雨が降る時
WHEN IT’S RAINING
APRIL 25, 2014
ジェームズ・マッコンキー
オーディオ所要時間: 11:27
オーディオ・ダウンロード(英語) (10.6MB)
「後になれば‥‥実を結ぶようになる」
夏の夕立が降っています。詩人は窓辺にたたずんで、それを見つめています。地面に激しくたたきつけるような、どしゃ降りの雨です。しかし、詩人はその想いの中で、目の前に降る夕立以上のものを見ています。まもなく潤った大地にいっせいに芽生えて、そこを比類のない美と芳香で満たすであろう、無数の美しい花々を。それで彼は、こんな風に歌うのです。
私に降るのは雨ではない、それは舞い降ちるラッパスイセンの花々
地を打つ雨の一粒ごとに、丘の上の野花が目に浮かぶ。灰色の雲が終日立ちこめて、重く町にのしかかっても私に降るのは雨ではない、それは舞い落ちるバラの花々。
おそらく誰かが…たった今もこう言っているかもしれません。「おお神よ、今夜はどしゃ降りの雨です。試練が雨のように私に降りかかって、耐えられそうにありません。大切な計画がことごとく失敗に終わり、失望の豪雨に見舞われています。愛する人々が次々にこの世を去り、つらさのあまりこの心は縮み上がり、震えます。最近は本当に、災いの雨が私の魂に激しく打ちつけているのです。」
しかし友よ、そうではありません。降っているのは雨ではなく、祝福なのです。父なる神の言葉を信じるなら、激しく雨の打ちつける地面から、以前は決して育たなかった、芳香を放つ美しい霊の花々が芽生えているのです…。
確かに雨が見えます。しかし、同時に花も見えないでしょうか? あなたは試練に心痛めますが、神はあなたの人生において、まさにその試練の下に芽生えつつある、信仰という優美な花を見られます。あなたは苦しみを忌み嫌いますが、神はあなたの魂に、苦しんでいる他の人々への優しい気遣いが生じるのをご覧になります。あなたは失望を見ますが、神はまさにその失望から生じる、神聖にしてまったき御心への甘美な服従をご覧になります。あなたの心は悲痛な死別にたじろぎますが、神はその悲しみがあなたにもたらす深みや豊かさをご覧になるのです。
あなたに降るのは災いではありません。それは優しさや愛や思いやりや忍耐や、聖なる御霊から生じるその他の花や果実であり、それがあなたの人生に、この世の繁栄や安楽があなたの内なる魂に決して与えることができなかったような霊の豊かさを、ふんだんにもたらしているのです。
あなたはこう言っているのでしょうか。「だが、神に手入れしていただかなければならないなんて、私は何と実を結ばない枝なのだろう?」と。 いえ、そうではありません。神が手入れされるのはどんなたぐいの枝かに、気づかなかったのですか? この言葉を聞いて下さい。「実を結ぶ枝は、手入れしてこれをきれいになさるのである。」1 手入れされるのは、実を結ばない枝ではなく、実を結ぶ枝なのです。なぜでしょう? 「もっと豊かに実らせるために」です。
ですから、手入れをされるというのは、役に立たないことの証拠ではなく、むしろ実を結んでいる証拠なのです。手入れされるのは、実を結ぶ枝だけなのですから。他の枝は「とりのぞかれて」しまいます。つまり、神の手入れは実を結んでいる証拠であるのと同時に、さらに多くの実を結ぶという約束でもあるのです。
「うみ疲れてはならない…」
特定の死別や苦しみの時に人生に訪れる、厳しい試練や試みの下で、私たちの魂はいかに沈み、心は病み、信仰は揺らぐことでしょう。「もうこれ以上耐えられない。私はこの神意のもとで、うみ疲れている。どうすればいいのだろう? 神はうみ疲れてはならないと言われるが2、うみ疲れてしまった時、人に何ができるというのか?」
体が疲労困憊した時には、どうしますか? 何もできません。あなたは自分のしていることをやめます。疲れている時、あなたは誰か愛する強い人の肩に倒れ込んで、それにしっかりと寄りかかり、休みます。疲れた魂が元気を取り戻すまで、じっと横たわって、信頼します。災いの時にうみ疲れそうになった時も、それと同様です。神は、「強く、また雄々しくあれ。」3などとは言われません。私たちの力や勇気が消え失せてしまったことをご存じだからです。むしろ、優しくこう言われるのです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と。4
ハドソン・テーラーはその晩年にひどく衰弱し、愛する友人にこう書き送りました。「わたしはあまりに弱っているので、仕事ができない。聖書を読むことも、祈ることすらも。ただ幼子のように神の御腕の中に横たわって、信頼するだけだ。」あらゆる霊的な力を備えたこの驚くべき神の人も、身体的な苦しみと弱さに面した時には、ただ横たわって信頼するしかなかったのです。そして災いの燃えさかる火にうみ疲れた時、神が愛する子どもであるあなたに求められるのも、それだけです。強くなろうとしてはいけません。ただ静まって、神が神であられ、あなたを支え、乗り越えさせて下さると知りなさい。
神の愛を思い出す
アフリカの鉱山で、世界史上で最も壮麗なダイヤモンドが発見されました。それは王冠を飾るべく、英国王に献上されました。国王は加工を施すためにダイヤをアムステルダムに送り、それは熟練した宝石工の手に委ねられました。その職人は、それをどうしたと思いますか? 彼は値踏みできないほど貴重なその宝石を手に取ると、それに目印を刻みました。そして自分の工具でそれに強い一撃を加えると、どうでしょう! その見事な宝石が、真っ二つに割れて職人の手の中に横たわったのです。何と無謀な! 何という浪費でしょう! 犯罪に等しい不注意さです!
いえ、そうではありません。その一撃は何日も何週間も研究を重ね、計画されてきたものだったのです。宝石のスケッチや模型が制作され、その質や、欠陥や、切り目のすべてが、細心の注意を払って計画されました。宝石を任された人物は、世界で最も熟練した宝石加工職人でした。その一撃が間違いだったというのでしょうか? いいえ。それは宝石工の技巧の頂点とも呼べるものでした。それに一撃を加えた時、彼はその宝石に最も完璧な形と輝きと、見事な光輝をもたらしたのです。壮麗で貴重な貴石を台無しにしたように見えた一撃は、実際は非の打ち所のない施工だったのです。半分になったそれぞれのかけらは、二つの素晴らしい宝石に加工されたのですから。そして宝石工の熟練した目は、鉱山で掘り出された未加工のごつごつした原石の中に秘められた、それらの宝石を見たのです。
このように、時として神は私たちの人生に、悲痛な打撃を加えられることがあります。血がほとばしり、神経はたじろぎます。魂はなぜこんなことが、と訴えつつ、苦悩のあまり泣き叫びます。その打撃は、あなたには恐ろしい間違いであるように思われますが、実際は違います。あなたは神にとって、この世で最も貴重な宝石なのですから。そして神は、宇宙で最も熟練した宝石工であられます。いつの日か、あなたは王なる神の冠を飾るでしょう。今神の御手の内に横たわっているあなたに、どんな加工を施せばいいかを、神は正確にご存じです。神が愛ゆえにそれが起こるのを許し、その試練の深みから、素晴らしい祝福と、あなたが思ってもみなかったような、目に見えない霊的な豊かさがもたらされるのでない限り、一つの打撃もあなたの恐れおののく心を襲うことはありません。
父としての神を思い出す
ある聾唖学校を訪問した人が、子どもたちへの質問を黒板に書いていました。やがて彼は、次のような文章を書きました。「なぜ神は、私を耳が聞こえ、話せるように造られ、皆さんを聾唖者に造られたのか?」 その恐ろしい文章は、まるで顔に食らわされた強打のように子どもたちを襲い、彼らはその忌まわしい「なぜ」という疑問を前にして、呆然と身動きもできず座っていました。その時、一人の少女が立ち上がりました。唇をわなわなと震わせ、その目一杯に涙をためて。そしてまっすぐ黒板に歩み寄ると、チョークを取って確信のこもった手つきで、次のような尊い言葉を書きました。「父なる神よ、たとえそうでも、それは御心にかなったことでした!」5
何という答でしょう! それは成熟した信者も、最も未熟な神の子どもも同様にしっかりと寄りかかることのできる永遠の真理に手を伸ばして、しっかりとつかみ取るような答です。すなわち、神はあなたの御父であられるという真理に。あなたは本気でそう思っていますか? 心から疑いなくそう信じているでしょうか? それなら、あなたの信仰という鳩は、もはや延々と飛び回って疲れ果てることなく、平安というとこしえの休み場に宿ることでしょう。
「あなたの父!」ああ、それがすべてを物語っています! あなたの父であられる神が、あなたの期待を裏切ったり、あなたを忘れることなどありえましょうか? 自分の父心を、よくよく探ってご覧なさい。あなたの心の中心を占めている、あの愛らしい子どもを、どんなに強く、優しく、言葉に尽くせない愛で愛しているかを。そして自分にこう言うのです。「神が父親として私を愛してくれる愛は、これらすべてをはるかに超えるほど大きい。」と。
1940年初版ジェームズ・マッコンキー著“Chastening,”より。朗読:サイモン・ピーターソン。
1 ヨハネ 15:2.
2 ガラテヤ 6:9を参照.
3 ヨシュア 1:9.
4 詩篇 46:10.
5 マタイ 11:26.