第二次世界大戦の終結により、占領軍向けの需要を得て、フックドラッグ業界も生気を取り戻し、大阪、堺地方を中心に生産が再開されました。
昭和23年(1948年)貿易再開と共に、アメリカ向け輸出が活況を呈して、他の産業が戦争により壊滅的な打撃を受けていたため、貴重な外貨獲得の先兵として敷物業界の活躍が、この時期の日本経済の復興に大きく貢献しました。
しかし、この頃は原料不足をきたし、とくに毛糸の生産が十分ではなく、特紡糸と綿糸とが使われていました。昭和24年~26年(1949年~1951年)は綿製フックドラッグの輸出の伸びが著しく、輸出開始の昭和24年には毛製フックドラッグの30%に過ぎなかった物が、昭和26年には250%に達するといった状態でした。
この当時のフックドラッグの品質はループパイル(わな織)の製品で、花柄の物が多く作られました。仕上は縁を手縫いする程度で、現在の様にラテックスによる裏加工はしていませんでした。
当時のループパイル
当時の原料表示をみてみると
「オールウールフックドラッグ・・・65%リブロセスウール:30%バージンウール:5%その他繊維」
「綿フックドラッグ・・・60%コットン:25%レイヨン:25%副産物」
といった状態で、わりとアバウトな品質でした。
このような状態が昭和35年(1960年)まで続きました。昭和35年からは、100%バージンウールを使用した物のみにウール製品としての表示が許されるようになりました。
このころより、100%バージンウールを使った製品がアメリカ向け輸出製品の中心をなすようになり、品質のグレードアップと同時にカスタムオーダーの受注も行われるようになってきました。
昭和33年(1958年)のチラシ
昭和23年(1948年)貿易再開と共に、アメリカ向け輸出が活況を呈して、他の産業が戦争により壊滅的な打撃を受けていたため、貴重な外貨獲得の先兵として敷物業界の活躍が、この時期の日本経済の復興に大きく貢献しました。
しかし、この頃は原料不足をきたし、とくに毛糸の生産が十分ではなく、特紡糸と綿糸とが使われていました。昭和24年~26年(1949年~1951年)は綿製フックドラッグの輸出の伸びが著しく、輸出開始の昭和24年には毛製フックドラッグの30%に過ぎなかった物が、昭和26年には250%に達するといった状態でした。
この当時のフックドラッグの品質はループパイル(わな織)の製品で、花柄の物が多く作られました。仕上は縁を手縫いする程度で、現在の様にラテックスによる裏加工はしていませんでした。
当時のループパイル
当時の原料表示をみてみると
「オールウールフックドラッグ・・・65%リブロセスウール:30%バージンウール:5%その他繊維」
「綿フックドラッグ・・・60%コットン:25%レイヨン:25%副産物」
といった状態で、わりとアバウトな品質でした。
このような状態が昭和35年(1960年)まで続きました。昭和35年からは、100%バージンウールを使用した物のみにウール製品としての表示が許されるようになりました。
このころより、100%バージンウールを使った製品がアメリカ向け輸出製品の中心をなすようになり、品質のグレードアップと同時にカスタムオーダーの受注も行われるようになってきました。
昭和33年(1958年)のチラシ