きな力を持つようになった人物。この人の尽力により消失して以降長い年月が経っていた本殿が再建されたと言う。
 そのご、何度かの修復を経て現在に至っている。境内は高いところにあるので、大山崎方面、大阪方面が一望できる。しかし、このようなところに重要文化財の神社があるなどというのは全く知らなかった。石清水八幡宮の事を調べている中で、たまたま見つけたと言う次第。
 とにかく現地まで行っても、急斜面の石段はかなり危険なので、足腰に課題がある人は上がるのやめておいた方がいいと思う。

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京都府向日市 北真経寺・・・鶏冠井というところにあるヨ

2018-01-24 23:07:34 | 撮影

『鶏冠山(かいでさん) 北真経寺
 当寺は、鎌倉時代末に日蓮宗を関西にひろめた日像上人によって、真言宗真言寺から改宗・改名して真経寺と称するようになりました。この時以来、真経寺
日蓮宗集落として、日像上人の布教活動の拠点の一つになりました。は、村民の信仰を集めるようになり鶏冠井は関西最古の日蓮宗集落として、日像上人の布教活動の拠点の一つになりました。
 江戸時代に入ると、鶏冠井に檀林という「宗門の学問所」が設けられました。これを機に真経寺は、二つに分かれ、南真経寺(現・向日市鶏冠井町大極殿)と北真経寺(現在の所在地}となりました。
 そして、北真経寺は、学僧の集まる学問所として承応三(一六五四)年に通明院日祥によって
開講され「鶏冠井檀林」として知られるようになりました。境内には、「楓寮」や「松寮」、「竹寮」などと呼ばれる学僧の寄宿舎が九棟をはじめ学舎が建ち並び、盛時には百名を超える学僧が集まり、教義を学んでいました。
 数多くの学僧を育てた檀林も明治八(一八七五)年に廃され、明治十一 (一八七八)年には学舎のほとんどが解体されましたが、現在の本堂や東隣の食堂などは、檀林の面影をよくとどめています。特に本堂は、檀林時代の講堂を受け継ぐ貴重な建物として、京都府の登録文化財となっています。
 また、檀林時代に所有していた教義書やその版木・学僧の守るべき定書をはじめとする数多くの古文書が現在まで保存されています。近年実施された境内の発掘調査では、学僧が使用していた陶磁器などが発見されました。
 このように永い歴史をもっ北真経寺の境内一帯は、かつて長岡京(七八四~七九四)の内裏(天皇の私生活の場)の中心部でした。西側道路を隔てた公園は、内裏内郭築地回廊跡として国の史跡に指定されています。
(境内説明書きより)
(ウェブより)

 京都府向日市にある北真経寺へ行く。近くを国道171号、新幹線、東海道本線、阪急京都線が走る。交通の要衝の一つだ。付近は住宅が密集しており、その中にお寺がある。
 お寺の経営というのは今はどこでもかなり厳しい状況に置かれており、このお寺もそこそこ広い境内を月極駐車場として利用している。その中に入り、一番奥に参拝者用の駐車スペースがある。
 創建は徳冶2年(1307年)という説が有力。由緒については上記の説明書きの通り。
 今は真冬なので全体的に枯れたような雰囲気。シーズンオフということもあり、特に本堂内に入ることなどはしなかったが、ここには下記のような文化財がある。
 ・尊性法親王消息飜摺法華経(開結共)10巻(国の重要文化財)(南真経寺と共有)
 ・本堂・開山堂(京都府指定有形文化財)
 ・鶏冠井題目踊(京都府指定無形民俗文化財)鶏冠井題目踊保存会
         
 直接見ることができたのは本堂と開山堂で、京都府の有形文化財。重要文化財は南真経寺と共有とあるが、元はひとつのお寺だった。それが承応3年(1654)に分立し、北真経寺には学問所が開設された。それを檀林と呼んでいる。これは明治時代まで続いたが、明治新政府の方針により新しい学校制度ができたことによって廃止となった。
 尚、南真経寺はここから数百メートル離れたところにある。近いうちに行って来るつもり。と言っても、この北真経寺も南真経寺も以前に行ったことがある。今回改めて写真を撮り直し、いろいろ事前調査も行ってきた。
 ところで「鶏冠井」という地名は極めて珍しい呼び名だが 、元々は奈良時代の「九条蝦手里」からきており、かつては「かえるて」「かいて」というふうに読まれていたことから来るらしい。現在の漢字表記になったのは安元2年(1176)。徳大寺家が自分の屋敷に「楓(かえで)」別名鶏冠木(かえるで)をとりいれまた近くに井(泉)があったことから鶏冠井とかえて「鶏冠井殿(かいでどの)」と名付けられました。ということで、ネットにあった情報です。

 向日市は住宅密集地で、その中に落ち着いた空間があって、さほど広くない境内ではあるが、ゆっくりと見て回るのもいいものだと思う。
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