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続き・・ゆらぎの文化

2010-11-23 23:07:24 | 日記

ゆらぎの文化 感情、思考、感覚、生活観念、対人感覚それの大きな揺らぎ。ある限度を超えるとそれが異常なのか?
だれにもゆらぎがある。それがある線を越えれば、常識を逸した行為、思考、感情、生活、対人感覚感情といわれる。
そして別の世界の人間としてはじいていく。
「ゆらぎ」これが統合失調症、または精神障害者の文化なのかもしれない。
正常異常のの区別、それが病気の区別!?その大きな揺れが押さえるのが、薬による対症療法だとしたら、人との出会い、つながり、信頼から来るのは、「ゆれ」を内から受け止め、また「ゆれ」を周りが受け止め、「ゆれる」ままにいられるようになる。そのゆれるままが不安を取り除き、安心してゆれる(病気になれる)のだと思う。
それがSonに起こったことだ。ゆれを止める=治療だと思っていたが、親の独りよがりな思いだった。今は安心してい揺れている。
べてるの家の当事者研究はこの「ゆれの文化」の発見なのかもしれない。新大陸の発見と同じだと思う。違う世界の中で暮らしていた人・・・自分のまわりになじまない・・・異・・・それが長い漂流の後に新大陸にたどりつき、同じ文化をもった人々に出会い、自分の心の国を見つけた。それがピアなのなかなと思った。
わたしたちはまだ気がつかないのかも知れないが、本当にゆれの文化というのがあるのかもしれない。それをただ一言で、異常だとか、病気だとはいえない。
異質な文化を恐れ警戒し、それを排除することがいいことと思い込み、それが病気が治るとか治療とかリカバリーと思い込んでいたら、当事者主義の医療や福祉は無理だと思う。
それは次に見た映画「カッコーの巣の上で」が証してくれた。


The culture of Amplifier・・ゆらぎの文化

2010-11-16 22:19:54 | 日記

久しぶりのブログ!
というのは長い間考え事をしていました。
月の灯り事業所のMさんの退院、そしてTさんの幻聴や病気の話し・・・自然と自己研究が小さな場で自然に始まっていました。
そしてそれを聞いていた息子がある日から語り始めるようになりました。
幻聴や幻覚について。
退院してもうそれは治り無くなったと思っていたのに、本当はまだあったのです。月の灯り事業所に息子が利用者となり入ったことで、仲間から語ることを知り、そして今では安心して病気になれました。
退院=治った⇒リカバリー・・・これこそ親の妄想にしか過ぎないことが暴かれたのです。
それはわずか二月前のことです。
それからべてるの本をまた読み始め、そして観察者の目で当事者を見、そして職員として寄り添い、協働し、そしてまたその自分を含め全体を好奇心旺盛な観察者の目で見・・・
そんな時外務省の外国人高校生招聘事業で中国の16歳の少女が我が家にホームステ-に来た。大きな中国そればかりが中国だったが、予期せぬ中国人少女との2日間の滞在で私は小さな中国に会いました。それは自分の思っていた中国とは違う、全く別の中国でした。同じ人間、しかしまったく違った別物の文化をもっていて、日本の文化のはかりでそれを計りどうのこうと評価することのナンセンスを知り、そして面白さを感じた。
今の大騒ぎの自体の中、反日デモなどはそれはほんの一握りの人たちの行動で本当は皆日本ファンだと、そしてアニメや漫画が大人気で文化の中心になっていて、それを提供しているのが違法コピーで、「中国人は何でもコピーします。コピー大好きです。コピーは中国の文化です。」その一言に大笑い、そしてすべてに通じたのです。まさに文化の違い、それを良し悪しということはナンセンス。
そこから統合失調症の文化があるのではと思った。文化が違うことで、大多数の人の文化が少数の人の文化をおかしいという。統合失調症も文化の一つで、それを正常と思う人がおかしいと言うのではないか!
違うTさんがよく「ゆれる」ということを言っていた。それがいつも病気の鍵だった。今日「17歳のカルテ」という映画を見て、その最後のシーンで「Amplifier」ゆらぎ・・とう言葉が出てきて、そうだ「The culture of Amplifier・・ゆらぎの文化」というのが頭に思い浮かんだ。
そう今日からこのゆらぎの文化を研究する。
それを知ることがかぎだと思う。統合失調症は大きなゆらぎを持つ文化だ。小さなことが大きなことにゆらぎ、心を支配し圧倒する。そして反面大きなことがゆらぎ、小さなこととなる。常識人に大きなことが、ゆらぎの文化人には小さなことなので、それを常識人は異常だという。
前に「力の文明」と「愛の文明」、「戦争文化」と「平和文化」のことについて言ったが、それとつがながる。
常識人のこことは今にいつもある。時間の中で揺らがない、しかし「ゆらぎの文化」では時間の中を揺らいでいく。心ここに定まらずだ。思いが過去に飛んだり、或いは未来に飛んだりする。そうするとそこにはその人の体があっても心は飛んでいる。それを見て、おかしいと思う。そう「ゆらぎの文化」は4次元的であり、そのゆらぎの方向は時間軸なのだ。
続く・・・