まんじろう日記

まんじろう(ボストンテリア、2009年8月1日生まれ)とのんびり更新しています。

Hooked Rugの歴史 6

2010年05月27日 | 歴史
第二次世界大戦の終結により、占領軍向けの需要を得て、フックドラッグ業界も生気を取り戻し、大阪、堺地方を中心に生産が再開されました。
 昭和23年(1948年)貿易再開と共に、アメリカ向け輸出が活況を呈して、他の産業が戦争により壊滅的な打撃を受けていたため、貴重な外貨獲得の先兵として敷物業界の活躍が、この時期の日本経済の復興に大きく貢献しました。
 しかし、この頃は原料不足をきたし、とくに毛糸の生産が十分ではなく、特紡糸と綿糸とが使われていました。昭和24年~26年(1949年~1951年)は綿製フックドラッグの輸出の伸びが著しく、輸出開始の昭和24年には毛製フックドラッグの30%に過ぎなかった物が、昭和26年には250%に達するといった状態でした。

 この当時のフックドラッグの品質はループパイル(わな織)の製品で、花柄の物が多く作られました。仕上は縁を手縫いする程度で、現在の様にラテックスによる裏加工はしていませんでした。

当時のループパイル

 当時の原料表示をみてみると
「オールウールフックドラッグ・・・65%リブロセスウール:30%バージンウール:5%その他繊維」
「綿フックドラッグ・・・60%コットン:25%レイヨン:25%副産物」
といった状態で、わりとアバウトな品質でした。
このような状態が昭和35年(1960年)まで続きました。昭和35年からは、100%バージンウールを使用した物のみにウール製品としての表示が許されるようになりました。
このころより、100%バージンウールを使った製品がアメリカ向け輸出製品の中心をなすようになり、品質のグレードアップと同時にカスタムオーダーの受注も行われるようになってきました。

昭和33年(1958年)のチラシ



Hooked Rugの歴史 5

2010年04月08日 | 歴史
アメリカのHooked Rug(フックドラッグ)産業は第一次世界大戦(1914~1918)の後、産業製品として発達し、アメリカ東部、南部の各州やプエルトリコ、カナダ等で生産されました。
 一方、日本にフックドラッグの技術が伝わってきたのは、大正10年頃(1920年頃)、赤尾善次郎氏がアメリカからパンチングマシン(シャトルフックマシン)を持ち帰り、高知県と兵庫県で作り始めたのが、日本におけるフックドラッグの始まりであると言われています。

改良された手動フックマシン

 機械の改良がなされ、原料も吟味され、綿糸や麻糸を使ったフックドラッグが生産されるようになり、昭和7年頃(1932年頃)には、アメリカ向けに年間300万円以上(現在の20億相当)の輸出実績をあげるまでになりました。
しかし、昭和12年(1937年)の支那事変勃発と共に生産が減少し、昭和15年(1941年)第二次世界大戦とともにアメリカ向け輸出に100%依存していた日本のフックドラッグ業界は壊滅的な打撃を受け、ほとんどの業者は軍事用毛布の生産へと転業していきました。
 
 アメリカのフックドラッグは高品位のカスタムオーダー品も多く生産されるようになっていきます。1939年の「Christian Science Monitor」に"catering to New York Decorators who order hooked rugs to be used in palatial home"(豪華なお家で使われているオーダーフックドラッグのご用命はニューヨーク デレクターズへ)と紹介されています。
 しかし、第二次世界大戦のあと、日本製敷物や香港製敷物の猛烈な輸入攻勢を受けて、アメリカのフックドラッグ生産は昭和35年頃(1960年頃)には壊滅的な打撃を受け、専業メーカーは少なくなってしまいました。しかし、伝統的な主婦たちによるホームメイキングは、現在でも健在で、壁掛け(タピストリー)や工芸的な敷物の製作活動がさかんになされています。

Hooked Rugの歴史 4

2010年03月29日 | 歴史
 19世紀にはいり、フックドラッグはアメリカの主婦たちのホームワークとして定着し、19世紀後半には商品としての出現を見るようになります。

1868年にE.S.Frostがフックドラッグのパターンを売り出し、大変なヒット商品になりました。その2年後にはパターンを部分的にカラープリントして売り出します。そのパターンは他の繊維製品のデザインにも大きな影響を与えることとなりました。
 E.S.Frostのデザインと型紙は、長い間アメリカで流行し、750種の型紙と、180種のデザインを有し、最低3配色から最高80配色を使いこなしていました。




彼の型紙の多くが、現代、ミシガン州ダーボーンにある、ヘンリー・フォード博物館のグリーンフィールド・ビレッジ・コレクションの中に残されています。

 19世紀後半、フックドラッグに関するもう一つの重大な出来事が、オハイオ州トレドで起きました。
Evenezer Rossが現代のフックキング・マシンの原型ともいえる最新型のシャトルタイプのマシンを開発しました。


 このシャトルタイプマシンの開発によって、彼は56種類のパターン(この中にはFrostのポピュラーパターンも含まれている。)と原材料のカーペットヤーン(パイル糸)と彼の開発したシャトルタイプマシンをセットにして、ホームワークを楽しむ主婦たちに販売しました。


このマシンの開発によって、フックドラッグを生産する工場を促すことになります。
 機械の進歩と共に、各地域で主婦たちをコントロールして家庭内で生産し、他の地域に販売しようとする者が現われます。19世紀後半になって商品としてのフックドラッグの出現を見るようになります。

 20世紀に入りフックドラッグは大きな変貌をとげることになります。
 1902年、Lucy Thomson(アメリカ・インディアン モチーフの専門家)によって、マサチューセッツ州ベルチャータウンにアメリカで最初のフックドラッグ工場が設立されます。また、ニューハンプシャー・コミュニティがHelen Albeeによって設立され、同じようなコミュニティがボストン、テネシー、ノースカロライナ、ケンタッキー、ヴァージニア等の諸州でも設立されてきました。
 コミュニティとは、デザインパターンと原材料を支給し、各家庭で商品が生産され完成品をコミュニティ組織を通じて販売するというもの。オークションで売買されることもありました。
 各家庭に支給されるデザインパターンはFrostの物が多用されていたようです。なかには、特別にオリジナルデザインの物を注文してくる人々もいたようです。
この生産システムは1960年代まで続いていました。いまでもペルシャ絨毯などはこのようなシステムで生産されています。
 アメリカ東部の博物館や個人のコレクションをみますと、その製品の品質や工芸性は年々質の高いものになってきています。

Hooked Rugの歴史 3

2010年03月11日 | 歴史
18世紀に入ると、アメリカへ敷物が大量に輸入されはじめます。
イギリス経由でインド産、中国産のストローマットが輸入された記録が残っている1720年からです。

1760年代、日本製の敷物がアメリカに渡ります。もっとも古い記録がジョージ ワシントン(アメリカ合衆国・初代大統領)が来客用のバンケットルームに使用したというものです。

ヤード幅の物を縫い合わせて使用したとされています。畳表、ゴザであったと思われます。
これが、アメリカの歴史にあらわれる日本製敷物の最初です。

1780年代、敷物の輸入はイギリス商船経由からアメリカ商船での直接輸入へと変わります。中国からイ草マットやストローマットが安く入ってくるようになります。18世紀終盤から19世紀初頭にかけ、これらのマットが庶民の間で多くつかわれ、台所のマットやリビングなどに使用されていきます。
日本製の敷物が本格的にアメリカ市場へ参加するのは、ジョージ ワシントンが日本製の敷物を使用してから100年以上後のことで、イ草マットがその対象でした。

大量に安価なマットが輸入されていく中、Hooked Rugはアメリカ全土で、作る人の夢とイメージを自由に表現できる織り方として広まっていきました。

1840年代、これまで主婦たちが自分で下絵を描いて、配色し織りあげていたHooked Rugの製法にかすかな変化が生じてきます。
それは、各家庭を回って下絵を何枚か布に直接画き、配色や織り方を指導するプロのデザイナーが現われてきたことです。

この続きは次回。

Hooked Rugにとてもよく似た敷物に Shirred Rug(シャーリングラグ)というのがあります。これは、目の粗い刺繍式の敷物で、パイルはループパイルの場合が多く、プリーツ状になったものやキャタピラ状になっているもの、バイアスになっているものなどがあります。
柄は花柄や木の葉柄がよく作られていました。花には赤やピンク、ブルーを木の葉にはグリーンを使ったものが多く作られていました。



Hooked Rugの歴史 2

2010年03月04日 | 歴史
17世紀から18世紀にかけてのカーペット

17世紀のアメリカは生活必需品の調達を英国船による輸入に頼っていました。
しかし、ヨーロッパからの輸入品は非常に高価で入手するゆとりがありませんでした。
ですので身近な物は自分たちの手で作りださなければならなかった様です。

身近にあるものを利用して、アメリカ インディアンに習った草むしろの様な敷物や、Corn Hush Mat、使い古した衣服を利用してパッチワーク風にしたアップリケのベッドカバーや敷物を作りだしました。使い古しの衣料を紐のようにして渦巻き状に縫い合わせ、チューブマットの様な敷物も作りだしました。


[Corn Hush Mat]
 トウモロコシの皮を使って編み上げたマットで、当時アメリカの農家では手じかな材料のため、無数に作られた。
 トウモロコシの皮のほか、スゲ、ショウブ、アサ、ヘンプなど色々な自然の繊維を使ってマットが織られました。

フックドラッグもこうした背景の中から生まれてきた敷物のひとつです。
そのため、アメリカではフックドラッグが、日本に於ける綴織りの様に、トラディショナルなテキスタイルの一つとして、愛着を持たれております。

こうして17世紀から18世紀にかけHooked Rug(フックドラッグ)はHandicraftsとしてアメリカ女性の間で成長していきます。
フックドラグは手鈎のような道具を使い、穀物袋の空き袋に着古した衣料をさいた物を通してパイルの様にしてマットを作っていきました。これがフックドラッグの始まりです。


手鈎のような伝統的なフッキングガン


このようにして、マットを作っていました。

Hooked Rugはアメリカの家庭内で女性たちの手で作り続けれ、余り布を使いマットやベッドカバーなどをつくり、時代とともに綿糸を染色してマットや壁掛け(タピストリー)を作っていきます。
優雅で使いやすく、美しい手工芸品 Handicrafts としてアメリカの人々の心を捕えていきました。

次回は18世紀工業化の流れが新大陸にも影響を与えていきます。




Hooked Rugの歴史 1

2010年03月02日 | 歴史
Hooked Rug(フックドラッグ)は敷物のほとんどが中近東やアジア、ヨーロッパで産声をあげたのに対して、アメリカ生まれの数少ない敷物の一つです。
アメリカ初期の生活史を語るとき、ホームワークとしてフックドラッグとアメリカ女性との関わりを避けて通ることができないほど深い関わりを持っています。



1620年頃、英国の清教徒がメイフラワー号で新大陸への移住を開始します。
移住者たちは伝統的なヨーロッパ風の小小屋を造り生活を始めます。
その粗末な家の床には、砂、乾燥した草、木の葉などを敷いて生活の第一歩をスタートさせたと言われています。

その頃のヨーロッパの庶民の家屋では床に木材を使う習慣がなく、家屋内の床は殆どが石灰を加えてよく引き延ばされたローム(砂、粘土、有機物質の混じった黄褐色の土)を使い、固めて磨き上げて、日本の漆喰の様にして生活をしていました。
エレガントな家の床は、いろいろな色を使用した化粧漆喰で作られていたようです。

こうしたヨーロッパの習慣を身につけている移住者たちも、生活に潤いをもとめ、また寒気を避ける為に、暖かい織物や敷物が必要となってきます。
そこで原住民のアメリカ インディアンにストロー、樹皮、獣毛などを使ったマットや織物の製法をおそわり使用するようになっていきます。

まだまだ、カーペットの話は出てきませんが今回はここまで!
次回をお楽しみに