連れ連れ気

心を連れて思いのままに自分らしく

実は私(2)

2013-10-26 | 実は私

《小学校の頃1》

今の私の記憶は、方丈記の一節『行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びてしかもとどまるためしなし』のようになっています。
特にこの頃はとどまる時間が短くて、新しき記憶が泡のごとく消えてしまいます。
又古い記憶も川の流れに流されてしまい、かなり曖昧になってきています。

それでも印象的なことは、鮮明に情景や色合いまで覚えているから、不思議ですよね。
この驚異的なギャップに悩まされるのが現状ですので、宇宙からのメッセージのように
記憶のずれが生じることは日常茶飯事です。
だから、はっきり言って小学校の事は、曖昧なところが多いのが現状です。
その曖昧さの中で、小学校の時に起きた印象的な出来事は、鮮明に蘇ってくるんです。

小学校3・4年の頃だったと思います。
私は兄二人が居る末っ子で、兄達と男の子のように遊んでいました。
ですから、周りからは『男女』、『きかんこ』、『強情っぱり』『スピーカー』などなど、悪い印象で囃し立てられました。
また、その当時は、身体のことを取り上げて囃し立てたりは日常茶飯事でしたから、
内股である私の歩き格好を、『アヒルの行進』などど笑い立てたり、成績が悪かったので『アホ』とか『馬鹿』とか言われました。
勝ち気のイメージが有る私ですから、そんなことを言われるとかかって行ったりもしていました。
かかっていけば悪循環になり、余計囃し立てられる始末でした。
 親に話しても、「お前がきかないから、お前が悪いんだ。」と言って、聞く耳を持ってくれませんでした。
夜になると、布団をかぶり悔し泣きをしていました。
近年の状況ならいじめになるのでしょうが、あの当時はいじめなんて言葉も無い時代でしたからね。
自分が悪いと、ただただ我慢するしかなかったのです。

 そんなある日、クラスでも成績が優秀なA子さんと、口論になりました。
どんなことで口論になったかは、今では定かで無いのですが、
口論が最高潮に達して、取っ組み合いの喧嘩になってしまいました。
そんなさなか、私の歯がA子さんの顔にぶつかり、Aさんに傷を負わせてしまいました。
当然先生に叱られ、家に戻って母親を呼んでくるようにと言われ、学校を出されてしまいました。
家に母を迎えに行く途中の心境は定かでなかったです。
どんなふうに親に話したらいいか、親の怒る顔を想像すると足がすくみました。
このままどこかに、消えてしまいたくもなりました。
その後のことはよく覚えていないのですが、母にびんたを貰い、しこたま怒られたことは覚えています。
現在なら、いくら悪いことをしたからといって、一人で親を呼びに行かせないでしょうね。

その後私は、『狂犬』と言うあだ名を付けられ。益々皆から囃し立てられる始末でした。
子供心にさすがに自分が悪いと思ったのでしょう、かかっていくことはしませんでした。
悔しくて涙をこらえて、歯を食いしばって学校に行ってました。
だって学校に行かないというと、母がものさしを持って追いかけてくるから
行くしかなかったのです。

なんと非常な時代だったのでしょうね
そんな時代で、自分が悪いにせよ、よく私は生きていたなーと思いますね。
よくよく私の根性は強かったのか、場当たり的感覚だったのかその性格が今もなお続いているってことですかね。

 

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