切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府宇治市 白山神社・・・心霊スポットじゃない! 重要文化財がある

2018-01-22 22:05:35 | 撮影


『白山神社と金色院
 白山神社は延暦9年(790)に疱瘡が流行した時に、その治癒を願って建てられたと伝えられて
いますが、やがて藤原頼通の娘で後冷泉天皇の皇寛子の建立といわれる金色院の鎮守社となりました。祭神は伊邪那美命で、平安時代後期の木造座像を祀っています。康和4年(1102) に建立された金色院は、七間四面の本堂のほか、多くの堂塔や坊舎を誇り、堂塔には金がちりばめられていたと伝えられています。現在では白山神社と惣門、 寛子の供養塔といわれる九重石塔が残るのみですが、同じ白川の地蔵院に保存されている数々の宝物や文化財から、往時を偲ぶことができます

『白山神社
当地白川は、昔藤原頼通が山荘を設けたところといわれ、頼道の女四条宮寛子はこの地を相して康和四年(一一〇三)金色院を造営した。当社は久安二年(一一四六)に創建された。金色院の鎮守社である。本殿は一間社流造桧皮葺で、堂内とは伊那郡美尊坐像(重文、藤原)も安置している。拝殿(重文、鎌倉)は、宇治離宮の遺構ともいわれ、方三間単層四注造茅葺で、鎌含中期の様式を示しておリ、腰高障子をたて住宅風の古建築である。社宝として、十一面観音像(重文、藤原)がある。
 宇治市

『九重石塔
 九重石塔は、鎌倉時代に建立され、藤原頼通の娘・四条宮寛子(1036-1127)の供養塔と伝えられています。
 この石塔は、高さ4メートルほどの花崗岩製で、基礎の背が低く、横長い格狭間が入っている女性的な感じの層塔です。寛子がここ白川の地に金色院を建立して後半生の50年余を宇治で過ごし、
大きな足跡を残したことが偲ばれます。
 (以上、境内説明書きより)

   
 宇治市街地東部の山間部に白川地区というのがある。市街地からほんのわずかの距離なのに、ここが同じ宇治市とは思えないような雰囲気。里山ののどかな風景が広がり、周囲を低い山に囲まれている。この地域は古代より人が住み着き長い歴史があり、この近くに白山神社がある。
 白川地区を貫く細い街道沿いに鳥居が立っており、この鳥居が金色院の総門だと考えられている。おそらく江戸時代のものだと思われる。ここをくぐって細い道を東の方に向かうとすぐに山が迫ってくる。小さな鳥居が見えてくると駐車場があるので、そこで車を降りて白山神社へ向かう。
 100段位の石段を上がると重要文化財の立て札がある。そしてその拝殿が目に入る。拝殿というよりは、何か社務所というような感じで、平屋建ての一軒家という雰囲気。茅葺きの屋根はすっかり苔や草などに覆われていて古さを感じさせる。途中で何度か修復されているようで、鎌倉時代のものにしては少し新しさを感じさせる。元は宇治離宮の建物であったという説もあり、本来の拝殿としての建造物ではない。
 しかしこういうところに、重要文化財がひっそりと建っているというのも、この地域の長い歴史を感じさせる。本殿は江戸期のもののようだが、典型的な神社建築の姿を見せている。神社の境内そのものは比較的狭い方で、すぐ横に3社の末社が並んでいる。
 この神社についての説明は、上記の境内の説明書きにある通りで、改めて言うことはない。ただここは昔から、一部マニアのパワースポット、あるいは心霊スポットのような扱いを受けており、今でもそうした見方をする人がいるようだ。
       
 さほど不便な場所ではないが、この日も誰も来ていなかった。神社の祭事には地区の人が集まって賑やかに行われるらしいが、普段は創建当時の平安から鎌倉時代の雰囲気を感じさせるようなところだ。
 ネットなどでもここは比較的有名なようで、よく紹介されている。但し金色院遺跡として旧境内はかなり広く、当時はかなりの隆盛を誇っていたみたいだ。今となっては廃寺となっており、発掘調査によってその遺構があちこちで発見されている。明確に残っているものは、神社から北側へ谷を一つこえて上がったところに、数々の五輪塔と石像九重塔そびえている。この九重塔は鎌倉時代のものだとされている。だとすれば重要文化財指定でもおかしくないような気がするが、それどころか京都府の文化財指定も受けていないみたいだ。数々のネット上でもこの九重塔までは行き着いていない人が結構をいるみたいで、訪れる際には是非ここも見てほしいと思う。尚、重要文化財の拝殿は建治3年(1277)の建立。

   

*以下は全てウェブより
  

銅造阿弥陀三尊像(奈良前期) 

木造観音菩薩坐像(平安時代後期) 

銅造釈迦如来坐像



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京都府相楽郡笠置町 國津神社・・・由緒等さっぱり分かりません

2018-01-19 22:31:08 | 撮影

 笠置町は京都府の南端にあり、木津川を中心に国道163号線と単線非電化の関西本線が通じている。かつては木津川の各所に河港があり、水運交易で栄えた。木津川の木津とは、おそらく木材を木津川上流から運び、河港に降ろしていたところから来ているんだろうと思われる。
 実際に平城京の造営や東大寺の建立にあたっては、大量の木材が運ばれたと言う。今の笠置町は人口も少なく、本来は村、と言うべきほどの人々しか住んでいない。笠置寺に通じる橋梁の周辺がカヌー愛好家たちの聖地として知られており、休日には河川敷に多くの車が駐車しており、カヌーで思い思いの楽しみ方がなされている。実際勤務していた時にも、同僚の人が日曜日に車にカヌーを積んでこちらへ来ていたと言っていた。
 
 国津神社はそんな笠置町の、国道163号線を走って有市と言う地区の木津川沿いに境内を有している。駐車場もあって、そこから鳥居をくぐり参道を経て境内に入る。地区の集落は小規模ながら、境内はよく整備されていて、様々な催し物も結構行われていると言う。拝殿を経て本殿があるが、周囲を格子状の柵に囲まれていて、全体像は見えにくい。この本殿が、京都府の登録文化財に指定されている。
 しかし境内及びその周辺には何の説明書きもなく、本来文化財に指定されていれば、そのことが書かれた杭が立てられているものだが、何もない。祭神も全くわからない。これだけ何も説明や由緒書きがない神社というのもなかなか珍しい。
 本殿そのものも比較的小さく、彩色も少し痩せた感じで、優美さを感じさせないしっとり落ち着いた、ごく普通の本殿にしか見えない。本殿の説明については文化財指定された時の記録が、京都府より出されているので下に掲載しておいた。
        
  帰宅してから国津神社についていろいろ調べてみたものの、ほとんど何もわからず。名前の国津からすると、国津神というのが連想され、これは古代より地元の人々により祀られた神と位置づけられている。この場合の津というのは、助詞の「~の」という意味で、言い換えれば、「国の神」すなわちその地元の人々のための神、ということになるのではないかと考えられる。この国津神というのは記紀にも掲載されている名前であって、いずれにしろかなり古い歴史を持つ神社だと考えられる。
 何分にもこれ以上のことがわからないので、簡単な推測で書いているが、地元の笠置町史などにひょっとして記載があるのかもしれないが、なかなかこういったことを調べるというのも材料不足で、ほんまに難しいものだと思う。
  ところで、境内の石灯篭の一つに「天満宮」と彫られていたが、これは一体どういうことなんだろう。


『有市国津神社本殿
一棟
(登録)
相楽郡笠置町大字有市小字平ノ畑五六
有市国津神社
一間社春日造、銅板葺
江戸・元禄三・正徳一移(棟札)
 当社は西流する木津川の北岸、有市の集落の東端に位置する。
 本殿は石垣により周囲とは一段高く位置し、南面する。現本殿は奈良春日大社の旧本殿(第一殿)を移したもので、移転の時期は、社蔵の棟札より正徳一年(一七一一)で、大社では元禄三年(一六九〇)の造営時のものであろう。当本殿は移建例のうち年代の確かなものの
古い例の1つである。
 (京都府教育庁指導部文化財保護課 京都の文化財 第1集より)

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阪神淡路大震災から23年

2018-01-18 21:43:05 | 社会



1月17日は阪神淡路大震災が起こった日。1995年だからもう23年も経ったことになる。
当日の事は今現在でも極めて鮮明に覚えている。もちろん当時は現役でバリバリ働いていた時代。1月17日の早朝というか、外はまだ真っ暗だった。ぐっすり眠っていた。なぜか自分でもわからないが、突然目が覚めて真っ暗な部屋の中で立ち上がり、寝床のすぐ横にある大きな書棚を2つ、手で強く押さえた。その数秒後突然、今まで経験したことのないような大きな揺れに襲われた。大きな揺れはいつまでも収まらず、一体どうなることかと思いつつ、真っ暗な中で書棚の本が次々に吹っ飛んでいくのが音で分かった。ようやく揺れが収まり巨大地震であったことを意識できた。このあとすぐまた余震があるかもしれないので、そのまま5分ほどずっと書棚を押さえたまま。もう大丈夫かなと思って電気をつけると、停電もなくそのまま部屋が明るくなった。寝床の布団は飛び散った本で埋まってしまい、全く見えなかった。上の棚などに乗せていたものも全てが落下して、ちょうど寝ているときの頭の部分には重い落下物がその場にあった。もし寝たままこれが直撃しているとただでは済まないようなものであった。
呆然としたまま部屋の様子を見て、次に時計を見るとまだ5時台だった。ようやく我に帰って本を片付け始めた。一通り片付いたときには6時を回っていた。これはとんでもないことが起こったと思い、テレビをつける。テレビの臨時特別番組みたいな放送がなされていて、大阪方面から望遠レンズで神戸のほうの街の様子を映していた。コメントも何もなく、ただ静かに画面があるだけだった。カメラも全く動かずに同じ方向だけを映している。妙に静かで何が起こったのかよくわからない。しかし画面の一部に煙があがっているのが見えた。チャンネルを変えると緊急特別顔番組で、アナウンサーが大きな地震が淡路島から神戸にかけて起こったようなことを伝えていた。これが当日の朝の様子。

今考えてもなぜ、自分が地震が起こる前に突然目が覚めて、とっさに立ち上がって書棚を押さえたのか全くわからない。無意識のままそういう行動をとっていたと言うのは多分、自分の中にある動物的な本能が巨大地震の前触れを察知して、そういう行動を起こさせたんではないかと思っている。何しろ突然目が覚めたときには、全く揺れてなかったし何の音もなかったのを覚えている。
その後ずっとニュースを見ながら出勤の準備をして車で出かけた。職場について職員室に入るとテレビがつけっぱなしで、多くの先生方がその映像に見入っていた。多くの家が倒壊し火事が多発して、倒壊した家の下敷きになってる人が相当数いると言うようなことをアナウンサーがしゃべっていた。みんな言葉もなく静かにテレビを見ているだけだった。職員朝礼では家庭や親族、もちろん生徒たち本人にも怪我等なかったかの確認を取るよう指示があった。

教室に行って朝の出欠確認等をとって生徒たちに聞いてみた。生徒たちも意外に落ち着いていて、大きい地震があったなぁ、とか寝てて全然知らんかった、等々お互いに特に興奮することもなくしゃべりあっていた。幸いにも学校全体でけが人や家の被害とは全くなくてよかった。
この日の授業はいつもと同じように、そのまま普通に進められて放課後にはクラブ活動も行い、夕方に下校して行った。自分はさっさとすべき仕事を終えて家に急いだ。授業の合間の休み時間ごとに、職員室のテレビでは犠牲者の数がみるみるうちに増えていった。神戸には友人もいるし、どうなってるんだろうと言う思いが強く、しかも阪神高速道路の高架橋が横倒しになっている映像を見て愕然としてしまった。



家に戻ってからも食事の用意をしながら、ずっとテレビの特別顔番組を見続けていたが、阪急電車の高架駅が倒壊し、阪神電車の全面高架の車庫の全体が潰れて倒壊している場面もあった。あちこちで大きな火事が起こり、大きく傾いて今にも倒れそうなビルも写し出されていた。空中映像からはL字型の高層マンションの1棟が全体が傾いて、もう一方の棟に寄り掛かるような形になっている場面もあった。


もうすでに死者の数は三桁に達していた。あまりにもとんでもない地震に、ただただ言葉を失って、そのテレビに映された様子を見ているだけしかなかった。
この夜は遅くまで特別番組を見続けていたが、翌日には職場のほうも落ち着いた感じで、いつものように普段通りの一日が過ぎていった。


被害者総数は死者だけで6,435名。負傷者や家屋被害、インフラ被害などとんでもない大被害をもたらしている。まさか自分が生きている間に、これだけの大地震が起こるなんて思ってもいなかった。授業などでは大正時代の東京大震災のことを取り上げたりしていたが、自分が生きている間に起こった大きめの地震災害としては、 新潟地震があって、アパート1棟が横倒しになっている写真を見て、すごいことが起こるもんだと言う記憶があった。関西には何もなかったようで、ただ遠くで起こった地震との印象しかなかった。
しかしこの阪神淡路大震災では、大阪も京都も大きく揺れ、京都府では1名が犠牲になっている。また新幹線の高架橋にも被害が出て、しばらくの間補強工事のため、一部区間で新幹線が不通になった。6月に九州への修学旅行を控えていたので、このままいけるんだろうかと言う心配があり、学校でも業者と一緒になって、いざと言う場合の代替案を検討したことを覚えている。結果的には修学旅行に間に合って、無事に行くことができた。何分にも東京大震災以来の大きな地震であったので、マスコミも連日大きな紙面をとって、また長い時間をかけて報道が続いた。
当時はもちろん仕事があったので、テレビについては晩にしか見ることができなかったが、被害の状況を細かく見せたり被災者の声を拾って報道したりしていた。
そんな様々な報道の中でも今でも覚えている2つの許しがたい報道場面を覚えている。1つは神戸市に本拠を構えている暴力団山口組の総本部が、本部の前で周辺の住民に炊き出しを行っていたということがニュースで取り上げられ、多くの人が炊き出しをもらいに並んでいた場面。そして住民たちのコメントの内容だった。こうゆう大きな災害の中では一般人も暴力団もなく、お互いに人間として助け合うことが美徳かのような報道内容があり、極めて強い違和感を覚えた。いくら一般人に炊き出しをしたとしても、社会的に絶対悪の暴力団であることには変わりない。はっきり言って許される存在ではないのだ。それをあたかも地域住民に貢献して、良いことをしてるような報道姿勢には怒りさえ覚えた。

もう一つは確か朝日放送テレビの報道ステーションだったと思うが、(他の番組かも知れない)女性のキャスターが震災の被害現場に入って、生中継をすると言うものだった。そのキャスターと言うのが、すでにNHKのニュース番組で当時慶応大学の大学院生でNHKにコメンテーターとして出演していると言う才色兼備の凄い女性だと言うことで話題になっていた、あの宮崎緑氏だった。
彼女はこの後NHKだけではなく、民放にも出遠し、報道ステーションだったかそのような報道番組では、現地からの実況リポーターとして登場したわけだ。そして現地からの生中継の画面に切り替わった瞬間、信じられないものを見てしまった。なんと宮崎緑氏はいかにも高価な感じがする毛皮のロングコートに黒いロングブーツ、えりまきをし、手袋をはめ化粧整えてマイクを持って喋り始めた。この女には一般常識があるのかと疑わざるを得なかった。瓦礫の山で多くの建物が倒壊し、下敷きになって多くの人が亡くなっていたその現場で、こんな姿格好と言うのはあり得るのか。まるで今から高級ホテルのレストランに食事に行くようなその姿。呆れると言うのを通り越して、激しい怒りを覚える。

ちなみにこの宮崎緑氏は後に結婚するときに、高級ホテルの広間を借り切って、政財界の大御所を多数招待し、超豪華な結婚式をしたことでも知られる。まぁ多分このような姿勢が批判を浴びたんだろう。そのうちテレビからは姿を消した。今の彼女は女性ニュースキャスターの草分けとして評価されており、今現在では国際ジャーナリスト、政治評論家、千葉商科大学教授、東京都教育委員などを務めて活躍をされているらしい。メディアには上記のような事情から、本人も嫌気がさして一切出演しないとのことのようだ。

話が少しずれたが、この大震災によって日本の甚大な災害に対する対処のマニュアルが極めて弱いことが明らかになり、これ以降様々な対応策が全国で作られることになり、また活断層に対する大掛かりな調査もなされ、危険地域等のハザードマップなども整備されるようになる。
当時は自衛隊の災害出動に制約があったため、行動が大きく遅れたことが一つの教訓となって以降、法律改正され今ではマグニチュード5以上で自衛隊が緊急出動、あるいは緊急点検活動をすることができるようになったと言う。
更に大きいのがボランティアの活動だ。あまりにも手薄な救助体制に対して援助は兵庫県だけではなく、近隣府県からも多くの救急車やレスキュー隊の車などが災害地に向かったが、大渋滞でなかなか到着することができず、火事を食い止めることもできなかったと言う大きな反省もあった。
そんな中で日本各地から多くのボランティアの人たちが、リュックを担いで神戸に乗り込んできた。このような大掛かりなボランティアについては、おそらく日本で初めてだったので、その対応も混乱を極めていたが、次第に整理されボランティアの割り振り等も後にマニュアル化されたりして、以後の東日本大震災などにも生かされるようになって行く。
自分が当時勤務していた学校の生徒たちも、大人と一緒に日曜日を利用して、神戸にボランティア支援に入っていった子が何人もいた。自分は当時の状況からとてもそこまでできなかったものの、生徒たちの具体的な動きには感心したものだ。また生徒会が自主的に動いて募金活動して、少ないながらも神戸に送り届けたと言う活動も大いに評価していた。
こういうところが、ある意味日本人の偉いところだと思う。困った人がいれば助ける。それを比較的自然な思いの中で行動に移せると言うところが素晴らしいと思う。

あれからもう23年とは思えないほどだ。震災から1年後に、あるテレビ局で震災の発生から復興への動きをまとめた特集番組が放送された。それはビデオに録画し、今ではDVDに移して保存してある。 貴重な歴史的な出来事の記録して大切にしているつもりだ。
6月に3年生の生徒たちを引率して、山陽新幹線に乗って長崎の方へ向かった。震災から半年経っていなかったが、車窓から見た神戸の街の悲惨な状況はまだそのままだった。修学旅行と言うこともあって、生徒たちは、また引率の先生たちは自分も含めて、阪神大震災のことをもはや遠くに置いているような心境でもあった。
それから1年経ち2年経ち5年、そして10年・・・毎年1月17日の早朝には慰霊が行われている。23年も経てばその記憶も次第に風化され、表面上はすっかり復興した神戸の新しい街がある。しかし一方、復興に伴って地域社会がバラバラとなり、特に高齢者にとってはそれまでの近所付き合いが崩壊し、孤独死と言う新たな問題が出てくるようになり、それに対応すべく、こういったケースでの新しい研究がなされるようにもなった。
公的な援助があったとは言え、すべてがその援助で生活が成り立つわけではなく、被災者にとってみれば大きな負担を強いられることにもなり、たまたま住んでいた地域が大きな災害にあったために、人生設計が大きく狂わされたと言う人々も大量に出た。こういった問題が解決されないまま表面上の復興は、さすがに23年も経つと、復興は終わっていると言うふうに見える。


先日テレビ放送のニュースを見ていると、震災後に生まれた震災を直接知らない大学生たちが、お年寄りを相手に心の安定を図るためのボランティア活動をしている様子が報道されていた。そういった意味では震災そのものは、人によってはまだまだ終わっていないと言えるんだろうと思う。
自分にとっても直接的な被害がなかっただけに、阪神淡路大震災は比較的早く遠いものになってしまった。尚神戸の友人宅は無事だったと聞いた。しかし2011年3月、まさか阪神大震災を上回るほどの巨大地震が東北で起ころうなどと言う事は全く考えてもいなかった。自分の生きてきた人生の中で、こんな巨大地震が2回も起こるなんて、どうにもこうにも信じ難いと言うのが本当の心境だ。さらに地震研究が進み、近い将来南海トラフ大地震が起こることがほぼ確実視されている。そうなると四国から関西東海にかけて甚大な被害が予想されている。ある意味、日本と言う国の宿命なのかもしれない。今も地下深くでは太平洋プレートのが少しずつ動いて、アジアプレートの下に潜り込んでいると言う。お互いのプレートのせめぎ合いが最高潮に足したときに、カタストロフィックな大暴発が起こることになるんだろう。
その時に備えているのかと言われれば何にもしてないのが実情だ。不謹慎だが、自分のように爺いになってしまうと、死ぬこと自体に大きな恐怖は覚えないようになってしまっていて、言葉は悪いが「なるようにしかならない」と言うふうな受け止め方になってしまっている。まだ20歳ならなんとしても生きたいと思うだろうが、何せ歳の問題でこんな風な心境になってしまった。
でも今から考えてみれば、阪神淡路大震災の起こった1995年の前年1994年、秋ごろから小さな地震が頻発していたのを思い出す。「また地震が起こっている」「最近震度2や3クラスご地震が多いなぁ」と言うのは実感として覚えている。ひょっとしてこれが阪神淡路大震災の予兆だったのかもしれない。当時の気象庁や地震学者たちはどのような総括をしたんだろうか。それらが後の巨大地震に活かされたんだろうか。地震予知はいまだに非常に困難だと言う。確かにそうかもしれないけど、東日本大震災では死者行方不明者が2万人にも達している。やはり予算を組んで、必要な地震計などを各地に一層進めてもらいたい。耐震化工事も進めてもらいたいと思う。
尤も我が家は阪神淡路大震災で屋根瓦が一部ずれて落ちかけたりするような状態になっていた。後日そこから雨漏りがし始めて、仕方なく家の修理をする羽目になってしまう。でも耐震化工事はしていない。独居爺いだし、そのために何百万もお金をかける気は全くない。どうしても「なるようにしかならない」との心境になってしまう。

神戸市を中心とする被災地域は、確かに復興はしたんだろう。テレビでもしばしば神戸からの中継映像などが映るが、超高層ビルが立ち並び道路も拡幅され、商店街も非常に綺麗で23年前の姿が想像できない。
しかしその一方で地域社会がバラバラにされ、孤独な生活を強いられる人々や、上にも記した孤独死の問題など、いわゆるインフラ整備だけでは人間の気持ちというのは満たされないと言うことが大きくクローズアップされ、その問題はいろんな意味でいまだに続いている。だからこそ若い学生たちがボランティアとして、独居老人などを前にして様々な取り組みをしていると言うのは、本当に偉いと思う。
確かに行政側にもいろいろな問題や課題、財政面の問題とあるだろう。国がどれほどのことをしたのかは知らないが、未曾有の大被害に対して国を挙げて復興に取り組むと言うのが大前提であり、同時に一人ひとりの生活環境と、思いに寄り添って、復興計画を立てることが大事だと改めて思わされる。

(画像は全てウェブより)
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大阪ABC朝日放送テレビの浦川アナウンサーは強制降板させられたのか・・・

2018-01-17 22:03:30 | 社会

関西で夕方5時から放映されているABC朝日放送テレビの「ニュースキャスト」と言う番組は、単にニュースだけではなく、様々な情報も加えた幅広い対象を扱う番組で、自分もかなり好きで、夕方にはほぼ必ず見ていた。
この番組のメインキャスターは、浦川泰幸アナウンサーで、40代半ば。彼は日本の政治の様々な問題について、ズバズバと問題点を庶民目線でわかりやすく指摘し、突っ込んでいた。その姿勢とコメントには多くの共感できる部分があり、さすが関西で、東京のキー局とは違うな、と毎日感心しながら見ていた。

ところが12月初旬、突然アナウンサーが交代し、浦川アナウンサーは体調不良のためにしばらくお休みをいただきますと言うコメントが流された。その前日も見ていたが、浦川アナウンサーは体調不良等を全く感じさせない、いつもの元気な姿で、口調もいつもと同じく政権の問題を鋭く突いていた。
それが翌日、突然体調不良で降板と言う時点で、はっきり言って、なんで?何かおかしい、と感じたのは自分だけではなかったと思う。ひょっとして自分が癌の手術をしたので、彼にもそのような重大な病気が発覚したのかもしれないなどと思ったりもしたが、いずれにしろあまりにも急なことだったので、その後ネット上を調べてみると、様々な憶測が流れ始めていた。
その後しばらくしても、浦川アナウンサーの復帰がなく、ちょっと長引いてるなと思っていた。1月に入ってそろそろと思っていたが、いつまでたっても復帰しない。久しぶりにネットで探ってみた。すると驚いたことに、12月の終わりごろにニュースキャストの番組の最後の場面で、本人のニュースキャストを卒業するとのVTRコメントが流されたと出ていた。

これに対しずいぶん多くの意見やコメントがネット上に溢れており、その中で多かったのが、あまりにも政権批判が鋭いので圧力がかかって降板させられたのではないか、と言う意見。会社側は社長のコメントとして、以前から喉の具合が良くないので、などと言う話が出たらしいが、それにしてもキャスターを降板する場面と言うのは、普通なら本人が直接スタジオに出てきて、同じ出演者の人々からねぎらいの言葉や花束贈呈などをしてから、最後に本人が生の言葉で挨拶すると言うのが本来の姿のはずだ。なのにこんな素っ気ない形で番組を卒業というのは、極めて不自然と言うしかない。

公表されている内容だけでは分からないので、あくまで推測でしかないが、やはりネット上で主流になっている、強制的に降板させられたと言うあたりが信憑性が高いのではないかと思われる。
このニュースキャストと言う番組のコメンテーターにはあの古賀茂明氏や大谷昭宏氏、森永卓郎氏、尾木直樹氏、青木理氏、小西克哉氏、三輪記子氏などの外東尾理子、村井美樹氏等々、キャスターの浦川氏と同じように政治的な問題を鋭く指摘しながらコメントを述べていて、見ているものにまだテレビでこういうことが言えるような番組があるのか、とある意味勇気を与えてくれるような内容だった。

もちろんこのようなニュースの内容だけではなく、情報番組でもあるのでグルメのコーナーや様々なエンタメコーナーなどもあったりして、決して堅苦しい番組でもなく、それでも言わなければならない事はきちっと言う姿勢の番組内容に、非常に好感が持てたものだ。

もう1年も前になるのか、ちょっと忘れたが、当時の高市総務大臣が政権批判の問題に絡めて、テレビ局の電波停止などの圧力をかけるような発言をした問題がきっかけとなって、特に東京中心とする全国紙、東京キー局のテレビ局などが、一斉に忖度を始め、揃いも揃って腰抜け腑抜け、愚鈍で無能な内容の番組に横並びになってしまった。
ニュースキャスターと称する連中も怖がってびびって、何も肝心なことを言えず、そのあまりにもの無様さに、日本のマスコミの1番の無力さ、姿勢の弱さ、やる気のなさ、マスコミの根本的なあり方を全く喪失し、骨抜きにされた脱け殻だけが残されたような有様になってしまった。

はっきり言って東京キー局のニュース番組など、どこの局も見るに値しない。もともとフジテレビや日本テレビなどは政権擁護のまさに政権御用達テレビ局そのものだし、ちょっとはマシだった朝日放送やTBSなどもキャスターが交代させられ、どこも及び腰のキャスターを揃えて、政権にお伺いを立てると言う無様さに陥ってしまった。NHKも元からして国民の視聴料に支えられているくせに、政権御用達報道そのもので、NHKの経営委員長なんかは、政府が右と言うものを左と言うわけにはいかない、などと言うとんでもない確信犯的なごまかし発言をするような有様で、ニュースを放送する責任を放棄し、報道資格などないような機関でしかない。
新聞社も同様に政権圧力だけではなく、右翼からの総攻撃によって朝日に続いて毎日も圧力に屈してしまい、ただの腰抜けに堕落してしまった。読売はもちろん安倍政権御用達の文字通り御用新聞に他ならない。産経新聞に至っては政府安倍政権と一緒になって、政権批判に対する反論ではなく、攻撃を繰り返しており、まさに右翼の悪質新聞としか言いようがない。今や新聞では地方紙が何とか頑張っていると言う程度だ。

同じようにテレビ局も関西では、毎日放送とABC朝日放送が何とかがんばってたが、毎日放送の番組で言うと「ちちんぷいぷい」と言う人気情報番組があるが、この中のニュースコーナーで弱いながらも、それなりの政権批判をしている。しかしABCテレビのニュースキャストはかなり鋭いツッコミを毎日しており、ゲストコメンテーターもかなり自由にものを言っていた。おそらくそういうところに目をつけられて、中央政府にご進言があったんだろう。また関西にもうじゃうじゃいる行動右翼の圧力もある。
また名前も出さずに狭い部屋で、パソコンやスマホに向かって気が弱いくせに、このような浦川アナウンサーを右翼的立場から非難するようなメッセージを出してる奴らがいっぱいいる。やるんやったら己の名前を出してやれと言いたい。Facebookでは名前や場合によっては顔写真も出してるから、言いにくいかもしれんが、匿名性のある媒体では言いたい放題やりたい放題、攻撃し放題だ。こういう奴らの後押しを受けて右翼がのさばっている。その右翼に支えられているのが「美しい日本」を目指している今の安倍政権に他ならない。

安倍政権にとってみれば邪魔者は消す、の立場であって、何でもかんでも強圧的に物事を進めてくる。その結果安保法制にしても共謀罪にしても、今企んでいる復古調憲法改悪にしても、強権で向かってくる事は間違いないし、このあと成立した法案を使って相互監視社会を構築し、批判者を職権でしょっ引き、さらに強権的姿勢から、ズバリ弾圧をかけてくると言う社会になっていくのはほぼ間違いないだろう。

日本国民は自分の生活さえ成り立ってれば満足してしまってるので、政権批判がなんたらかんたらはどうでもいいんだろう。国が危険な状況に突き進んでいることなど、自分に関わりがなければどうでもいいことで、なかなか声を上げるものはいない。シールズのような若者達もう残念ながら極めて少数派だ。このような現状のもとで、森本、加計問題を含め、こだけの多くの政治的スキャンダルを起こしながら総選挙では圧勝すると言うこの現実に、自分なんかはどうしても理解ができない。
単に代わりに頼りになる政党がないだけの問題だけでは無いとは思う。官邸と官庁が一体になって何十年もの長い時間をかけて、日本と言う国を天皇中心とする、戦前の国体体制に近いような形に持ってくる地道な取り組みは、それなりに功を奏していると言うことだと思う。
全国的に見れば、今回の浦川アナウンサーの卒業と言う名の強制降板は関西以外では全く知られる事はないし、極めて小さなことなのかもしれない。しかし今後各地方でも、このような動きが次々に出てくるのは間違いないだろう。既に各都道府県の各市町村議会では問題を問題として捉えないようになったらいいと言う、いい加減な議員たちのもとで全体が体制擁護派右傾化の波で、少しでも政権に批判的な動きがあったり、ちょっとでも目立った学校での取り組みがあるとすぐに取り上げて、それを叩き潰そうとする。既に地方議会によって叩き潰されたケースはあちこちにある。

浦川アナウンサーの問題から、何か全国的な日本の行く末の問題にまで広がっているが、決して別の問題ではないと思う。これから日本の津々浦々までこのような動きが浸透させられていくと考えるべきだと思う。こうして相互監視社会の中で、次にはマイナンバーに新たな情報項目が加えられ、一人ひとりの思想同行までもがインプットされ、国民の差別化が行われていく末恐ろしい社会になっていくんではないか、と自分は思っている。まさかそんな、いくらなんでも大げさな話で飛躍しすぎだ、と思われるかもしれないし、また確かに大げさなんだろうけども、その辺まで考えておかないと、小さな問題が見過ごされることが、とんでもないことにつながっていくと言う事は10分あり得ることなので、自分は自分なりに今はそう考えている。ABCアナ朝日放送の浦川アナウンサーが、また元気な姿でキャスターとして復帰してくることを切に願っている。
ちなみに、もし本当に政権からの圧力によって降板されせられたとするならば、今回のそっけない番組卒業挨拶は、テレビ局側の、あるいはスタッフたちの、せめてもの抵抗の姿勢かもしれない。このような形で放送することによって多くの憶測を呼び覚まし、こーゆー地方局にも弾圧が実際に及んでいることを知らせようとしたのかもしれないとも思える。

(画像は全てウェブより)
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京都府宇治市 縣神社・・・奇祭「縣祭り」は深夜なので、よう行かんわ

2018-01-14 22:26:26 | 撮影

 宇治田原の大宮神社を撮影した帰りに、縣神社に立ち寄った。神社のすぐ向かい側にあるコインパーキングに停めたが、チラッと見て1時間200円とあったので停めた。撮影が終わって代金を払おうとすると、なんと700円!どういうことかと思って看板をよく見てみると、1時間200円というのは夜間料金のことであって、昼間は一回700円。思わずぼったくり、ふざけるなと思ったものの後の祭り。利用時間たったの20分。観光シーズン中ならまだしも、すぐ近くの平等院はオフシーズンだ。こういう時はもっと良心的な利用料金にしろと言いたい。尤も平等院駐車場を見てみると、大型観光バスがずらりと並ぶ。乗用車も多く入っていた。やはり平等院は一年中観光シーズンということになるみたいだ。しかし腹が立つ。
   
 縣神社については頂いたパンフレットの説明書きを下に掲載してあるので、そこに詳しく載っている。創建についてはよくわかっていないらしいが、諸説あって、一説によれば大和政権の時代に、政治や祭祀等重要な役割を果たしていたようで、名前も当時の宇治県から来ているのではないかと考えられているようだ。
 境内はそこそこの広さがあり、樹齢数百年とも思えるような高い木々が立っており、拝殿、本殿の他、社務所もあって、典型的な神社の姿。場所的には平等院のすぐそばで、住宅が並ぶ一角に位置して、まあいわば町の中の神社となっている。寒いこの日もカメラをぶら下げたらおじさん達が何人もやってきていた。この後平等院の方へ向かって歩いて行った。
 この縣神社は何と言っても、縣祭りが全国的に有名で、「暗闇の奇祭」と呼ばれており、当日は近辺の人達だけではなく、遠方からも含めて10万人がやってくると言う。自分も一度は仕事で夜遅くまで祭りの様子を見ていた。仕事というのはもちろん、勤務していた学校の生徒たちが必ずやって来てるので、謂わば見張りみたいなものだ。もう一度は数年前に夕方で屋台が並ぶ通りを写真撮りながら歩いて回った。道は人でいっぱいで浴衣を着た人も多く、縣祭りの意味合い以上に、祭りがあって賑やかになる雰囲気を楽しんでいるような人たちが、子供も含めて多かった。
 祭りの内容についても下の説明書にある通りだが、実はこの祭りをめぐって、祭りを運営する主体である縣神社側ともう一方の宇治神社側の因縁と言うか、対立があって、長い間分裂開催されてきた。一時統一しようという話もあったが、やはり祭りに対する考え方の違いなのか、結局和解は達せられず、相変わらず分裂開催されている。と言っても夕方から晩にかけては屋台などに人が集まって、そういった事情は全くわからない。深夜になって付近の店や家などの明かりが全部消されて真っ暗闇の中で、梵天渡御が行われる。そのシーンは見たことないが、おそらく分裂開催の様子も多分分かるのではないかと思う。尚、梵天については、境内に一年中安置されているので、いつでも見ることができる。
 自宅から歩いてでも行けるような近くにありながら、今までは車で前を通るだけで、境内に入ったこともなかったが、今回初めて中に入って参拝し、じっくり撮影もした。病気平癒のお守りも購入した。いろんな意味で有名な神社なので、また京阪や JR の駅からも近いので、平等院だけではなく是非、全国的に知られているこの神社に行ってもいいのではないかと思う。
     

『縣神社 略由緒
 当社は天孫天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)の妃、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を奉祀し、神代以来、当地の地主神であった。「あがた」の名は上古の「県」の守護神であったことを示す。平等院建立以前では、蜻蛉日記に右大将道綱の母が宇治に来た時、あがたの院に詣でたことを記している。
 後冷泉(ごれいぜん)天皇永承七年(西暦一〇五二年)、時の関白藤原頼通の平等院建立にあたり、同院総鎮守となり姫命の御名の如く清く美しく、藤原氏の繁栄を祈誓したのである。
 明治維新までは大津市の三井寺円満院の管理下にあったがこれは平等院が三井門主の開眼にかかり、天台宗に属している事による。改築修繕はもちろん、例年五月五日(旧暦)の大祭当日は院主宇治に出張し、神前で大護摩供養親修、国家の安穏を祈誓したものであるが、維新の後、神仏分離令によってその管理からはなれ、大祭当日も新暦によって六月五日に改められた。以後数度の改築を経て、現社殿は昭和十一年新たな造営のなったものである。
 神祇の歌の中に    中原師光朝臣
わがたのむ県の宮のます鏡
   くもらぬ影をあふぎてぞまっ
            ー 新続古今和歌集 ー


あがた(県)祭りとその信仰

 六月五日から六日未明にかけて行われる全国的に著名な祭である。御祭神略伝に詳しいように、信仰は、「女性の守護神」という事に結びついた良縁成就、結婚、安産の祈祷者が多い。大祭の形式は、神の依代の神籬たる梵天を直接動かす、その故に深夜暗黒の中で行うという太古の尊厳な様式を今にとどめている。
 あがた祭は江戸時代、商都大坂、堺を中心とする町人階級の勃興と共に、極めて庶民的な「人気の神様」としての信仰と結びつき、はなやかな色彩をそえる。これは数多の奉納物によって知る事が出来るが、当時、既に「暗夜の祭礼」として世上に有名であった。そして、現在、信仰の熱烈さを目のあたりみせつけるような祭礼については、普通には、封建時代の庶民が一夜の解放感を満喫し、一種の無礼講として行われたものであり「人気の神様」として、商都の商人の商売繁昌の祈願、或は現在も多くの信者を持つ人気商売の関係などから、現在の如き信仰が生まれた、とされている。現在、固い信者と講社は大阪府、市、堺市、奈良県、滋賀県、兵庫県、京都府、市にひろがっており、伊賀、上野市一帯も含まれている。このようにして、結局、県神社の信仰は一事一願成就、商売繁昌、縁結び、結婚、安産、腹痛、下の病、家内安全、などの祈願が最も多く占めている。
 大祭の儀式中、特にやかましい五日の深夜の渡御は、五日午後十一時頃から始まり、六日深夜〇時、県神社本殿で神移しの秘儀を執行、以後一切の燈火が禁ぜられる。そして梵天渡御は、午前一時頃迄に本殿に還御される。其間渡御の道筋は全ての燈火を消す。渡御の中心たる「梵天」は一種の幣であり、神の乗物である。梵天についている幤は渡御の後、信者に分たれ、護符とされている。風紀に関してとかく俗説があるが、暗夜に燈火を消す、無礼講、人気商売、梵天の形、初夏の気候、などから出たものであろうと思われる。但し、祭の実際を見聞した人々の一致していう事は、非常にロマンチックであるという事である。県神社と宇治神社の男神を結びつける考え方があるようであるが、これはたまたま字治神社の祭神が神幸中であって、県神社の幣殿と共用されていたところからの誤解であり、現在では県祭の梵天は県神社境内の梵天奉安所に鎮座されている。
  宇治橋の神は茶の花さくや姫  宗因
  宇治船に寝惜む県祭かな    春雨
  新茶買うや県祭の泊り客    橡面坊
  五日月県の森は祭かな     子角
   (パンフレットより)

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