今回も私自身の経験も踏まえて、「苦労」と「努力」について考察したいと思います。今一度個人的なお話にお付き合いください。
前回までのお話です。嫌いな英語とITを一網打尽にしてやろうとシンガポールでIT企業で勤めましたが、英語とITは伸び悩んでいる状態。
そもそも嫌いなので、成長しない。どこまで行っても「苦労している、畑違いだ」という気持ちが抜けない。そこで、今思うとそもそもの選択に誤りがあったことに気づきます。
間違いは以下の通り
ないものねだり
自分にないものを求めてしまった
英語とITという苦手な2つをあえてメインに置いたため、毎日が苦痛でした。そしてどこかで「これは元々私の道じゃないからな。できるわけないじゃないか」などという逃げ道まで作る始末。当然、これらに対する情熱があるわけでなく、一分一秒が苦しくて仕方なかったのです。
この状態では、この分野での成長は新たな苦しい課題を作り出すだけ。いつしか向上せずなるべく「現状維持」しようと努めることになります。
するとどうでしょう。今度は生きる活力が失われていきます。「こんなに嫌なことに我慢して、何も達成感がないのに、何のために自分は生きているんだろう」などと考え始めます。
自分にない能力をうらやむあまり、自分もそこに行こうとした結果、自分の畑ではないところに身を置いてしまった。その道の先には、どこまでも他人の畑が広がっていたということです。
ないものねだりという不純な動機でスタートするのではなく、そもそも自分の得意不得意、好き嫌いに従い、そこを軸に置いた選択をするべきでした。
苦労は良いことだと思った
この道が修行道であると信じた
苦手なものを克服するにはそれなりの代償、つまり修行が必要なのだということで、「最初の一年は辛いものになる、修行なのだから当然だ。しかし、これを乗り越えた先に明るい未来がある」と常に自分に言い聞かせていました。自分自身を洗脳し、苦手を得意に変えようとしたのです。それはとても崇高で立派なことだと信じていました。
しかしそれは幻想でした
結果、これらを人並みにできるようになった今でも「嫌いなものは嫌い」です。情熱もわかないので、なるべく時間を割きたくないですし、取り組むには「それなりの気合」が必要となります。自身の成長にもなりません。
結局、
人間苦手なものは苦手なのです
結局、人間が苦手なものを無理に克服しようとしてもなかなかそうはいきません。強い意思でそれを好きであるとだまそうとしても、潜在意識が拒否反応を示します。
こんな状態で苦しみながら取り組むことが「苦労」ということです。
苦労の先にあるのはどこまで行っても「苦労」です。嫌々ながらやってそれを乗り越えても、また更なる苦労が待っているのです。
それは潜在意識が全力で拒否しているので、「これはあなたの道ではありません。すぐに変えなさい」ということを示しています。
おそらく「苦労」というのは、この誤った道を修正するきっかけを知るのに使ってあげると有用なのだと思います。
ですのであえて言わせて頂きます。
「苦労は報われない」
今苦労していると感じているなら、現状維持ではなく、何か別の道や方法を検討する時期なのかもしれません。
明日はこの「苦労」することについてまとめたいと思います。
ここまで読んで頂き、誠にありがとうございました
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