《中学校三年の頃》
私は、勉強をすることが大嫌いでした。
授業中はノートの片隅に漫画を書いたり、先生の似顔絵を書いたりして、先生からゴツンされていましたね。
もちろん予習復習もせず、学校の教材に関係ない本ばかり読んでいました。
特に沢田研二が好きで、沢田研二のスクラップブックを作ったりもしていました。
夏休みの宿題は、いつも夏休みが終わる頃に渋々手がけるので、
結果ほとんど手つかずで提出して、いつも各教科の先生にそれぞれに、叱られていました。
夏休の宿題にかぎらず、普段の宿題もほとんどしていなかったから、
宿題を提出する時までの心理は、どんな言い訳をしようかなど、穏やかではありませんでした。
きっと宿題をした時よりも、宿題をしないほうが、エネルギーを要したのに、
どうしてしなかったのか、今思うとあの時の自分に、説教しに行きたい気分です。
そしてテストは、国語と理科を覗いてほとんど0点か、それに近い点数しか取れませんでした。
後に、ドラえもんのアニメを始めてみた時に、こんな子(のびた)が私以外にも居るんだとホッとしたことがありました。
どうして、国語と理科が良かったかというと、その時の先生がお気に入りだったのです。単純ですよね!!
そんな私が高校進学の時期に、高校に行きたくなくて、「美容師になりたい」と母親に談判したことがありました。
しかし、母は「いまどき高校ぐらい行きなさい。美容師は高校を、出てからも出来るから。」と言って
断固として私の思いを聞いてくれませんでした。あの時の母を随分恨みもしました。
きっと思い通りにならないことを、母のせいにして自分を正当化したかったのかもしれませんね。
そんな母に逆らえず、高校進学を受け入れてしまいました。
成績がいまいちの私でしたので当然、志望高校は限られてしまい、選択肢はない状態でしたね。
進学に向けて、多少勉強しましたが、いつも机と仲良しになり、ノートがよだれで地図を書く事の連続でしたね。
そんな私でも、なんとか高校に行けたのですから、笑っちゃいますよね。
実は私は、本当に美容師になりたかったわけではなく、勉強することから逃げたかっただけなのです。
あの時、母がすんなり私の思いを受けていたら、その後の私の人生はは随分変わっていたかもしれませんね。
その逃げることが、今まで幾度と無くありました。
逃げてきたことを後悔して悩んだことも多々ありましたが、結果逃げながら生きてきたのは事実です。
そんな、過ぎてしまった事を言ってもしょうがないですが、
還暦を迎えた私の今までの人生を、ちょっと振り返ってみたくなりまして、
『実は私』のカテゴリーを設けることにしました。
極普通の人生を送ってきたと思いますが、そんな私の今ある事は、
きっと過去の思いが礎になってのことだと思います。
《昭和43年の出来事》
10/13 第19回オリンピック・メキシコ大会.日本は215人参加