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ネガティブさの麻薬!

2022-02-07 14:20:47 | 日記
ネガティブさの麻薬

 19.(イエス:)ネガティブ思考の人間というのは、麻薬中毒のようなものだ。それも、どこにでもあるような麻薬ではなく、何の良いところもなく、ただ恐ろしいほどの依存性を持つだけの、本当に悪い麻薬だ。いったんそれを経験し、吸ってしまうと、とたんに抵抗力が弱まり、すぐさま習慣になる。ネガティブさの麻薬を吸うと、何度も悪いトリップをして、そのたびに、深く、暗い、泥沼に落ちていく。ネガティブさと戦ってそこから救出されないなら、最後にはあきらめて、ネガティブさに負けてしまう。だが、どんなに長い間ネガティブさに耐えて生きてきたとしても、あなたはそれを克服できる。

  20.もし正気なら、何の得もない、何かとても恐ろしいものの中毒になるに任せる人などいないだろう。さて、サタンはすべての薬を糖衣でくるんで、ゆっくりと、ずる賢く、あなたの肉の思いと見せかけの理論に訴える方法で与え始める。

  21.ネガティブさは他のとても多くの霊的問題や、さらには肉体的問題につながる。だから、敵はこの策略をとても好むのだ。ネガティブさの背中にはとても多くのものがおんぶしている。批判的態度、苦い根、嫉妬、落胆、うつ、さらには摂食障害、不眠症などの肉体的な問題でさえもだ。ネガティブさに対して扉を開けると、知らない内に他の多くの間違った物事も引き入れてしまう。

  22.わたしの子供たちはたいてい、何度かはネガティブさに試みられたことがある。いつだって、何かの面で自分よりも才能がある人や、自分もほしいと思うような物(それがどんなに小さな物でも)を持っている人がいるものだ。サタンは何か論理的で筋が通っているものから始めて、その上にだんだんと築いていく。

  23.敵は何食わぬ顔でそれを始める。最初は邪悪な誘惑に少しの真実を混ぜる。軽い「かわいそうな私」病にかかるのは、ほとんど慰めにもなると言えるほどだ。もしかしたら、あなたは何かの面で進歩しようとしているけれども、それが難しいのかもしれない。敵はそこにつけ込む。あるいは、あなたにはボーイフレンドやガールフレンド、夫や妻がいないのかもしれない。すると、敵はそこから手を着け始める。あるいは、その日、誰かがあなたよりも証しの結果が良かったとか、他にも色々あるだろう。ほんのちょっとしたことでも、あなたの思いにネガティブさの種を植えるためのきっかけになる。そして、すぐさまそれに対抗しないと、どんどん大きくなって、手に負えなくなる。そして、あっと言う間に、予期していたよりもとても多くの問題を抱えてしまう。

  24.しかも、さらに悪いことに、いったんネガティブさを取り入れてしまうと、自責の念に対しても扉を大きく開いてしまうことになる。ネガティブになるのは正しくないと知っていて、そうなりたくないとは思うが、「もう手遅れだ。私はひどい失敗者だ。すでにネガティブさを中に入れてしまい、私は負けてしまった。だから、私はこれからずっとこのままなんだ」という思いに襲われる。自分の心の庭を見渡すと、そこは実にめちゃくちゃで、雑草だらけなので、「もうやめてしまえ!」と考えるのだ。

  25.けれども、その時、あなたは気づかなければならない。助けを呼び求め、ネガティブさの雑草を取り除きたいと心に決めるや否や、その習慣がどんなに悪くても、どんなに長い間ネガティブだったとしても、わたしが強力な斧を持ってやってくるのだと! わたしは雑草を切り倒すだけでなく、あなたの庭をきれいにして、すべてを完全な勝利に変えることができる。


心の戦士へ

2022-02-02 23:13:06 | 日記
「子どものために働き、そして養い、学校へ行かせ、そして平穏な日々、それが幸せ」それがあの日から変わってしまいました。そして悲嘆のうちに最後の手段として、たどり着いた病院の扉が、それが再生のための新しい扉でした。順調、成功、勝利、・・・それが幸せの道・・・そこからの逸脱と転落。あまりにも人生はわからない、・・・・しかしうまく行かないのが人生・・・その真実を知りました。それこそ・し・あ・わ・せ・の意味を体で知って行くはじまりでした。
標準からの逸脱、幸福の剥奪、そう思えた、息子たちの出来事、しかしそれは虚構の幸福からの目覚めでした。あまりにも常識の幸福論の道筋は狭く細く、誰でも脱落してしまうほどの頼りない道でした。そこから落ちたとき、道端は泥でも雑草のあぜ道でもありませんでした。それは前以上に美しく力強く、豊で楽しい道だと知りました。そしてそこに、なんと沢山の人がいたことか、そこは道ではなく広い野原で沢山の花と美しい木があり、そして足元には沢山の宝石が落ちていました。ありきたりの人生観と幸福論、まさに3年前までは私はそこの領域に踏みとどまっていました。なんと常軌を逸していたのだろうと思います。そこは虚構の国であり、未熟な人間の国でした。そして成長のない世界でした。
息子のことで、若い人のことを知りたくなり、娘と一緒にTVのドラマや音楽番組や映画を見るようにしました。楽しくなりました。青春がまたやってきたように感じました。そしてやっと知ることができました。わたしは何も知らないと。それからは空っぽの頭はスポンジのようにいろいろ吸い始めました。そして息子の入院、通院で沢山の標準の人生とは違った生き方をしている人に出会いました。
娘と一緒に見た音楽番組でアンジェラ・アキを知り、心の戦士を聞き、そしてそれを聞いたときに「心の戦士」になる!それが神の声でした。そして病院で出会う人を支える家族や付き添う友人が心の戦士に見えました。
まだわたしは新米の戦士です。それも戦死しかけた戦士です。
心のわずらい、障害は当人にとっては心の戦争です。それを助け勝利を勝ち取るために支え、ともに戦い苦労をしているのが、その人の家族、友人です。未熟ですが、わたしは自分の体験を活かし、当事者の苦労を知ってもらいたく「心の戦士」を立ち上げました。

まだ出会ったことのない心の戦士の皆さんへ、
それは新しい人生の発見、そして生き方、価値観の発見の戦いです。それは遊びでなく、生きるか死ぬかの戦いです。でも「ほどほどに」それがどういうわけか勝利の秘訣です。なぜならわたし達の戦いはこの世の武器の戦いではありません。愛する人の人格を破壊する目に見えぬ敵との戦いです。1人では100人、2人では10000人を倒すという言葉が聖書にあります。そしてどういうわけか勝利は定まっているのです。なぜなら目に見えぬ敵は決して私たちの生きている命には手をふれることができないからです。そして闇は光に勝てません。
どんな小さな光でも、それが灯るなら闇は存在できなくなるのです。心に灯る小さな希望、それは失望を消し去ります。「あなたの信仰通り、あなたの身になりますように」という聖書の言葉の通り、あなたの信じることは、現実となります。心の信じる力には不思議なものがあります。
出会ったことのない「心の戦士」のみなさんへ、ともに戦いましょう。健闘を祈ります
「たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。」ミカ書7章8節

心の戦士へ

2022-02-02 23:13:06 | 日記

「子どものために働き、そして養い、学校へ行かせ、そして平穏な日々、それが幸せ」それがあの日から変わってしまいました。そして悲嘆のうちに最後の手段として、たどり着いた病院の扉が、それが再生のための新しい扉でした。順調、成功、勝利、・・・それが幸せの道・・・そこからの逸脱と転落。あまりにも人生はわからない、・・・・しかしうまく行かないのが人生・・・その真実を知りました。それこそ・し・あ・わ・せ・の意味を体で知って行くはじまりでした。
標準からの逸脱、幸福の剥奪、そう思えた、息子たちの出来事、しかしそれは虚構の幸福からの目覚めでした。あまりにも常識の幸福論の道筋は狭く細く、誰でも脱落してしまうほどの頼りない道でした。そこから落ちたとき、道端は泥でも雑草のあぜ道でもありませんでした。それは前以上に美しく力強く、豊で楽しい道だと知りました。そしてそこに、なんと沢山の人がいたことか、そこは道ではなく広い野原で沢山の花と美しい木があり、そして足元には沢山の宝石が落ちていました。ありきたりの人生観と幸福論、まさに3年前までは私はそこの領域に踏みとどまっていました。なんと常軌を逸していたのだろうと思います。そこは虚構の国であり、未熟な人間の国でした。そして成長のない世界でした。
息子のことで、若い人のことを知りたくなり、娘と一緒にTVのドラマや音楽番組や映画を見るようにしました。楽しくなりました。青春がまたやってきたように感じました。そしてやっと知ることができました。わたしは何も知らないと。それからは空っぽの頭はスポンジのようにいろいろ吸い始めました。そして息子の入院、通院で沢山の標準の人生とは違った生き方をしている人に出会いました。
娘と一緒に見た音楽番組でアンジェラ・アキを知り、心の戦士を聞き、そしてそれを聞いたときに「心の戦士」になる!それが神の声でした。そして病院で出会う人を支える家族や付き添う友人が心の戦士に見えました。
まだわたしは新米の戦士です。それも戦死しかけた戦士です。
心のわずらい、障害は当人にとっては心の戦争です。それを助け勝利を勝ち取るために支え、ともに戦い苦労をしているのが、その人の家族、友人です。未熟ですが、わたしは自分の体験を活かし、当事者の苦労を知ってもらいたく「心の戦士」を立ち上げました。

まだ出会ったことのない心の戦士の皆さんへ、
それは新しい人生の発見、そして生き方、価値観の発見の戦いです。それは遊びでなく、生きるか死ぬかの戦いです。でも「ほどほどに」それがどういうわけか勝利の秘訣です。なぜならわたし達の戦いはこの世の武器の戦いではありません。愛する人の人格を破壊する目に見えぬ敵との戦いです。1人では100人、2人では10000人を倒すという言葉が聖書にあります。そしてどういうわけか勝利は定まっているのです。なぜなら目に見えぬ敵は決して私たちの生きている命には手をふれることができないからです。そして闇は光に勝てません。
どんな小さな光でも、それが灯るなら闇は存在できなくなるのです。心に灯る小さな希望、それは失望を消し去ります。「あなたの信仰通り、あなたの身になりますように」という聖書の言葉の通り、あなたの信じることは、現実となります。心の信じる力には不思議なものがあります。
出会ったことのない「心の戦士」のみなさんへ、ともに戦いましょう。健闘を祈ります
「たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。」ミカ書7章8節

心の戦士

2022-02-02 23:09:00 | 日記
身近な人がある日からおかしくなる。とっても辛いことです。今までとは何か別の人になってしまう。それまでの幸せな生活にひびが入り、何かがずれて行く。今日は大丈夫かなと不安がいつも心にあり、なかなか落着けない日々。自分がわるかったのか、或いはあの出来事、いじめ、学校、職場、上司、あいつ・・・そんな悪者にしたい者の顔が浮かび、そしていつの間にか非難を心の中で繰り返し、そして疲れる日々。日々、臨戦態勢。敵がどこからやってくるかも、どんな出来事が起こるのかもわからない。とりとめも無いことを言われて、それに答えては口論になり、なかなか分かり合えない思い。どうしてわからないの・・・そんないらいら!家族みんなが巻き込まれ、幸せな団欒が、ある日は心の戦場に!誰が、なぜこんなことが起こるのか?

ある日それが障害だと知ったのは、1年経ってからでした。保健師さんとの出会い、よき医師の出会いで、道が開かれました。「精神科」と言われた私の顔を見て、保健師さんは「お父さんはまだそのような考えを持っているんですか!」といわれました。何も知らなかった私!精神科だけはと思い、内科病院をいろいろ渡り歩き、最後の最後でたどり着いたのが精神科でした。そして病名を聞かされ、無念な思い。そして入院しホームシックに心を悩ます10代の息子を見れば、行き場の無い苦しさと闇、痛みが心臓を満たすような感じでした。しかし100人に1人が羅病した体験を持ち、心の病は奇病のたぐいではなく、誰しもが体験しうるような病気の一つであると、知ったとき、そこに希望が見えました。不幸な出来事ではなく、失敗でも惨劇でもなく、誰にでも起こることなのだと。そして病気にjついて良く知り、発症から経過を知るなら、まさに教科書通りで、それは異常なことでなく、しっかり理由があり。息子は幻聴、幻覚を体験し、心の戦いを戦っていたのだと知りました。それも知らず、目に見えぬ心のかぜと気付かず、息子を寒空の下に叩き出し、「情けないぞ頑張れと」最大の無理をさせ、かぜをこじらせさせ、急性の病気までにしてしまったのです。精神的ストレスが心を圧迫し、それが脳の神経伝達物質の機能を阻害しているのです。

しかし、障害の仕組みを知った後、私の戦いは簡単になりました。確かに難しいことではありませんでした。先生からの助け、愛と祈り、そして神の言葉が答えでした。息子の幻聴や幻覚を認め、その辛さを知り、息子が心の戦士だったことを知った後は、私は援軍、「心の戦士」として彼の戦いをともに戦うことができるようになりました。それは神を信頼し、それには理由があり、ただ自分ができることをし、そして先生が助けてくれ、残りは神が世話してくださる。そして何よりも、「私は心配で心配でたまらない!」そんな思いこそ、相手の思いに敏感になっていてそれを一番気にする当人にとって、一番のストレスとなることなのです。穏やかさ、心配していないよ!・・・・と体でメッセージをアピールし、線を引いて、それから先は神様にお任せする!・・・何かが起こっても心配し、思い悩み分析することをやめて、夜は眠ることにしました。そしたら、嵐は朝には止んでいました。「心の戦士」それは忍耐、待つこと、信頼、そして時間がかかることを知ることです。そして何よりもあなたを大切に、なぜなら戦いは長期戦です。無理せず、ちょっとサボりながら、適当に、それが長期戦、持久戦、そして勝利の秘訣です。それは信頼からのみ生まれます。神様を信じなさいとは言いませんが、目に見えぬまだ発見されていない、なんらかのエネルギーの法則があり、その法則によれば、心配しないで、自分の肉の力で奮闘するのではなく、その法則にゆだねていれば、プラスの変化、癒し、成長が発生する、そう思ってください。

こんな言葉があります。信仰は恐れの終り、恐れは信仰の終り!そして愛には恐れが無い!愛には恐れがありません。目の前で自分があいまいになり、わからなくなっている大切な人、当事者・・・信頼して下さい・・・・愛の目でその人を見、希望を示すなら、必ずこの世界に帰ってきます。またあの日の笑顔や笑い、そして冗談や、あの元気な会話が戻ってきます。時間を下さい!あなたの時計の進み方と、愛する心病む人の時計の進み方は違います。あなたの一分はその人の一時間かもしれません。さあ、その人の腕時計を身に付け、その人の靴をはいて歩いて見ましょう。そしてその人の眼鏡をかけて、見てみましょう。そしたらわかります。異常ではないことを、奇病ではないことを、・・・・・

薬はあくまでも対症療法、幻聴、幻覚、妄想、うつ、心身症などの症状を和らげるだけです。真の癒しは、その人が愛されていると知り、自分に自信を取り戻し、再び人との関係を築けるようになることから来ます。誰かと愛を分かち合える、それが真の冨、そして豊かさ。さあ、今こそ、その真の人生の宝を手にする機会がやってきているのです。神は慎重に分析し、試練を配分しています。それは必ず益となるのが約束です。
そしてそうなのです。

すべてはストレスから始まります。それがその人の耐えられる限度を越えてしまうと、心や体に異常が起こってきます。その心のかぜをこじらすと、脳の伝達物質の伝達以上を起こし、心の病気を発症することになります。ですから、ぜひ、そのサインを見逃さないで下さい。それにすぐに答え、助けの手を添えることができれば、その人の苦しみは最小限ですみます。しかし、そうできなかったとしてもがっかりしないで下さい。愛するのにおそすぎることはありません。これはその人に関わる人、すべての成長につながります。これこそ、その目に見えぬものへの信頼の約束の不思議です。